あの日の猫の話

猫と会話をしたことがある。
ある雨上がりの日だった。

15年くらい前、訪問販売の仕事をしていた私は、とある街のとある水色のアパートを一軒一軒チャイムを鳴らして訪問していた。
在宅率が低く、チャイムを鳴らしては待つ。また次の部屋のチャイムを鳴らして待つの繰り返し。

どこからか猫の鳴き声が聞こえた。
辺りを見回すと、アパートの隅っこに一匹の猫が座ってこちらを見ていた。
一瞬目が合ったが、私は気にせず引き続きチャイムを押していく。

するといつの間にかドアの前でチャイムへの反応を待っている私の足元にその猫がやってきていた。口になにかを咥えている。もしやネズミ?
猫は地面に咥えていたものを置き、私を見上げてひと声にゃーと鳴いた。

しゃがんで見てみると、それは猫の赤ちゃんだった。ぱっと見た感じ猫とは言えないような小さな小さな毛の生えたかたまり。生まれたてだろうか。そしてそれは動かなかった。触ると冷たかった。

そっか。
ごめん、私神様じゃないから生き返らせてあげられないんだ。
私にできることでもいいかな。

アパート付近の湿った土をなにかの棒で掘り返し、その赤ちゃんを埋めて、そのへんに咲いていた小さな花をそっと添えた。

猫は少し離れた場所から私を見ていた。
もう鳴くことはなかった。

あの日、確かに私は猫と会話をした。
猫語は分からないけど、何を言っているかは分かった。その深い悲しみは私に染み込んできた。猫って飄々としているけど、よっぽど焦っていたんだろう。見ず知らずの人間に話しかけてくるなんて。

もしかしたら私はこれから猫と会話できるようになるかもしれない、となんとなく期待をしてみたが、それ以来一度もできたことはない。

私の人生において、今でも忘れることのできないとっても大切な出来事。

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