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反社会的な俺の人生の忘備録〜プロレス編〜

初回のnoteではアントニオ猪木を思い書き始めたが、色々と過去を思い出すにつれ、俺には俺の他人様には他人様の人生には忘れてはならない人達がいる事に改めて気がついた。今回はプロレスを通じてかなりディープな子供時代から青年期までを綴ってみたい。
ある界隈では有名人の話でもあるが昭和丸出しで、しかも「反社会的」な話になる。だが歴史の闇に消え去れらたくない人達もいる。だから健全な諸兄は読んで貰わなくても構わない。
小学生の頃から…と言うか、俺の実父の存在、生き方こそ俺の父の生き急いだ生き方であり、そこから話さないと俺の人生との折り合いが付かないが、実父編は後に譲として、今日のnoteでは父について基本的な素地だけ書いておこう。
祖父が満州で満鉄の上級技師をしていた戦中、昭和11年に父は生まれた。戦後に本土に帰還した祖父は石川島播磨重工場に再就職し、暫くして独立。技師の技術の為か秋葉原でラジオを作り出し売り出して間もなくして大金を得る様になる。
父は日本大学に進んだが途中で退学。今で言うヤンチャ、俺達の時代で言った不良青年だったが、時代が時代で不良も命懸けの世相。遊び場は、渋谷、新宿、恵比寿、大森、横浜あたりだと聞いていた。当時、恵比寿に小寺康一郎(コウイチロウの漢字は多分この字のはず)と言う人物がおり、安藤昇の兄貴分に当たる人物。その小寺さんのグループは所謂、愚連隊みたいな組で中にはアジア人以外の外人も居たりしていた。今で言うと六代目山口組の国粋会にあたる小寺一派と言う事になる。当時の東京は住吉連合、国粋会、松葉会、ニ率会、東声会その他諸々の組織がシマ割を守りながら大きな抗争事件はなかった。で、新宿の東口には伝説の万年東一の「おじさん」が喫茶店白十字に毎日のように陣取っていた。


俺が万年東一氏をおじさんと呼べるのは、先に言った小寺康一郎さんと万年さん、後述するが小岩の黒河内和夫のおじさんには母が可愛がられていて、週一には必ず白十字に小学生の頃から連れて行かれていた。また、月に二、三回は黒河内和夫のおじさんが小岩から田園調布のウチまで遊びに来ていた。いま、万年東一のおじさんを大日本一誠会の若手の面々を含め山平重樹氏も宅建太郎氏も見たことも話したこともないだろうが。あ、そう言えば宮崎学さんが万年東一のおじさんと久しかったと記述しているが俺は万年さんの舎弟分の小林石松さんの名前や当時小学生や中学生だった俺を可愛がってくれた白十字一派の名前を言っても話が通じなくて、本当に昵懇だったのかいまだに疑問に思っている。それに対して、安部譲ニさんは安藤昇さんと父との関係や小寺さんの関係を直ぐにわかってくれた人だ。


さて、話をプロレスに戻さなくては。
全日本女子プロレスジャガー横田や女帝ブル中野が在籍していた団体だが万年さんと松永高司氏が立ち上げた団体で、万年さんは会長職を辞任松永高司氏が長年実権を握っていた団体であるが、ケツは万年さんが持っていた。当時、田園調布には「田園コロシアム」と言う巨大なテニス場があり、スタンハンセンvsアンドレザ・ジャイアント戦も此処で行われた。全日本女子プロレスも年に2回此処で興行していた。試合自体は夕方からだがウチのマンションに午前中から万年のおじさんが遊びに来て鰻を昼飯に出前してから母と万年さんと3人で田園コロシアムに向かうと言う事を10年以上繰り返していた。万年さんは埼玉県の確か草加か川口に(記憶が定かではないが埼玉県)に住んでいたが田園調布まで電車で来られてた。女子プロレスの前に小人プロレスがあり、子供の頃は半分怖くて半分面白いと言う複雑な異空間だった気がする。

その全日本女子プロレスとも団体倒産間際にに再び出会う事になるのだが…



万年東一と言えば今では「伝説の愚連隊」との形容詞で通っているが、俺が知り合ったころはまだ現役時代だったもので当時は「兵隊やくざのモデル」(勝新太郎主演 大映映画)が万年さんの形容詞だった。
母と万年のおじさんとまた小人プロレス見に行きたかった。
あ、影かおるさん元気かな?😆(松永さんの姪っ子で極悪軍団)

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