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academyまでの180日間 day43

今朝は8時起床。朝ごはんは、白ごはん、ウインナー、卵焼き、昨日の残りの肉じゃが。

こないだbaseで帽子を注文してくれた方とXで相互フォローしているのだけど、その方のツイートが個人的にとても好き。生活の何気ない小さな意思、行動を起こす前の「~しようかな」という一文が、なんだかふと文字で見ると楽しげな行いに見えてきて真似したくなる。というか、さっそく真似してわたしも寝起きに、たっぷりのお水を飲んでみた。気持ちいい。でも文字で見る方がよっぽど素敵に感じるのはなんでなんだろう。言葉はとても魅力的。


午前中「ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー」という映画を観た。『ライ麦畑でつかまえて』のJ·D·サリンジャーが、いかにして真の作家となったかを描いた作品。一番印象的だったのは、戦争のトラウマで執筆できなくなってしまったサリンジャーが、東洋思想の実践者バーナードと出会ったことでもう一度本を書き始めるところ。そのシーンを書き残しておきたい。

バーナードの教えのおかげでようやく1枚書くことができたサリンジャー。しかしその1枚を「才能が落ちた」と無惨にも破り捨ててしまう。バーナードは真剣にたずねた。「楽しんだか?」「……書くことを?」と落ち気味にサリンジャー。「破くことを」
そんな会話の次の日から、サリンジャーは書いては破り、書いては破りを繰り返し始めた。なぜだか、破くときの顔には消え失せていた笑みすら戻りつつあった。そしてある日、いつものように破ろうとしかけて、ふと手を止めた。仕上がった1枚をじっと見つめたあと、また次の紙をセットしてタイプし始めた。


とても面白かったので原作も読んでみたくなり、図書館で借りてみた。村上春樹の訳が読みたかったけどなかったので、野崎孝のを。
読者のなかには、主人公ホールデンを「自分のことだ」と言うひとが大勢いてるのだそう。

わたしが過去に小説を読んで「自分だ」と思ったのは、江國香織の「災難の顛末」という短編。皮膚が荒れてしまったせいで、周囲の人との関わりが困難になった一人の女性の話。
わたし自身アトピー持ちで、4年前の入院のおかげで今はほとんど出ていない状態なのだけど、昔はそれはそれは他者の目を恐れて生きていた。傷つきたくない一心で他者を拒んでは、自分一人の世界にこもって安堵した。しかし「自分は醜い、変わりたい」と思いながらも、心のどこかで「自分はこれでいいのだ、このままでいいのだ」という矛盾した気持ちも抱えていた。そんな人間の、一筋縄では行かない心の内がありありと描かれている短編小説だった。『ぬるい眠り』のなかに収録されている。


「ライ麦」を読んで「ホールデンは自分だ」と思った人々は、どんな気持ちになったのだろう。救われたのか、嬉しかったのか。わたしは「災難の顛末」を読んで、少なくとも辛かった。息苦しくなった。その主人公は、わたしがなりたい人間には見えなかったから。


もう1冊、「自分のことが書かれている」と思った重要な本がある。それは坂口恭平さんの『躁鬱大学』。恭平さんを知った入り口はこの本だった。ちょうどアトピーも良くなって心にゆとりはあるけれど、毎日激しく移ろう気分や、アイデンティティの確立がまったく無いことに悩まされていた大学三年生の冬に、個人書店で何の気なしに手に取った本。

この本を読んだときは、それはそれはもう嬉しかった。昔から自分に対して不可解に思っていた謎が一気に解けるかのようだった。サリンジャーは沈黙を選んだけれど、恭平さんは電話に出続ける。こんな人が今世の中で生きているのだと知って、救われる人がほかの国にもいるかもしれない。中国では翻訳されているようだけど、『躁鬱大学』こそ、世界中で翻訳されてほしいと思う。


午後はバイト。ワンピースで電車に乗って、駅のトイレで着替えてから出勤。帰りも同じようにワンピースで電車に乗る。服装が変わると気分も変わるので、荷物は増えるけれど最近はずっとこうしている。

今日はずっと眠たくて、レジでぼんやりしてた。高校生の男の子3人がそろって、夏目漱石のこころを買っていった。明るくて素直で、本の表紙と同じく真っ白なシャツを着て。この書店は学生とご老人が多い。残りの人生を健康に生きるための本を買う人と、これからの人生のために学習本を買う人が、交互にレジにくる。
ご老人の魅力。学生の魅力。両方感じる。


美篶堂から製本道具の出荷完了のメール、わくわく。たけと発熱、ショック。明後日のデートはダメかもしれない。全然会えていない。


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