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自分探しができる場所

【ハタコシくんとの出会い】

「こんにちは!ちょっと相談したいことがあってお話したいです!」
先月のある日の昼間、職場でお昼を食べていたらハタコシくんからラインが入った。
久しぶりの連絡である。僕と彼は普段ほとんど会うことはない。
知り合って3年ほど経つが、実際にお会いしたのは10回ぐらいかな。
でもそのうち半分ぐらいは飲み屋で二人きりで真剣に話したりしている。不思議なことに、酔ったとかではなく(二人とも酔うほど飲めない)、内容を全く覚えていないんだけど。
そんなハタコシくんに対して、僕は知り合ったときから謎の信頼感を持っている。

僕とハタコシくんの出会いは、2015年3月。
コーヒーミーティングという出会い系SNSで文字通り出会った。
当時、コーヒーミーティングに登録があった、長野市在住の20代男性は、僕とハタコシくんぐらいだったと思う。僕はコーヒーが飲めないくせに、ただ出会いたいからという不純な理由でコーヒーミーティングに登録したものの、思いの外同じ地域の登録者がいなくて退会しようと思っていたところであった。ハタコシくんを見て、こいつも単なる出会い厨かと、同類を蔑む気持ちでプロフィールからfacebookに飛び、タイムラインをパラパラとレディグレイを飲みながら眺めていた。
少しさかのぼると、2014年1月の、成人式のときの記事を見つけた。
どうやらこの人は、成人式で代表挨拶しちゃうような人らしい。イケイケ優等生タイプの出会い厨か。タチが悪い。一応記事を開き、読んでみた。こう書いてあった。

“「見えない不安」に立ち向かう方法を私は知っています。それは、「弱さを隠さず、支えあって生きていく」ということです。〔中略〕弱さを隠し強がって生きてきた私でしたが、隠すことのできない状況に出会ったとき、周りの支えというものの大きさに気付くことができました。

どうやら読んでいると、彼は学生時代に、自分に自信が持てずに不登校になった時期があるらしい。成績もトップから最下位層に転落し、思うようにいかない日々で悩みながら生きてきたようだ。

ピン、とくるものがあった。

数か月前に書き上げた、僕の大学の卒業論文。タイトルは「日本社会における居場所としてのサードプレイスのあり方」。そのまえがきとあとがきで、僕はこんなことを書いている。

“私は寮で自分の弱さを誰よりもさらけ出せるほどの親友に出会えた。”
“寮が無かったら私は今も生きづらさを抱えたまま生きていたかもしれない。”

驚いた。僕と同じことを思っている人がいる。

弱さをさらけ出すことの価値」を、それぞれの異なる実体験の中で、強く感じて生きている人がいる。

僕は大学時代の5年間、学生寮に住んでいた。
高校時代まで、自分の弱さや本音を出せずに、周りから求められるキャラで生きてきた僕は、寮で初めて、自分の素を友人にさらして生きるという経験をした。

本当の自分が全然おもしろい人間じゃないって、バレてしまうのが怖かった。周りの期待するキャラで振舞っていれば、自分を意識せず平穏に生きていくことができた。
しかし、周りから求められている、明るいキャラ、面白いキャラ、頭の良いキャラ、そんなキラキラしたものに縛られて、それを演じ続けて生きてきた僕は、自分自身を見失っていた。
高校を卒業する頃、自分自身と向き合ったときに、自分のことが本当にわからず、すごく悩んでついに体調を崩してしまった。
そんな状態で大学に入学し、そこで出会ったのが寮での友人たちである。

寮の友人たちは、食事の時も風呂の時も、いつも一緒だった。そして、気が合う人とも合わない人とも問題を話し合いで解決しながら一緒に生活しなければいけなかった。そんな環境の中、僕は自然とキャラではない自分の素の姿で友人と接するようになった。そのうちに、自分の弱みや悩みを自然と言い合えるようになっていった。
求められるキャラで生きなくてもいいんだ、ということを初めて実感した。
弱さを隠す必要は無いんだと分かった。すごく生きやすくなった。

僕とハタコシくんは、「弱さをさらけ出すことの価値」を知っている。

この共通の価値観を、それこそハタコシくんがさらけ出していたおかげで、僕は知ることができ、僕は彼に興味を持ち、その日にメッセージを送った。返事はすぐに来た。お互い、明後日からは新社会人。学生生活最後の最後に、僕は自分の心の鏡のような人と出会うことができて嬉しかった。謎の信頼感を勝手に感じていた。

これが僕とハタコシくんの最初の出会いである。これからつくっていく『おどりば』は、この共通の価値観が土台になっていると、僕はいま感じている。

【ハタコシくんからの質問。どんな空間をつくりたいか。】

昼間の「お話したいです!」ラインで、その日の夜に会うことになった。
イギリスパブの店で一杯のビールを飲みながら、彼は『おどりば』を作りたいと話してくれた。
一緒にどうかと言われ、僕は即答でYESだった。

ハタコシくんの『おどりば』の話を聞いていて、「自分と向き合おうとする人たちが集うメディア型の空間」、というコンセプトに、ものすごく共感した。

僕はふだん、愚痴聞き屋という、街の人の愚痴を路上に座って聞くという、変態な趣味活動を暇なときに行っている。
愚痴聞き屋を始めて二年が経つ。長野だけではなく、上田や松本でも開催し、また、愚痴を聞くメンバーも受け入れたりしながら、今もなお活動は継続中である。
愚痴聞き屋を続けているうちに、僕なりの大きな発見があった。

それは、「人は、いろんな自分を持っていて、そのいろんな自分の集合体が、その人だ」ということである。

とある東京の企業の社長の愚痴を聞いた。50代男性。家では子供の父親で、会社では部下を束ねるトップである。どの居場所でも彼は責任感のある、立派な大人を演じなければならない。でも、本当は弱いところだって見せたいし、甘えたいときもある。ちょっとポンコツな自分を出したいときもある。社会はそれを許さないが、そんな部分ももれなくその人の一部であり、それを出せる場所、出せる相手がいることで、その人は、初めて、そんな自分を認めることができる。

自分は、ひとつではない。
本当の自分は、いくら探しても見つからない。
探すべきは、自分のなかにある、いろんな自分である。
Aくんと接する自分と、Bくんと接する自分は、まるで違うこともある。
でもそれは、どれが本当の自分か、ではなく、全部まるごと、自分なのである。

いろんな自分を、たくさん見つけて、そしてたくさん認めること。それが、僕たちが自分自身に自信を持つことにつながる。
それが、自分自身と向き合うことだと、僕は思っている。

「自分探し」はいつからか嘲笑の言葉として使われるようになった。「自分探し」でgoogle検索してみると、否定的な記事がズラっと並ぶ。
しかし僕は言いたい。
自分探しは永遠に、死ぬまでやっていていい、と。
人は変化する生き物だ。僕たちは新しい自分を日々見つけていくことによって変化している。
変化は、僕たちが安定して生きていくための大切なテーマだと思う。
ゆれながら生きること、悩みながら生きること。
僕たちはそうやって、実は安定しながら生きている。

あたらしい自分探しができる場所を作りたい。

あたらしい自分探しをするために、自分自身を出せる場所、そしてそれが他人とゆるやかにつながっていて、人との関わりによって発掘される新しい自分を楽しめる場所。
僕はそれが『おどりば』だと思った。

これから、ハタコシくんと、『おどりば』を作っていく。
僕はとても楽しみで、とても嬉しい。

『おどりば』という空間で、
誰かがゆれながら生きる姿を想像して、
僕はいま、心をおどらせている。

【ハタコシくんへの質問】

交換日記。初めてなものでよく分からず緊張し、自分語りのオンパレードになってしまいました。。。こんなんでいいのかな。遅くなってごめんね。僕からの質問は、「ハタコシくんは自分探ししたことありますか?」あと、「好きな紅茶は?」です。答えなくてもいいよ。笑

soshi

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