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ウマ娘キャラクター解説2:メジロマックイーン

「ウマ娘」ではゴールドシップに振り回されるお嬢様役、というイメージの強いメジロマックイーン。現役時代はどんな競走馬だったのだろうか。

マックイーンは1987年4月3日、北海道浦河町で生まれた。祖父・父が天皇賞馬であり、離乳後は数々の重賞・GⅠ馬を輩出してきたメジロ牧場に移され、競走馬になるためのトレーニングを積んだ。

このメジロ牧場は、1967年に開業した牧場で、天皇賞を制覇するために長距離血統を重視し、また内国産種牡馬を積極的に受け入れてきた名門牧場である。それゆえ、キャラクターとしての「ウマ娘」内のマックイーンはお嬢様キャラなのである。

1990年2月3日、阪神ダート1700mでデビューし、1着で初陣を飾る。夏の日本ダービーを視野に調整されたが、デビュー前から体質の弱さに悩まされていた本馬は骨膜炎を発症。また2戦連続で勝ち切れず、賞金を加算できなかったため目標を菊花賞に切り替えることになった。

9月だけで連闘を含め3戦するなど賞金加算に苦労したものの、3勝2着3回3着1回の安定した成績のまま菊花賞に出走することになった。

レースでは、同じメジロ牧場のメジロライアンが出走していたものの、マックイーンは先行から直線入り口で先頭に立ち押し切る強い競馬で優勝。ライアンはマックイーン追いかけ3着に食い込んだ。

このあと秋は休養にあて、翌年は阪神大賞典から始動することになった。ちなみにライアンは有馬記念に向かい、オグリキャップがラストランを飾る陰で2着に入っている。

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阪神大賞典を危なげなく勝利すると、次は牧場として悲願の親子3代天皇賞制覇の偉業がかかる天皇賞(春)に出走することになった。

ここでは菊花賞で激突したマックイーン、ライアン、ホワイトストーンに人気が集中したものの、マックイーンは中でも1.7倍の1番人気に押される。

レースは同じメジロ牧場のメジロパーマーが逃げ、真っ暗は7番手から先行集団をうかがう。徐々にポジションを押し上げ直線ではオースミシャダイを残り200mで捉え、先頭に立つと後続を振り切り優勝。メジロ牧場創業以来悲願の親子3代天皇賞制覇を成し遂げた。

次は宝塚記念に向かうものの、ライアンが3コーナーで先頭に立つとそのまま押し切られてしまい、マックイーンは2着に敗れてしまう。

夏は休養し、秋は京都大賞典で始動。ここを難なくパスすると、迎えた天皇賞(秋)は1.9倍の1番人気に押され、レースでは好スタートからいつもより前目の2番手でレースを進めると、直線半ばで逃げるプレクラスニーを捉えあれよあれよと後続に6馬身差をつけ優勝!…のはずが、スタート直後に、好スタートだったので先行させようと考えた武豊騎手が急に内側に寄ってきたためマックイーンより内側にいた馬たちの進路が狭くなり(画像参照)、プレジデントシチーにいたっては騎手が立ち上がり体勢を崩し、あわや落馬かというほどのアクシデントだったため、マックイーンは制裁によって最下位18着に降着となり、2着だったプレクラスニーが繰り上がりで優勝した。

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続くジャパンカップは、アメリカのゴールデンフェザントら海外勢の切れ味に屈し4着(それでも日本馬再先着)、有馬記念では内側をロスなく回り一世一代の大駆けを果たした14番人気(15頭中)のダイユウサクを捉えきれず2着(余談だがナイスネイチャの有馬記念3年連続3着はこの年から始まる)

…と波乱の秋シーズンを送ったが、これまでの安定した成績が認められ最優秀5歳以上牡馬に選出された。

翌92年も阪神大賞典から始動し、ここを連覇すると、天皇賞(春)連覇へ向けて動き出すことになった。

当時の注目は、前年に父・シンボリルドルフと同じく無敗での二冠を達成したトウカイテイオー。

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ダービー優勝後骨折が判明し三冠制覇は潰えたものの、ダービーで3馬身差2着に退けたレオターバンが菊花賞を優勝したことから、無事だったらトウカイテイオーが父に次ぐ三冠馬になっていたのでは…と噂されていた実力馬である。

春初戦の大阪杯では古馬相手にほとんど追うことなく7連勝を達成し、鞍上の岡部幸雄騎手が「一杯になるという感じがなく、地の果てまでも走れそう」と発言したのに反応してマックイーン騎乗の武豊騎手も「あっちが地の果てなら、こっちは天まで昇りますよ」と答え、戦前から2頭対決に注目が集まった。

本番では2400m以上未経験のテイオーが1.5倍の圧倒的支持を集め、対するマックイーンは長距離実績が豊富にもかかわらず2.2倍の2番人気に甘んじた。

しかしレースでは、3コーナーで先頭に並びかけたマックイーンについてくるも息切れして直線で苦しむテイオーを尻目に、マックイーンは悠々と後続を押し切り、同レース連覇を達成した(テイオーは5着)。

しかしレース後、左前脚に骨折が見つかり、治療とリハビリのため1年近く休養することに。1歩間違えれば予後不良レベルのケガだったため、もしそうなっていたら…と考えると慄然とする。

さて骨折明け最初のレースは93年4月4日の大阪杯。一年前より馬体重が14kgも増え、人生(?)初の500kg台でレースに入るなど余裕残しではあったものの、なんとレースでは5馬身差のレコードで勝利!

勇躍天皇賞(春)3連覇に向けて動き出すのだが…。このとき打倒マックイーンに闘志を燃やす馬がいた。ライスシャワーである。

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前年にミホノブルボンの三冠を阻止し菊花賞馬となっていたライスは、古馬となった93年は天皇賞(春)優勝を目標に掲げ、そのためにはメジロマックイーンに勝つ必要があると考え、ライスを徹底的に追い込んだ調教を施した。

周囲から「虐めすぎだ」「レース前に馬が潰される」と批判されるほどのトレーニングを耐えたライスの肉体は極限まで研ぎ澄まされ、ベテラン的場騎手をして「馬じゃない別の生き物」と言わしめるほどの気迫を持つようになっていた。

レースでは3番手にマックイーンがつけ、ライスはマックイーンをピッタリマークするように6番手から前を狙う。3コーナーからマックイーンが前へ並びかける必勝パターンで後続との差を広げにかかる。

去年ならこのスタミナ勝負にトウカイテイオーは屈した。しかし今回は相手が違った。

マックイーンになお喰らいついていくライスシャワー。直線はライス、マックイーン、メジロパーマーの3頭の競り合いになりが、残り200mでライスが完全に抜け出す。

マックイーンは差を詰めようとするが詰まらない。結果として、ライスの2馬身半差2着に敗れ、GⅠ3連覇の夢は露と消えた。

仕切り直しとなった次走の宝塚記念では、ライスが休養で不在ということもあり1.5倍の1番人気に支持され、相手も楽なメンバーだったということもあり優勝し、前年の雪辱を晴らした。

秋初戦の京都大賞典では、2分22秒7のコースレコードで同年のジャパンカップを制するレガシーワールドに3馬身半差をつけ快勝し、当時史上初の生涯獲得賞金が10億円を超えることになった。


その後天皇賞(秋)を目標に調整されるも、レース直前に繋靱帯炎が判明。池江調教師は無理させず現役引退と種牡馬入りを発表した。

牧場の方針もあって当時海外から輸入された種牡馬の血統を持っていないことから幅広い血統と配合することができるとされ、注目されたものの、大活躍といえるほどの産駒を残せたとはいえず、2021年現在メジロマックイーンの血を直系として伝えているのはギンザグリングラス1頭のみ。

しかしギンザグリングラスの子ども、つまりマックイーンの孫にあたる競走馬は現在も地方競馬で頑張っている。以下にリンクを貼っておくので、マックイーンファンの人がいたらぜひ馬券を買って応援してほしい(笑)

なお余談だが、マックイーンは母の父、牝系ではかなり優秀で、ドリームジャーニー、オルフェーヴル、ゴールドシップ、タイセイレジェンドと4頭のGI馬を出している。

そうつまり、アニメなどでゴールドシップとマックイーンがよく絡んでいるが、あれ実は孫とおじいちゃんの関係なのだ…ということで締めさせていただく。

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