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ソンハンビンとキムジウンの自然観について感じている詩学との接点


ソンハンビンとキムジウンの自然観について感じている詩学との接点


ソンハンビンとキムジウンの二人、ウンソンズはたぶん、自然観というか自然に対しての感性がすごく似ているというか、「その感性を培ってきたプロセス」が「同じ道を辿ってきた」んだろうなという印象を持っている。
そしてその道は恐らく詩学だと個人的には思う。ハンビンから詩についてのエピソードを聞いたことはないが(私が見落としているだけかも)たしかジウンは詩も詩作も好きだと記憶している。

また、韓国の母国語教育(国語)において、日本の国語教育に比べて、詩はその比重や割合が大きいとのこと。
日本人から見て詩という手法への精神的な距離の平均よりも、韓国人のほうが近いだろう。

自然観を形成する感性や言語化能力を培うにあたって、詩という表現方法や文学は大きな影響を与える。
というより、詩というもののアウトプット方法そのものが、自然という存在を明確化し、言語化するという言い方のほうが適切。
(この辺の理由が実際に作品として具体化されている例として、谷川俊太郎のこちらの有名な作品http://www.poetry.ne.jp/zamboa_ex/tanikawa/6.htmlなどは、自然「姦」を通して自然「観」をアウトプットしているわかりやすい例だと思うので、ご興味のあるかたは見てみてくださいね。あとは萩原朔太郎なども全体的にわかりやすい作風だなと思います)

つまり、「自然に五感でもって触れ、それを心で受け取り、言葉で外に出す」ということが可能な感性は、詩によって大きく飛躍する(もちろん詩だけがその選手なのではないけれども)と私は考えている、ということ。
体験を元にした自然観というものは誰しもが持っているものだけれど、二人のそれって、詩学(既存の文学作品の研究と創作詩のどちらも)を専攻してきた私からすると、積極的に詩に好意を持って接してきた人間のそれである。かつ、その方向性が似ている。感性が一致しているから起こる偶然の一致が多い。(二人とも木になりたいって言っていたり、空模様が心みたいだから雲の絵文字が好きとか、心に寄り添う雲のような人でいたいとか、前回のnoteで書いた瞑想への捉え方などのエピソードについて)
ハンビンがジウンとは言葉の温度が似てるんです、と話していた解はこれだと思っている。

以上、ジウンとハンビンの言葉の感性と、詩学の接点への印象をパッと書いてみました。

以前フォロワーさんが勧めてくださったのにちゃんと読めていない本。
https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=1088&ct=42

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