一語一得 生きるためにつかうことば
「ゆるしてたもれ、ゆるしてたもれ」 吉川英治作 「宮本武蔵」より「花田橋」の章)
「一語一得」・・・この表題は、自分の生につながることばを記録するためにつけたタイトルだ。
だが、今回は中学生の自分のことば探しの前哨戦となったチャレンジ読書の思い出を記録しておきたい。今回の思い出では、このことばは自分の生の中で生かされているとは到底言えないことばだから。
吉川英治作「宮本武蔵」を読んだのは、中学生になったばかりのころだ。今はどうかわからないが、50年前の中学生は、背伸びしたくてうずうずしていた。ジュブナイルから離れて、大人の読むものに手を出し始めたのだ。
「宮本武蔵」を選んだのは、講談社文庫版が全12巻あり、1冊1冊がぶ厚かったから。どうしたわけか「長編小説を読むのが大人」という偏った思い込みがあり、”読むなら長編を”と変に力んだチャレンジ読書だった。
読み始めると見慣れぬ漢語や、「やアやア」といった吉川英治特有の表現にたじろいでいたが、やがて武蔵のやんちゃぶりや沢庵和尚の言動が面白く、また敵役のお杉ばあさんの執念深さや吉岡一門との対決に手に汗握り、物語の世界にのめりこんでいった。
記憶に残るシーンはたくさんあるが、冒頭の一語は武蔵が池田公の処断で3年の押し込め修練を終え、まっとうな人間に再生して城下に出てきたシーンの最後に出てくる言葉だ。
姫路城下で全国行脚の修行に備えていると、そこで武蔵を待っていたお通に出会う。お通は武蔵に焦がれて、一緒に武者修行の旅に連れて行ってくれと懇願する。別嬪さんの若い娘に「一緒に連れてって」と希われて断れる若人はいないだろう。もちろん武蔵も逡巡する。まっとうな人としての修練に邁進したいが、お通の魅力も捨てがたい。なによりお通が真心から「一緒に連れてってほしい」とうったえているのを無碍にもできない・・あああ、どうすればいいのか・・次の瞬間、中学生になったばかりの男子は、武蔵の潔さにびっくり仰天。てっきりお通を連れていくのか(いったんはそうした約束をする)と思ったら、なんとお通を置き去りにして、ひとり武者修行の旅に出かけてしまったのだ。花田橋の欄干に、件のせりふを小柄で刻み残して。
今振り返ってみると、尻と頭が青い(当時は中学生男子は丸刈りが普通)アオハルな中学生の目には、大人の男女の恋模様とその不思議として映ったのだった。この、今では見ることも聞くこともない「ゆるしてたもれ」の文字(頭の中では音になっている)が、なんともなまめかしく、切ない気持ちを感じて、深く心に刻まれた。男武蔵、見事!
男として生を受けたのなら、武蔵のような偉丈夫、英傑として生きてみたいと本気で思ったが、いかんせん貧相な体格、軟弱な運動神経、脆弱な根性は武蔵とは真逆の逃げの人生を送ることとなり、今に至っているわけだ。とほほ。
語感も文字面も、なんとも生めいてつやのある言葉だが、生涯使うことはないだろうな。
いずれにしても、この読書体験が中学3年間を通して”長編を読む”ことにこだわるきっかけになったのは間違いない。
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