一線を越えてガスライティングになってしまいがちな7つの「ポジティブ思考」のフレーズ

7 ‘Positive Thinking’ Phrases That Can Actually Cross the Line Into Gaslighting

October 26, 2015 by Suzannah Weiss

「泣かないで」

繊細だった子供時代、よく大人にそう言われました。でも、この言葉を聞いた私は泣くのを止めるどころか泣いている自分を恥ずかしく思うだけでした。

いじめっ子に負けるなと大人は言いました。それを聞いて私はいじめられる自分が弱いのだと感じました。

人は自分の感情をコントロールできると大人は言いました。それを聞いて、どうして私だけは例外なのだろうと不思議に思いました。

私達は、強くなってほしいと願って子供にこういった言葉をかけます。でも、実際にはその子に自分には強さが足りないのだと思わせているだけなのです。

私の経験から言えば、その子はこんな風に感じる自分がおかしいのだと思うようになるのです。

良かれと思ってしたアドバイスによって、相手が自分の精神の均衡を疑うようになり始めたら、それは貴方がガスライティングをしているということです。

ガスライティング——被害者に自分の知覚や正気を疑うように仕向ける心理操作——は、しばしば感情的虐待の手法の一つと言われます。しかし、言葉による虐待や感情的虐待の加害者によって用いられるだけでなく、ガスライティングは実は私達の使う言語そのものに組み込まれているのです。

傷付いている人に対して貴方は繊細過ぎるとか物事を真剣に捉えすぎる、すぐ腹を立てるなどという批判がなされる時、ガスライティングの芽が顔を覗かせます。子供に伝える知恵——大人になってからも言いますが——とされるものの中にもガスライティングは姿を現します。

お前の感情は持つべきものではない、お前の意見は信頼できないと絶えず聞かされた結果、私は自分のことをヒステリックでドラマのように大げさだと思うようになり、他にも人に——特に女性に——自分の感情を取るに足らないものとして無視させるような形容詞を自分に当てはめるようになりました。

今でも、誰かに腹を立てたり傷付けられた時、「大げさに反応しているだけじゃないの?」や「貴方『が』問題なんじゃないの?」という声が頭の片隅で囁きます。

ガスライティングの横行する現状では、感情的な反応をする個人を非難するだけでなく、あるコミュニティがコミュニティ全体として何らかの懸念を表明した時、それを「PC警察」や「社会正義の戦士」などといって切り捨ててしまいます。

8%近くものアメリカ人が一生のうちに何らかのPTSDを経験し、トリガーに遭遇したらそのトラウマを追体験しなければならないという事実があるのに、大学の教授達は読書リストに内容に関する注意書きをするようプレッシャーを掛けられると不平不満を漏らすのです。

私達の文化では、人々の感情や生きた経験は尊重されないのです。

私達がもっと相手の感情を抑圧するのではなく、その人が自分の感情と向き合う手助けが出来るような言葉を選ぶ努力をすれば、個人が何の心配もなく、健全な方法で感情を表現できて、周りも真摯にそれを受けとめるといった文化を作り出せるかもしれません。

貴方の大切な人に自分の現実認識を信じ、感情を尊重して欲しいと願うのなら、ここに紹介するフレーズを子供に言うのも大人に言うのも今すぐ止めるべきです。

1.石や棒は貴方の骨を折るかもしれないけれど、あだ名は貴方を傷付けない。

(身体的暴力は貴方を傷付けるかもしれないけれど、言葉は貴方を傷付けない)

この常套句に反して、嫌なあだ名によって傷付くのは全く持って普通のことです。

殴られたら肉体的に傷付くように、からかわれたら精神的に傷付くのです。

それに、あだ名は誰も傷付けないというのは、これまでメンタルヘルス関連で苦しんできた全ての子供達、そして言葉によるいじめで自殺してしまった全ての子供達の存在を無視した言葉です。更にはレイシスト、セクシスト、トランスフォビック、ホモフォビック、その他の差別的なコメントがどれほど影響があるかという事実も無視しています。

もしかしたら、あだ名は貴方を傷付けないというのはあだ名は貴方を「決して」傷付けることはないという意味ではないのかもしれません。もしかしたら、あだ名によって貴方が「傷付く必要はない」と言いたいのかもしれません。

人は貴方を傷付けるようなことを言うけれど、それは必ずしも真実ではないし、心に留めるまでもないのだと伝えるのは確かに価値のあることです。でも、たとえそうだと論理的には分かっていても、何に傷付いて何に傷付かないかということの大部分は私達のコントロールの範囲外にあります。

あだ名は客観的な事実ではなく、そのあだ名で呼ばれる人よりも呼ぶ人の人柄を表しているのかもしれないけれど、それでもあだ名で傷付くのは当たり前のことなのだという方が余程その人のためになるでしょう。

傷付いているという事実を否定するよりも、その方が余程誰かが傷付くのを防ぐ役に立つ筈です。

2.過去に拘っていても仕方が無い。

(過去に拘ることは無駄だ)

この言葉は過去に起きた出来事に今でも傷付いているのは性格に欠陥があると言っているようなものです。これが「貴方は人を赦さない」という意味で使われる時は特に。

でも、嫌な思い出がいつ蘇ってくるかなんていつもコントロールできるものではありませんし、いつも傷付くような出来事を意志の力で乗り越えることが可能だとは限りません。

それに、もし誰かが貴方を不当に扱ったのに謝罪しなかったのなら、今でも怒っているのは当然ですし、それが過去の出来事であるということは免罪にはなりません。

「過去に拘っても仕方が無い」という人が、貴方が拘っていることをした張本人という場合があります。そんな時、その人達は貴方の話をちゃんと聞こうとしないで、自己弁護に執心しているだけなのです。

嫌な出来事を頭の中で何度も追体験するのは辛いのが分かっているから、辛い思いをしないようにとそう言っているだけの場合もあります。でも、それはやっぱり貴方にコントロールできることではないのです。進んで過去に拘っていたい人なんていません。

それに、過去に拘るなということはその人の体験を矮小化することにも繋がります。それがトラウマ的な体験だった時は特にそうです。心理的、肉体的、性的に虐待された人に過去に拘るなというのは、虐待の影響は一生続くという事実を無視しています。

それにどんなシナリオでも「無駄だ」というのは現実を無視した言葉です。一体いつから人間は役に立つことだけをしてきたというのでしょう。病気になるのは無駄なことです。でも、だからといって病気をしないことにはなりませんし、病気の人が治療を受けるべきではないということにも、仕事を休むべきではないということにもなりません。

3.貴方の同意なしに、誰も貴方に劣等感を抱かせることは出来ない。

この言葉は一般にエレノア・ルーズベルトの言葉だとされていますが、実は出典は不明です。

他人が貴方について何と言おうと、それは神の言葉ではないのだから、誰かが貴方を劣った存在として見ていたとしても、貴方もそう思う必要はないのだという有益なメッセージを、この言葉で伝えることは出来ます。

でも、大抵の場合、このメッセージは更に拡大解釈されて、人に劣等感を抱かせるような人から、劣等感を抱いている人への責任転嫁の言葉として使われます。

非建設的な批判に影響されないようにするというのは立派な目的ですが、だからといってその批判が正当だということにはなりません。

バリエーションとして「誰も貴方に何かを感じさせることはできない」というものがあります。

ある人に不快な気分にさせられたと愚痴を言っていたら友人の一人がそう言った時が、このフレーズを初めて聞いた時でした。その時はうまいことを言うなと思ったのです。他人のコメントに動じない自分というアイデアにエンパワーされた気がしました(現実には全然そんなことなかったのですけど)。でも、後になってその同じ友人が、自分の発言で私を不快にさせたときにこのフレーズを使ったのです。まるで、自分には何の落ち度も無くて、私が繊細すぎるのが問題だとでもいうように。

数人の人から「誰も貴方に何かを感じさせることはできない」と繰り返し聞かされた後、私は本当に誰かに不快にさせられたのかと自分を疑い始めるようになりました。私は「繊細すぎるのだ」「私の同意なしに誰も私に劣等感を抱かせることは出来ないのなら、劣等感を感じている私は同意したことになる。それでは何故私はそんなことに同意しているのだろう?」と自問するようになりました。

あれから、他人の意見に無関心でいることは大変難しいことであり、それが出来たらすばらしい事だけど、現実にはほとんど期待出来ないのだと理解しました。

誰かが貴方を不快にさせたのなら、その人が自分の発言を振り返ってみるのが正しいのであって、その人が貴方を非難することではありません。

貴方の面の皮が厚かろうとそうでなかろうと、貴方に対する扱いの責任は相手にあります。

誰かの発言と、それに対する貴方の反応は別々の問題であり、混同されてはならないのです。

4.腹は立てるものであって、立てさせられるものではない。

「貴方の同意なしに、誰も貴方に劣等感を抱かせることは出来ない」と同じように、このフレーズも他人の(有害な)意見に耳を貸さないというエンパワメントとして使われることもありますが、侮辱的な発言をした人を擁護するために使われるのが大抵です。

誰かが貴方を傷付けるようなことをした時、腹を立てるのは自分自身の選択の結果だといわれると、その内自分のことを細かいことを気にして文句ばっかり言っている、議論がましい人間だとおもうようになります。不快なことがあったら、自分の意見や考え方には価値があり、相手の意図の有無に関わらず実際に侮蔑的なことを言われ、それを感じ取ったのだと思う代わりに、自分を責めるようになるのです。

侮辱されたと感じる人を沈黙させるのは、人を傷付けることをしたくないのに、自分が(無意識の内に)そのような発言をしていることに気付いていない人に対しても不利に働きます。

腹を立てているひとに耳を傾け、何故怒っているのかを尋ねることで、言語やポップカルチャーなどといった抑圧的な考えを普及させる道具となる物事についての議論を始められるかもしれないのです。

更にはそうすることで、自分の言葉が、今まで自分が考えもしなかったパースペクティブを持つ人にとっては刃となり得ると理解し、将来的に様々なパースペクティブを念頭に置いて会話をするための手助けにもなります。

5.「人は元から信じていることの証明を探すものだ」

映画内でのセクシストなダブルススタンダード(ちなみに両方のキャラが裸でいるシーンで、女性のヌードは映すのに男性のヌードは映さないというものでした)を私が指摘した時に元彼が言ったのが最初にこのフレーズを聞いた時でした。

私は常にセクシズムを探しているから、セクシズムが目に入るのだと彼は言いました。

自分の考えが、実際に見聞きしたことからではなく先入観からくるものだといわれると、人は自分の知性を疑うようになります。その結果、私の場合は私の洞察に信頼が持てなくなって、ジェンダーに関する会話に参加するのを躊躇するようになりました。(ジェンダーについて何年も勉強しているのに!)

私はいつもセクシズムについて考えていて、それ故に先入観を持っているのだから、ジェンダーに関して私の意見には価値がないと自分に言い聞かせるようになったのです。私が何かの問題に気付いたとしたら、それは私が腹を立てる機会を探していたからだと思うようになったのです。

しかし、あることを経験するのはその経験を予期しているからだというのは単純に間違いです。

貴方が普段からある問題について考えているということは、貴方はそれについて深い見識を持っているということなのだから、貴方の意見をより信頼できるものにすることはあっても、その逆はありません。

元々不満を持っているから、元々怒っているから怒りの種になるようなことばかり見聞きするのだというのは、その人の知性を侮辱する言葉です。

6.笑って(あるいは泣かないで)。

誰かが貴方に笑ってとか泣かないでという時、その人は貴方に元気を出して欲しいと思っていることが殆どでしょう(例外として貴方の外見をとやかく言いたいだけのストリートハラッサーはいますが)。

でも、貴方がどんな表情をするかは1)殆どの場合無意識である2)他人には関係ないことです。

一般にわざと泣く人はいませんし、むしろ泣くのを恥ずかしく思う人が殆どでしょう。

誰かに泣かないでという時、それはもっと感情を隠す努力をしろと言っているのと同じことです。笑顔を作ることで気分が良くなる人もいますが、それを不誠実だと感じる人もいます。

笑って、とか泣かないでと繰り返し言われることで、やがて何もかも上手く行っているふりをしなければならないと思うようになります。更には、まるで感情とは客観的に評価できるものであり、大丈夫じゃないと感じる自分は間違っているのだと思うようになるのです。

自分の感情が間違っていると信じていると、その感情を引き起こした原因となる問題に向き合うのではなく、感情自体を抑え付けるようになります。

このように誰かを沈黙させないためにも、不快な感情だったとしても本当の感情を表現できる安全なスペースを提供する必要があるのです。

7.思考が現実を形作る。

以前、特に理由も無いのに落ち込んでいたことがありました。

家族の一人に何故落ち込んでいるのかと聞かれても、「分からない。こんな気持ちになりたくてなってるのではないのに」としか言えませんでした。

すると、彼女はどういう気持ちになるのかは自分で決められると言ったのです。それを聞いて、もしそれが本当なら、わざわざ落ち込むことを決めた私はどこかおかしいのではないかと思いました。

自分が何をどう感じるかを選択できると言うことは、十分な努力さえすれば不安障害や鬱から抜け出せるのだと暗に意味することで精神病を矮小化することです。

この論理を身体的な病気に適用してガスライティングをする人もいます。心頭滅却すれば火もまた涼し。偏頭痛だってその気になれば治せてしまう、と。

ポジティブ思考は役に立つこともありますが、限界があります。

そんなにポジティブに考えようとしてもどうしても元気の出ない時はあるし、それは貴方に欠点があるからではないのです

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ここで紹介したフレーズはいつも有害とは限りませんし、時には大切なメッセージを含んでいることもあります。

でも、それらのメッセージは傷付いている人がそういった感情を持つことを責めることなく伝えられるはずです。例えば、「そんな風に感じてはいけない」と言う代わりに「貴方がそんな風に感じるようなことはあってはいけなかった」と言うのはどうでしょう。ぎこちない言い方かもしれませんが、この言い方なら相手が今感じていることは間違っていないということを明確にしますし、その人がそんな風に感じているという事実に共感を示し、ネガティブな考えは必ずしも現実を反映しているとは限らないと伝えることが出来ます。

誰かの経験を疑うことは非生産的なのではありません。むしろ逆効果なのです。

誰かに貴方の考えていることや感じていることは間違っていると言うのは、その考えや感情と向き合う助けにはなりません。今抑え付けても、後でその人を苦しめることになるだけです。

相手の経験を事実ではないと否定するのではなく、相手の見たこと感じたことを信じることで、その人が自分の感情をコントロールする術を身に着ける手助けが出来るのです。

他人の言葉や行為を個人的に受け取らないように手助けしたいのなら、傷付いた感情をそのまま受け止めさせる手助けをする方が、その感情がどこから来るのかの理解を深められるという点でずっと有益なのです。

それに、傷付いたり怒ったりしている人を責めるのは、単純に正しくないことでもあります。

人は何らかの理由があって傷付くものです。その感情の存在を否定するよりも、傷付いた理由を真摯に受け止める方がずっと生産的で健全で、心優しい行いなのではないでしょうか。








Suzannah Weiss is a New York-based writer whose work has appeared in The Washington Post, Salon, Seventeen, Buzzfeed, The Huffington Post, Bustle, and more. She holds degrees in Gender and Sexuality Studies, Modern Culture and Media, and Cognitive Neuroscience from Brown University. You can follow her on Twitter @suzannahweiss.








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