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『プリーズ・キル・ミー』(P-VINE)の〈ナラティヴ・オーラル・ヒストリー〉

レッグス・マクニール+ジリアン・マッケイ著、島田陽子訳『プリーズ・キル・ミー アメリカン・パンク・ヒストリー無修正証言集』(Pヴァイン)が届いた。拙著『ゴシック・カルチャー入門』の担当編集者・大久保潤さんのニュープロダクト(というか復刊企画)である。

帯文の「ヴェルヴェット・アンダーグラウンドからセックス・ピストルズまで」とか「当事者たちの赤裸々すぎる証言」などからも、本書がアメリカン・パンクの地下水脈を関係者のコメントだけで構成しようとする試みだと分かる。これが届いたとき、たまたまパティ・スミスが元パートナーのロバート・メイプルソープに捧げた伝記本『ジャスト・キッズ』(河出書房新社)を読んでいたので、何とはなしにパティ周辺の発言項目をぱらぱら覗いてみる。(第11章「ポエトリー・オールスターズ」など)

NYボヘミアンの聖地チェルシー・ホテルで出会った詩人ジム・キャロルとの思い出をパティは「文学少女の片思い」的に『ジャスト・キッズ』で美しく描いたのに対し、『プリーズ・キル・ミー』の方ではジムからの生々しい、暴露まがいの証言の数々が読める。

実はパティがホテルでメイプルソープと大喧嘩していた日にジムとは出会ったこと、ジムを見た瞬間「あなたの部屋知ってるわよ」とパティが迫ってきて即日ファックしたこと、しつこく一緒に暮らそうとパティがせがんできたことなど、『ジャスト・キッズ』には積極的には描かれていなかった「性獣」(※『東スポ』見出しのアンジャッシュ渡部評)パティがそこにはあり、いかに「文学的濾過」がなされていたか分かる。

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こうした一人の人間による偏った観方(詩的な省略?)を相対化する(世俗化する?)のが当事者たちの証言だけでコラージュされた年代記「ナラティヴ・オーラル・ヒストリー」の効能なのだと、「20周年増補版」あとがきには記されている。ちなみにジーン・スタインとジョージ・プリンプトンの二人が『American Journey: The Times of Robert kennedy』並びに『イーディー '60年代のヒロイン』(邦訳あり)で確立した革新的方法らしく、確かにこの歴史叙述のやり口はなかなかおもしろい。

同じくPヴァインから出ているジョン・サヴェージ『この灼けるほどの光、この太陽、そしてそれ以外の何もかも――ジョイ・ディヴィジョン ジ・オーラル・ヒストリー』も、当事者たちの証言だけで構成された年代記であったことを思うと、音楽批評の歴史叙述のなかでも少しずつ定番化してきてることが分かる。( ※下記リンクはこの本に絡めて書いたコラム)

もっと卑近なレベルでいえば、「NAVERまとめ」でツイートをコラージュしてTwitterの炎上案件などを伝えるやり方が、僕たちなりの小型版「ナラティヴ・オーラル・ヒストリー」なのかもしれない。とまれ、パティの伝記本の――生々しい性描写などを極力避けた――「詩学」は類まれなものであるが、それは同時に自分にとって都合の悪い事実を「濾過」してしまう純粋結晶化作業でもあるので、「無修正証言集」というポルノチックな「散文」によって歴史(というか人生)は相対化されることを銘記したほうがいいかもしれない。


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