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永瀬廉はどこか松本潤に似ている

常々思っていた事をここでひとつ言わせていただくと、「永瀬廉はどこか松本潤に似ている」と思う。

そう言うと、たちまち罵詈雑言が飛んできそうだ。濃い顔が形容詞となった帝王と、すっきりとした顔立ちの永瀬廉。全然似ていないじゃないかとクレームが今にも聞こえてくる。
そりゃそうだ。見た目は似ても似つかない。私が言いたいのはそこではない。私が彼らは似ていると言いたいのは、彼らの奥底に眠る〝「好き」に対する素直さとひねくれ〟についてである。

こんな突拍子もない事を考え始めたのは、ここ最近のことではない。実はけっこう前にも一度twitterで呟いたことがある。ただ、今一度それについて言及するに、思いの丈があまりに深すぎるので140字では到底語りきることができず、今回は「永瀬廉はどこか松本潤に似ている」と私が考えるに至った根拠を、みっつのポイントに分けてnoteにしたためていこうと思う。


1. プライドが邪魔してなかなか輪のなかに入れない

ここで今さら言う事でもないのだけれど、松本潤は嵐、永瀬廉はKing&Princeに属している。それぞれのグループの残りのメンバー、4人ないし5人は、成人を過ぎたそこそこいい年頃の男たちだというのに、未だにお前ら中二男子かよと突っ込みたくなるような、「あんたらほんっとにくだらないよね」とため息交じりに褒め称えたくなるような、プライドもへったくれもないバカを全力でやりきるような人たちである。それも縮こまってこそこそと。自分たちだけでわちゃわちゃと。

そこにたとえば帝王がいたならばどうなるのか?

彼の場合、プライドが邪魔して、入っていけないんですよね。いや、プライドなのかなんなのかは私の想像にすぎないのだけれども、4人が面白がってくだらない世界にはいっていけばいくほど、遠巻きに、モデル立ちで、マイクをかっこよく手に持ち、半笑いしながら彼らを眺めている。「まじで意味わかんねえ」なんて半ギレ半笑いになりながら、肩をすくめている。

私は遠い昔、生粋の嵐オタクだったがゆえにそんな帝王の姿を目を閉じても容易に思い浮かべる事ができるのだけども、そのシルエットが最近は永瀬廉に重なって見えて仕方がない。

雑誌のわちゃわちゃフリー撮影で、みんなと一緒にわちゃわちゃしきれない永瀬廉。
大阪公演の際みんなと一緒にお風呂に入らず「行かんでよかったわあ」と強がる永瀬廉。

こんな彼に触れるたび、私には彼が可愛い帝王と全く同じ症候群に陥っている!としか思えなかった。輪に入りたいのにプライドが邪魔するばかり、自分の身を振り切る事ができずに強がりを言っている、これってまさに帝王と全く同じ構図なんだもん!
こんなのもう永瀬廉ではなくただのれんぴよである。ぴよっている。チワワが勇敢に私たちに威嚇しキャンキャン吠えてくるような可愛さである。私はこの可愛いチワワをれんぴよと名づける事とする。




2.好きなものへの愛が募ると周囲が見えない

松本潤も、永瀬廉も、誰よりも秩序とスマートを慮る性格なんだろうな、と推察する。おかしい事にはおかしいとはっきり言うし、常に毅然としているような印象がある。ただ、その鉄壁のような性格が時としてふいに崩壊してしまう事がある。

自分の好きなものに関する話になると、彼らは見境がなくなってしまうのだ。

自分が関心を持つワードが出てきたり、自分のフィールドの話になると、途端に話が止まらなくなる。自分のこだわりに対して常に貪欲、というのが共通としてあるのだと思う。
だってその場がどんな媒体であろうと、「そろそろ締めて次の話題に移ろうか」という空気を周囲が醸し出そうと、全くお構いなしに食い下がる、一向に話を引く姿勢を見せない、そんなストイックに突き詰めていくような一面が時折みられるが、かっこいいというか、さすがというか、なんかもうそれ以前にもはや可愛いでしかない。

たとえば蕎麦とか、健康法とか、自分の好きなものについて「いやあ、あれはねえ…」と語りだしたり、「まじでこれすっげえから!」と弁舌を振るったりする帝王の姿と、大好きな先輩や興味のある話に「それってこういう事ですか?」「なんでですか?」「じゃあこれどうなります?」と目をキラキラさせて食いつくれんぴよの姿。想像して、ああ、同じものが血液のなかを流れているんだな、と感じる。

この〝同じもの〟というのをうまく言葉では言い表せない事が悔しい。でも、つまりは「俺はこれが好きなんだから今はこの話をさせろ!」と言わんばかりに対象に向けられた愛がとにかく素直で全力という事。
それに対する周囲の反応とか、体裁とか、一切気にしない。我流。今突き詰められるなら今突き詰めたいという探究心のかたまりで、ある意味末っ子気質だな、ともある(ちなみにれんぴよはキンプリの立ち位置として覆い隠してはいるけれど、気質としてそれは充分に備わっていると思う)

さすがにじゅんぴよとは恐れ多くて呼べませんが、飼い主に対するチワワのように従順に好きなものを愛するふたりの姿勢には、とても頭が上がらない思いでいっぱいになる。




3. 好きな人に素直に全力で甘えられない


好きなものには全力で好きを演説するが、好きな人には全力で天邪鬼を発揮する。それが帝王でありれんぴよである。それこそがこのふたりの真髄だ。
嵐ファンでいう翔潤。キンプリファンでいうしょうれん。これはまさに似たような言葉であって、同義語でもあると私は思っている。

甘えたのベタベタのでれっでれ。「翔くぅん」「翔くんはさぁ!」とホイップクリームを何層載せたところで足りないくらい甘々に頬を緩ませ翔くんの名を呼び続けていたあどけない美少年。
「紫耀!」「紫耀、はよ!」「紫耀~~~!!!」むんずと紫耀くんの腕にしがみつき、まるで「紫耀はおれのものやから!」と彼に近づく周囲の人間ことごとく蹴散らしてきたごぼうみたいなやんちゃ少年。

好きな人のあとをてくてくついていくタイプの若かりし帝王と、逆に、好きな人をひっつかんで離さず連れまわそうとするれんぴよ、その点わずかな違いはあるものの、周囲を圧倒するほど大好きを前面に押し出して、独占禁止法なんてなんのその、治外法権を意のままにしてきたこのふたりは、思春期を過ぎたところでまさかの反抗期に突入する。

これは思わぬあらすじだった。どんでん返しもいいところだ。彼らのショウ離れは急激に加速していく。好きを押し出さなくなったどころか、突然白々しくなり、わかりやすく気まずくなってしまったのだ。
デレ期があまりに黒歴史すぎて恥ずかしいのか、全く近づこうとしない。くっつく必要があるところですらどぎまぎしてみせる。そのようすがまた意識しているという事をより強く認識させ、見ているほうが恥ずかしくなるという逆効果まで生んでいた。

きっと彼らは十代半ば、後先考えずあまりにも素直に行動しすぎた反動で、むしろ素直になれなくなってしまったのだろうな、と思った。
どう接していいかわからない。推測を言うと、帝王やれんぴよはかなり意識していただろうと思うが、対するふたりのショウの方は、相手の様子や態度の異変に気づいていたものの、悲しいことに同じような意識はたぶん恐らく全く持っていなかったような気がする。



さて、しかし、ここに来てしょうれんのほうは新たな局面を迎えている。第三期を迎えているのかいないのか、未だに絶妙なラインを見せつけてくる翔潤に対し、しょうれんは、なんだかその絶妙なラインを吹っ切ったような関係を見せつけてくるのだ。これが私の思う第三期、まさにそんな感じ。

「紫耀!」「紫耀!」と大好きなお兄ちゃんにくっついていた第一期ではない。彼との距離を線引きしていた第二期でもない(いわゆる不仲期と、不仲を認めたもののまだ少しわだかまりの残っていた時期をまとめて第二期と称する)。
隣にいればとりとめない話をし、理由もなくくだらない事をはじめ、お互いをけなし笑い、たたえ合う。まるでずっと同じクラスにいて落ち着ける存在の同級生みたいに、作り物じゃない自然な距離感が新しく生まれた第三期だな、と思った。

翔潤にしても、しょうれんにしても、好きが募りすぎ、面白半分でこじつけのように話を盛ってしまう部分は多々あったけれど、最近のしょうれんは自然にそういった案件が多いのでむしろこちらが戸惑いつつある。
翔潤はどうなのか。わからない。ここ10年は嵐をちゃんと見ていないので偉そうに何も言えないけれど、できれば翔潤は第三期を迎える瀬戸際をずっとフラフラしていてほしいふたりではある。



「永瀬廉はどこか松本潤に似ている」

これについてはずっと話したい、誰かに共感してもらいたい、と思っていて、いざ書いてみたのだけれど、思いの丈が深すぎるとエモーションが先行してうまく言葉に落とし込めないのだな、という事を改めて知った。
そして、最終的に帝王とれんぴよの親和性というよりは、最近の私の可愛いの最前線をひた走るしょうれんについて語り始める沙汰となってしまった事については大変遺憾だし申し訳ないと思う、ただ、後悔はしていない。

こんな取り留めもない話を長々と書いてきましたが、私は嵐なら大野君が好きだしキンプリは岸くん一筋ですよ、という事は一応声を大にして言っておこうと思う。大野智くん、どうか私を釣ってください。

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