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はじめてピアノを弾いた日のこと 2O24.O6.14 essay

住んでる市で、同じ苗字の人を見つけた。ちいさくてかわいい音楽教室をやっている方だった。ひょんなことからその人を知り、ギター以外の楽器をやってみたいと思っていたわたしはピアノを習うことにした。

ピアノを弾くのは初めてだったけど、先生は「両手で弾けるよ、やってみよう」という。わたしは全くの初心者なのでいきなり両手なんてできる気がしないと思ったけれど、「できるできないじゃなくて、やったらできるから」と先生。やる前からああだこうだいうのは、この部屋では禁止のようだ。とても良いルールだと思った。

最初は坂口恭平さんの「葉桜」が弾きたいと思っていたので、じゃあ迷わずそれを弾きましょう、ということに。ギターをやっていたおかげでコードは知っている。でも楽譜は全く読めない。中学生の時は吹奏楽部でトロンボーンを吹いていたけれど、楽譜を学ぼうとは一向に思わず、いつも同じパートの子に「これはどんな感じなん?」と聞いては「たー・た・た・たーーーって感じかな」と、口でリズムを教えてもらいお世話してもらっていた。

コード進行を伝えると、先生はさらさらさら、と流れるように楽譜を作って音符の上にドレミファソラシドを書き加えた。そして一旦お手本を見せてくれたのち「じゃあやってみよう」とわたしに席をゆずった。

先生の楽譜を見て口にしながら右手で鍵盤を押さえる。次の形に変えて押さえる。それに合わせて、遅れないようにベース音を弾く左手をずらしてゆく。全体的にぎこちなく、手にもかなりの力がこもって指が痛かった。でも思ったよりも両手で弾けている感覚があってびっくりした。だけどなによりも驚いて、何よりも嬉しかったのは、ちょっとできただけでも先生がすこぶるに褒めてくれることだった。

「なんでできるの?!」「天才やん!」「めっちゃいいやん!」「動画撮らして!」

先生が褒めてくれるおかげで弾けているんじゃないかしらと思うほど、褒めてもらうたびに音楽が、指の動きが滑らかになっていく気がした。途中で「間奏のメロディはどうする?」と聞かれて、「こんな感じにしたい」とギターで弾いて見せたときも「ギターも上手いやん!」と丸い目をして褒めてくれた。

自宅で弾いている時は「近所迷惑やから9時になったら終わりにしや」と言われてきた。そのことを冗談まじりに先生に話すと、「お母さんなんてこと言うの、なおこちゃんすごいよ!」といってくれた。こんなに心の底から褒めてもらうのは初めてな気がして、涙が出そうになった。

わたしは大学の先生にも「あんたは褒められ慣れてないんやな」と言われたことがある。なにか物事に取り組む時、果たしてちゃんとできているのかどうか、自分では自信を持つことができない。人から「できてるよ」と言われても「ほんまに?ほんまのほんまに?」と確認しないと、自分が本当に大丈夫なのかどうかわからなくて不安になる。"自信がある"、という感覚についてもよくわからない。これは、
他者からの評価に影響されやすいという元々の自分の性格の他に、昔から家庭であまり褒められてこなかったことも関係があるのだろうか。

それもあってか、自分自身も他の人のことを褒めるのが下手だな、と思う時がある。自分がしてもらった喜びを人にも、というが、褒めてもらった喜びというのがそもそも不明瞭なので、どう褒めるのがいいのか、イメージがつかないのだ。ネガティブな思いが先に心にわくことも多い。もっと自分の中にポジティブなイメージや言葉を増やして、それが勝手に、外に、他者に、溢れ出るようになりたい。

家でギターを弾くのは楽しい。でも「ここでやらんと自分の部屋でやり」「もうそろそろ終わりにし」と言う母の言葉がくっきりと耳に残っている。自室に戻り扉を閉める。そしてわざと大きな音で弾いた。そうだ、わたしは寂しかったのだ。そして、母に、褒められたかったのだ。

ちょっと大袈裟かもしれないけれど、先生が驚きと笑みに満ちた表情で始終褒めてくれる間、わたし子どもの頃に戻って改めて癒されているような気持ちがした。先生はずっと嬉しそうで、わたしはいくら音を出しても否定されることがなかった。弾けても弾けなくても構わないのかもしれなかったけど、褒めてもらえると自然と弾けるようになった。あっという間にレッスンの時間は過ぎた。
自分にも子どもができたら、先生みたいにたくさんたくさんたくさん褒めて伸ばしてあげたい。レッスンの最中、その思いがずっと心の中にあった。

レッスンが終わって、さっそくピアノを家にお迎えすることに。Amazonでカード2回払い、オーク材の電子ピアノを買った。自宅に届いてワクワクした気持ちで組み立てる。ピアノはその後しばらくの間、部屋中を新しい木の香りで包んでくれて、扉を開けるたびにその心地よい香りが鼻先をくすぐって嬉しい気持ちになった。椅子にこしかけ鍵盤に指を落とすと、ギターを鳴らす時とはまたちがった穏やかな気持ちが胸に広がる。
小学生の時、周りの子はみんなピアノを習っていた。わたしはピアノとは縁のない人生だと思っていた。まさか自分が家でピアノを弾く日が来るなんて思ってもみないことだった。

ピアノを弾きながら母性を求める気持ちについて考えていた。誰にとっても産みの"母親"は一人だけど、"母のような存在"はきっとたくさん持つことができる。それは、自分が子どもの気持ちにもどって安心したりはしゃいだり泣いたり、自分は守られていると感じさせてくれる存在だ。そういう意味で考えると、"母のような存在"には、年齢なんて関係なく、もしかしたら性別も関係ないのかもしれない。わたしはときどきたけとのことも、ままと呼びたくなるときがあるから、そうなのだと思う。
先生はわたしだけじゃなくいろんな生徒さんの母なんだろうな、とぼんやり思う。
わたしは誰かにとっての"母のような存在"であるのだろうか。

先生のことを書いていたら、早くまたレッスンに行きたい気持ちになった。次の予約をしよう。ちょっと期間が空いてしまったけど、その間に練習した成果を見せてびっくりさせたい。

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