何かを得るためには、本当に何かを捨てないといけないのだろうか
人には抱えきれる容量があって、できることも持っているモノも関わる人も上限がある。そういった中で優先順位をつけてやれること、大切にしたいモノや人を自然と選択しながら生きているように思う。
この容量は人それぞれ違っているけれど、自分の容量は自分自身が把握する必要があると思うのだ。自分の容量を見誤るとキャパオーバーになってしまうし、抱えるものが増えれば大切なものが埋もれて見つけにくくなってしまう。
"何かを得るためには何かを捨てなければならない"
今までの経験の中で何かを捨てるなり失うことで、新しい何かが生まれたり入ってきたりする経験はあるので、あながち間違いではないとは思っている。
それでも、
本当に何かを捨てなければならないのだろうか?
人の容量で考えると曖昧な部分もあるけれど、PCやスマホに置き換えて考えてみたら個人的にはなんだかしっくりした。
PCやスマホの場合、容量が超えてしまえばデータの保存はできない。そうなるとデータを他のものに移したり、削除したり、圧縮をかけて空き容量を作ることになるだろう。これは当たり前ではあるけれど、人にもPCのようにUSBやハードディスク、はたまたクラウドに保存できたらいいのになぁなんて思った。
でもよくよく考えてみたら、案外似たようなシステムは人においても存在していることに気づいた。人においては現代はFacebookやLINEといったSNSが、モノにおいては収納ケースや倉庫がそういった役割を担っているのかもしれない。
そうなると、外付けする何かを得てしまえば無限に容量を増やしていくことは可能ではある。ただし外付けの場合はサブ以下にしかならないから、PCであっても人であっても結局本体の容量は変わらないのだ。
だからこそ本体に保存するのか、外付けに保存するのかの選別する作業は必要になる。
何かを得たいならば捨てるということは、スパッと捨てしまいなさいということだと思い込んでいたけれど、本体から切り離して外付けのものに移す作業があってもいいんじゃないかなと私は思うのだ。
"何かを得るためには何かを捨てなければならない"
得たいものの大きさにもよって捨てるものの大きさは異なってくるけれど、結局のところ私を含めて人は欲張りな生き物。あれもこれもとモノや人に執着して欲張りすぎてしまうことをまず受け入れることが第一段階で、その次に自分の適切な容量をきちんと理解すること、その上で本当に大切なもの見極めて取捨選択をすること自体が大切なのだと思います。
だから、必ずしも完全に捨てる必要はないと思う。
大切なものであれば外付けの何かに保存しておいて5年後、10年後、さらには数十年後に空き容量ができたときに引っ張り出せばいいし、そのことを忘れていたら改めて捨てればいい。
“本当に必要なもの、
本当に必要なことはなんだろうか”
この問いを常に自分自身に問うていきたい。
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