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2022年9月 犬・新宿・犬

読みながら次へ次へと思いが走り、一冊も精読できぬ連想読書

町田康『私の文学史

NHKカルチャー青山教室にて4回に渡ったこの講座を受けていた約3ヶ月間、夢中だった。
霧中、でもいい。
前のめりで、つんのめって、倒れぬよう自然つま先立ちになって、延々つっ走るような気持ちで通い詰めた。

やや悪夢寄りの夢の中、全力で走っているのに自分の腿がまるで二隻の航空母艦のような重たさ愚鈍さでちーとも前に進まなかったり、ポップな幽体離脱のごとく身体が浮いては沈みを繰り返すような、自分の精神と身体を制御できていないことに気づく余裕もなく、ひとりの人間の「あらゆる局面を書物で乗り切る©︎町田康」半生を聴いた。
今まで人の話をこれほど真剣に聴いたことはなかったように思う。
絶後、でもいい。

せんせは何したかて話題になるけども、ご自身の話をするとさらに。
読者、ファン、取材する人たちだけでなく、本を出す側も熱を帯びているように見える。
これは『しらふで生きる』刊行時にも感じた。
みんな、せんせ自身のことに興味あんにゃなぁ。あてくしを筆頭に?

語られないことに、興味は集まる。
すっくり語られた後は、どうなるのんやろう。

店頭で見るにNHK出版新書は著名人に限りカバーを二重にするダブルカバーとやらの仕様で本人の写真を使うらしく、ほんならせんせはどのお写真にすんにゃろう、とたのしみにしていた。
まさか、『腹ふり』で再びわたしらの脳髄を痺れさせてくれるとは予想だにせず。

アラーキーによって撮影された30歳くらい?のせんせ。
撮影場所は新宿だったそうで、見ただけでギュワーンという街の轟が聞こえてくるような景色はまさしく新宿、そやけど一体新宿のどこなん?と、方向音痴ゆえ(か?)よく分からんまま30年経過した某日…

森山大道 荒木経惟『森山・新宿・荒木

とある方のブログにて、いまでいうJR新宿駅東南口の周辺が『腹ふり』撮影のそこと知る。
はああっ、これ、これです。
ここに過日のせんせは立っていたのだなぁ。アラーキーの向けるカメラのレンズを、あの目ぇで見つめていたのだなぁ。
うん?そないゆーたらこの辺で飲んだことあるわ、何回か。ええ、あっこなん?
 結合先をしらぬシナプスが
 30年間の彷徨の後につながる

いまはもうキレーキレーになってしまっている腹ふり伝説の地を、せめて写真で追おうと、アラーキーand新宿で検索する内にめぐり合ってしまった、Daido Moriyama。

森山って誰、と無知ゆえの不遜で雑いめにページをめくる。ふーん。
森山って人の写す新宿は、わたしにも身に覚えのあるあの新宿だなぁと、無知ゆえの“上から”で謎の共感を寄す。
しかし所詮鑑賞眼を持たぬアホ、一瞬後には巻末の御二方による対談に行き着きて。

言いたい放題と見せかけてとっても気にしぃのアラーキーを、
「いいよ、オレが弁護するから、新宿は」
とさりげなく労わる、Daido Moriyama。
うぬっ、この人は素敵だ。
「書割の街だね、ここは」
やややっ。
「新宿ってさ、季節なんかないんだよ、オレにとってはね」
「新宿は、アノニマスなんだよ、結局」
なにそれ、かっこよろしやんかいさ。

とどまることを知らぬ
ステップは三千年間繰り返される

町田町蔵「永遠にジャンプ」『腹ふり』収録

といったようなアラーキーの怒涛の喋りを押しとどめるでもなく、呑まれるでもなく、奔流の中で作為なく泳ぐ細い魚のようなDaido Moriyamaの言葉に、特別なものを感ずる。
写真のことはよくわからないけど、この人の新宿をもっと見たい…

森山大道『新宿

分厚いめの写真集に、紙一枚の付録。
そこに書かれた随筆を読んで、意外に思った。

 夜、カメラを手に、歌舞伎町から区役所通りへ、そして大久保通りを新大久保駅へと歩いていくとき、ぼくはときおり背すじがスッと寒くなる思いがする。とくに何が起きたというわけでもないのに、どこかでひるむ自分を感覚する。ネオンやイルミネーションのもとで、路地裏の暗がりのなかで、人々は影の存在となって蠢いて映る。ぼくが手にする小さなカメラの視線に、それら影となった人々の、昆虫のように敏感な反応が電流となって伝わってくる。緊張感でぼくの身体の細胞が少しざわつき、辺りの空気がザラリとひと荒れして知覚される。そこはかとなく暴力的なアトモスフィアに身をつつまれながらうろつき廻っていると、ひるむ気持ちにあらがうように、カメラマンであれば、やはり新宿を撮るほかはないとぼくは自分に言い聞かせる。なぜならば、ここはほかならぬ新宿であり、大いなる場末なのだから。

森山大道「新宿」

新宿を、そこにいる人々を撮るときに緊張する。というのか。このお人は。
写真家というのは、被写体の真ん前に大股開いて立ちはだかり、目ぇをまっすぐに射すくめてヂシャと撮影するよな不敵なイメージ、固定観念を持っていたから、とても意外に思った。

ひそか胸を震わせながら、それでもここしかないと自分を鼓舞し、若かりし森山さんは新宿を撮り続けていたのだろうか。
怖いけどこれしかない、これを外しては自分はナニモノにもなれない。
そんなふうにも思ったりしただろうか。
世界的な写真家とならはったいまも、それはチリリと心のどこかに鳴っているのだろうか。

初見で目ぇに焼き付いた写真がある。
構造物の隙間、量水器ボックスや、むらなく赤錆をまとって放置された脚立などの間から半ば振り返り、まぁ直ぐこちらを見る野良猫。
この表情はなるほどやはり新宿の猫でなくてはならないだろうし、それを撮れるのが森山大道なのだな。
ーと、写真を眺めることもちょっとだけ覚えて。
この人の文章を、もっと読みたい…

森山大道『犬の記憶』及び『犬の記憶 終章

付箋貼りまくって読む。
語句の選択が新鮮で、どこまでを漢字にしてどこからをひらがなにするのかが気持ちいい表記、句読点での深呼吸。
紛れもなくこの人自身から湧いている言葉なのだと分かる。
どこかで渉猟してきたり、ちょいっと剽窃したり、そんなんが一切ない文章。

文庫の新版はカバー写真が「三沢の犬」と、森山さんのシルエットでとっても惹かれるけども。
横尾忠則による解説が最高なので、2001年刊行のものを手元に残す。
先の「新宿」も、いつでも読めるようせんならん…

森山大道『通過者の視線

『新宿』付録の随筆「新宿」が所収されている単行本。
またまた付箋貼りまくって読む。
この高揚は逆上か、情動か、と自分の感情を見失いながら読み進む愉悦。

森山さんはご自身の写真を“叙事”だと、対談かなにかで仰っていたのを読んだ記憶が薄っすらとある。
出典、失念。
いまさらながら知った森山大道に興奮し、遡ったはいいがその膨大な著書群を前に、あてくしの財力はたちまち蒸散。ジョウサンズ。大きいめの図書館で手あたり次第読んでひとまず正気に還ってきたばかりですよって。

叙事かー、叙事なんだね。
…叙景やのーて?
森山さんの写真を叙事だと得心できるよーになるのんはいつかしらん。
叙景ではないのだなぁ、そうなんだなぁ…

鈴木創士『ランボー全詩集

今月もまた、鈴木創士といふ此岸にようよう泳ぎ着く。ぷはーっ。
(護岸ブロックにしがみつき、ぜえぜえ息をつく女。ずぶ濡れ)
ランボーにいまひとつ興味持てへんながら、鈴木創士の選ぶ語句を知りたくて手にしてみた。

「酔いどれ船」を、中原中也訳の「酔ひどれ船」と一行ずつ交互に読む。
あら、なにかしらこの相性の良さ。
中原中也の荒魂のような詩魂を、鈴木創士の持つ理性と眼差しがなめらかにつないでゆく。
あらま、素敵な感覚。
これは併読ならぬ、並読。

9月はこんな体たらく。
昔、目を患った犬に処方された点眼薬を手に当の犬と対峙したときの絶望を(ええ…一体どうやってこれをこいつに?)思い出しながらオノレに目薬さしつつ、報告は以上です。

ほな日ぃ暮れる前に目やみ地蔵さん行てまんまんさんあん!せんならんし、この辺で失礼しまっさ。


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