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反社会的な親子関係

何だかプロレスに合わせて年代順に俺の人生の出会いや、思い出を書き連ねていたら書き辛くなって来たので今回は一発、いま話題のBreaking Down瓜田純二くんの話から始めよう。
その前に…
俺の生まれながらの環境なのか、俺を信じてくれていた母のお陰かなのかは分からないが、ただ俺は普通に生きていた。小中学では勉強が嫌いで、特に数学は1番苦手な子供…明治生まれの祖父が通信簿(当時は5段階評価)を見て「カズは頭がいい、1が沢山あったぞ」と祖父の会社の社員や信用金庫の担当者に言い回っていた。
小学校5年生の時に先日のnoteに書いた黒河内和夫のおじさんと母と3人で塩沢四郎さんのご自宅に遊びに行くとエンコ詰めしたばかりの若い衆が出迎え(包帯から血が滲んでいた)たのを見ても詰めたばかりのは初めて見たが既に小指のない人達は見慣れていて俺と遊んでくれていた環境。
右翼運動を始めたのも「これぞ俺の生きる道!」って気概も無く流れの一環として捉えていたし、正にいまも人生を振り返ってみればそうだ。「暴走族になった」とか「右翼になった」とか「ヤクザ稼業で世渡りしている」なんて考えた事もなく、ただただ流れのままに生きてきた俺だが、ただ一度だけ「ああ、これで俺もヤクザもんになるのかな」って思った時期があった。
父親の筋や、万年東一さん、黒河内和夫のおじさんとの関係など、これっぽっちも知らないヤクザ者を事件屋の真辺吉角に紹介されて稲川会林一家(林喜一郎組長)の下部団体(稲川会三次団体)武居組の門倉輝夫さんと出会う。1人で新宿で遊んでいた俺を何の縁故も無く「男稼業」に見合うと思ってくれた嬉しさから新宿に進出していた林一家の武田組の組事務所に週に二、三度通い始める事になってしまった。その頃はまだ林喜一郎親分は御存命であり、一度だけ泊まりで病院の当番に行ったこともある。
新宿の稲川会と言えば稲川会横須賀一家井の上組の井上孝彦氏だけで頑張っていた最強のイケイケ軍団しか存在しなかった時代に(井之上孝之さんとの出会いとその後に付いては後の編で)いま思えば稲川会林一家の何処かの組の武居氏と舎弟の門倉輝夫さんと組み名乗りを許され、新宿に事務所を構えた形だったと思う。恐らく武居組の武居氏はバブル期金は持っていた。ある日、門倉輝夫さんから新宿に呼ばれ俺は3人連れて新宿のホテルの会議室に向かう。着くと俺達と同年代の「不良」が10程いて、イージーオーダーの背広の仕立て屋もいた。それで全員作られたのは紺色のブレザーとグレーのズボン…しかもダブルの金ボタン。まるでオリンピック選手団の様な背広の採寸を仕立て屋のオヤジがしていた時に、山ほど積まれていた巨大なポスターを見て更に俺達は度肝を抜かすのだ。
何とアフリカの黒人の子供の顔に蠅が止まっていて「アフリカの貧困に支援に愛の手を!」と書かれていたのだ。
丁度、We Are The Worldが流行っていた頃だったからかは分からないが、これはこの組自体の仕事では無く林一家、いや稲川会の仕事であろう。何か…国際的な何かの。そんな新宿東口に事務所を構えた出来立てホカホカの武居組だが、俺と同じ歳くらいのチンピラが10人と先輩格が2〜3人、先の門倉輝夫さんと組長の組だった。
そして…何と先輩の中に、、ブラック・エンペラーの先輩でもある(年代が違うから一緒に暴走したことはない)遠藤吉寿瓜田純二くんの父親)先輩の顔が…。


遠藤先輩とはエンペラーの話や何やで取り分け俺を可愛がってくれていた。ある日新宿を歩いていたら出会し「山田、ついて来な」と小さな洋品店へ。カーテンが店の中央に間仕切りみたいに仕切られていて奥はポーカーゲーム機がある店へ、その店でマンシングウェアーのセーターを買ってくれたり、赤坂のペペルモコで出会し偶然同じハーフの女の子を指名してたり(遠藤先輩ジュリの事です🙏)と。で、遠藤先輩の兄弟分みたいな人に桂さんと言う人も事務所に出入りしていた。この桂さんと言う方も凄まじい人で、ある日に揉め事があり待機と事務所に集合がかかった日にポンを食って出てこれなかった。普通なら焼きを入れられてエンコ飛ばすくらい(小指の切断)なのだが桂さんは自ら親指を飛ばして謝ったくらいの人で兎に角喧嘩好き。この人…最後は山手線の神田か秋葉原のホームで後ろから刺し殺された。
で、林一家の二代目の襲名披露宴を一家内で横浜のなわのれんで行われた時に門倉さんに連れられて行かれ俺は中学からの友達を連れて行ってシレーっと肉のお代わりを何回かした覚えがある。
所が俺や遠藤先輩やチンピラ達が新宿に集まってから2ヶ月もしない内に新宿の街中華で飯を誰か忘れたが食っていた時に中華屋のテレビのニュースに武居の組長のニュースが…確か不動産絡みで何億かポケットに入れた様な…それで組は解散、武田組長は絶縁、門倉輝夫さんは破門と言う結末に俺も遠藤先輩も盃事なんかしておらず、正確に言うと組員にもなってない。ほぼ組長が事務所に来ないで忙しくしていたのに合点がいく。
で、遠藤先輩はその後しばらく新宿を離れて再び新宿に戻って来て花屋さんを経営していた。1998年頃にその花屋さんから六本木のホステスの誕生日に薔薇を300本届けて貰った事があり、その後の遠藤吉寿さんについては分からないが、ウチと同じで親子ともども反社会的父と子だ。しかしとんでも無く忙しく馬鹿みたいな2ヶ月だった…。
瓜田純二さん、親子の関係は分からないが父さんでも母さんでも親孝行は出来るだけしてやってくれ。
俺は出来なかったから…。


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