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FUTATSUKUKURIのこと 2O24.O6.O3 essay

今日もいい天気。まだ夏の入道雲のようではないけれど、白い雲がもくもくと水色の空にいっぱい浮かんでいる。

今朝は何を書こうと思って考えていたら、そうだ昨日そういえばFUTATSUKUKURIの販売イベントに行こうと思って行けなかったんだったな、と思い出した。
ということでFUTATSUKUKURIのことについて書いてみよう。

FUTATSUKUKURIとは、大阪出身の谷内香衣さんというデザイナーによる"小さな服飾ブランド"。わたしは説明が下手なので、詳しい情報はホームページから引用させてもらいます。

デザイナー 谷内香衣

1984年大阪生まれ。 小学六年生の卒業文集に将来の夢はデザイナーと書く。

2003年 マロニエファッションデザイン専門学校 オートクチュール科 入学。デザイン批評の授業でカエルをモチーフにした衣装デザインを褒められ覚醒する。

卒業後も講師の先生(同校現校長)や先輩のもとで縫製を学び、劇団映画の衣装に携わる。

2009年 futatsukukuri を立ち上げ「記憶や憧れにデザインを加えて新しい価値を生み出す」をコンセプトに雑居ビルの一室で服作りに没頭する。

2014年 結婚と二度の出産を経た現在は日々の暮らしをヒントにしたエッセイのような作品作りを展開している。

ふたつくくりとは 子供の頃に憧れていた髪型。

https://www.futatsukukuri.com/

最後の一文が、このブランドの雰囲気や世界観をやさしくまっすぐに表している。そして"憧れ"という言葉。そう、FUTATSUKUKURIのお洋服は("お"をつけたくなるのだ)まさに憧れ。持ってないから欲しい、という憧れもあるのだけれど、すでに持っている服にも憧れを感じるのだ。

憧れという言葉の意味をネットの辞書で引いてみた。(こういう時に自宅に一冊広辞苑はおくべきだなあと感じる)

あこが・れる 【憧れる・憬れる】

➊理想とする物事や人物に強く心が引かれる。思い焦がれる。
➋気をもむ。気が気でなくなる。
➌いるところを離れてふらふらさまよう。さまよい歩く。

この言葉は平安時代「あくがれる」という読みで、心がからだを離れる、という意味として使われていたそう。つまり➌が元々の意味。
FUTATSUKUKURIを纏って外へ出かけると、たしかにいつもの自分とは少し違う気持ちで、電車に乗ったり街を歩いたりできる感覚がある。その気持ちがなんなのかはわからないけれど、いろんな気持ちが混ざってるのは確か。
「女の子に生まれてきてよかった」と強く思うし、セーラー服のデザインが融合されているお洋服は、セーラー服で青春時代を過ごすことのなかったわたしに、そもそも高校時代をほとんど過ごすことのなかったわたしに、16、17歳頃のみずみずしい学生気分を想像させてくれる。今の自分の輪郭が揺れてふらふらと、今の年齢がゆれてふらふらと、確かにさまよっているという言葉も案外的はずれじゃない気がする。

FUTATSUKUKURIの服は、所有していて自宅のクローゼットに収まっていても、いちばん最初に見た時の輝きがずっとあせない。憧れが、好きという気持ちが絶えないのだ。
もともとは特別な日に着ようと思って買ったワンピースも、一度きりじゃもったいないと思って普段のなんでもない日にも着るようになったのだけど、それでも袖を通すとやっぱり普段の気持ちではなくなる。いつもの自分よりも、心が凛とするのがわかる。かといってドレスのように豪華でふりふりキラキラな見た目の服なのかといえばそういうわけでもない。そこがFUTATSUKUKURIの一番すごいところだと思う!FUTATSUKUKURIの服はとてもシンプルだ。
すごく繊細なレースがあしらわれているものも中にはあるけれど、それも凝ったようにあしらわれているのではなく、デザインは至ってシンプル。でもシンプル一筋ではなく、ちゃんと「あ、これFUTATSUKUKURIだ」とわかる"しるし"がほどこされているのだ。そのしるしのなんと魅力的なこと…!
それは例えば、セーラー服を彷彿させるデザインだったり、デザイナーの香衣さんが手縫いした背部分のお守りだったり、懐かしさを感じるキルト生地やかわいらしいタグだったり……。
気になったかたはぜひホームページのフォトグラフをみてみてほしい。ほんとに魅了される。

わたしが初めておうちにお迎えしたFUTATSUKUKURIは、"神聖セーラーワンピース"という、なんとも美しい名前のついた一着だった。大学の卒業式に向けて周りの女の子たちはみんな袴を選んでいるようだったけど、わたしはせっかくなら好きで好きでたまらないという服が着たかった。袴みたいに一回着て返却というのも寂しいなと思っていたし、その後も折に触れて何度も着られるようなものを購入したいと思っていたのだ。そして卒業を来年に迎えた2O22年の12月、北浜にあるNEW PURE +というお店に訪れた時についに出会った。試着室に入ってレースの袖にそっと腕を通し、紺色のボタンを一つずつ丁寧に留める。最後に金色のベルトがきらめく二の腕のぺろんとした生地を正して、鏡の前に立つ……。これがわたしなの、と驚きに満ちた。服は着る、ではなく"纏う"ものなのだと知ったのは、この時が初めてだった。と同時に何かに包まれている安心感も心に広がった。
一着の服にこんなにたくさんのお金を支払うのは初めてだったけどいとわず、店主さんとの交流もたのしんで購入を終えた。一人暮らしの1Kの部屋に持ち帰って長押しにハンガーで吊るされた神聖ワンピースは、静かだけれどかっこいい女の人がまるでそこに一人立ってるみたいな、強い意思を放っているみたいな光景だった。
卒業式当日は、袖を通してからうちに帰って脱ぐまで、ずっとずっと特別な気持ちだった。

と、こんなふうに、とにかくFUTATSUKUKURIに心をわしづかみにされているわたし。ずっと思い焦がれているとは、このことか。今クローゼットでハンガーに吊るされてお休みしている服たちを、次いつ着よう、どんな風に着よう。そうやって考えるのも楽しいけれど、袖を通した時はもっと大きな幸福をくれる。幼少の頃や、生徒だった頃を思い出させてくれつつも、女性になってゆくというふんわりたのしみな未来も感じさせてくれる。
特別な体験をくれるFUTATSUKUKURIをそもそも知ったのは、これまた大好きなアーティストのカネコアヤノがデザイナー香衣さんを尊敬しているということを知ったのがきっかけなのだけど、カネコアヤノにまつわる話はきっとすごく長くなってしまうのでまた別の機会に書こうと思う。

こうやって書いていたら、今日はFUTATSUKUKURIの巾着バッグでバイトに行きたい気持ちになった。そうしよう。

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