埼玉湾に沈む

 埼玉湾に釣り糸を垂らしながら、灰谷は火の消えた電子煙草を咥えている。
 かつて東京と呼ばれていた地の巨大なクレータ。その跡に海からの水が流れ込み、現在の埼玉湾を作り上げた。
 釣り糸が揺れる。灰谷はその反応を見逃さない。竿のしなりが彼の中の基準を超えたそのとき、竿を思い切り引いた。
 手ごたえあり。彼は確信する。釣り竿の先、仕掛けにコンピュータのディスプレイが食いついていた。
「ほぉ! ディスプレイに化けるとは、こいつはいい情報を持ってそうだ」
 興奮気味に獲物を引き寄せながら、灰谷は腰につけた電磁ナイフに手を伸ばす。
 その気配を知ってか知らずかディスプレイは犬へと変形した。仕掛けの針から自由になると犬は灰谷に襲い掛かる。
「犬!? ずいぶんと経験豊富なシリ野郎じゃないか」
 噛みつかれる直前、灰谷はナイフを盾に難を逃れた。しかし以前として犬は灰谷への攻撃を諦めない。
 ふと犬の尾が揺らいでいるのに気づく。変形の前触れだと灰谷は直覚する。
 直後、尾の先端が鎚のような形状になり、灰谷の側頭部に飛来した。
 衝撃音。
 しかし、灰谷は金属の左腕で尾を受け止めていた。
「悪いねぇ。こっちもちゃんと準備してんだ」
 受け止めた尾を握りしめ、犬を逆さ吊りにする。電磁ナイフの電源を入れ、犬の首元を狙って差し込むと一瞬の痙攣のあとおとなしくなった。
 変形していた姿が失われ、ケイ素生物としての骨格が露わになる。それは魚のように細長い。
「釣れたんだから、そういう形だわなぁ」
 灰谷は呟くと懐から再生機を取り出して接続し、収集した記録を確認する。
 ディスプレイ、犬、PC基盤、魚、そして――錆色の本。
 灰谷の目の前に、ケイ素生物が変形したハードカバーの本が現れた。
 顎を触り、首を傾げる。
 ケイ素生物が人間の手による情報――即ち文章――を収集したという話は聞いたことがない。
 灰谷は興味深げに電子煙草に火を点けた。

【続く】

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