フォークとバスタオル4

私はそうは思わない。


ふと、こわくなる。
女が男に言論統制かける時代になっちゃったらどうしよう、と。語弊を恐れずに言えば、いじめられっ子がいじめっ子に変わるのに似たような瞬間が訪れたらどうしよう、と。
なんていうか、こわくなる。



っていう令和っぽくない本音を抱えてる。



こんな風に考えたきっかけのひとつに、先週のM-1グランプリがある。頬の筋肉が痛くなるまで大爆笑したあと、いつものようにTwitterを開きタイムラインをビュンビュンとスクロールしていた私は、なんだかモヤモヤした。見取り図というコンビの披露した漫才に対する批判的なツイートがいくつも流れてきたから。正直、またか、と思った。「またか」というのは、「また(見取り図の漫才に対する批判)か」ではない。「また(このパターンの批判)か」という意味である。ウンザリした私は、クリスマスイブにこんなツイートをした。


女の人が不快だと言えば、もう、反論は許されない。特に男の人が一言でも反論しようものなら、それに同調した者もまとめてボコボコにされるのである。そんな空気がそこら中に漂ってる。それがこわい、こわくてたまらない。こんな事をいうと100人に1人くらいは「それって男性からのセクハラを黙って容認しろってことですよね!?」とユニークな早合点をされる女の人がいるかもしれないが、落ち着いてほしい。そんな話はしていない。私が言いたいのは、なんだか上手く言えないんだけど、本当に庇うべき人を正しく庇えるようにしたくない?ってことだ。多分。こういう批判をしてる人って本当に"全員"庇うべき人なのかな。本当?本気?そのキンキン声。って。




実はこのツイートをした日の夜、ツイッターでDMを頂いた。大阪に住む見取り図のファンの方からだった。


M-1での見取り図の漫才が批判されていて心が傷んでいた、と。

同じく決勝戦で漫才を披露した「ぺこぱ」の平和さと対比され、人間性まで比較されている気がして、すごく悲しくなっていた。せっかくの大舞台で悪い印象を残してしまったのではないかと不安だった、と。そんな中で私のツイートを見て下さり、「そういう風に思ってくれてる人も世の中にいるんだと思って気持ちが楽になった」とわざわざメッセージを送って下さったのだ。

クリスマスイブの夜、大好きな鳥貴族へ向かう道すがらにこのメッセージを読んで私は泣きそうになった。彼女からのメッセージは要約して書いたものだが、実際はかなりの長文だった。見取り図の事をずっとずっと応援してきた彼女は批判的なツイートを見て、彼らはそんな意図があって漫才をやってるんじゃない!と叫びたかったはずだ。


ふと、こわくなった。
女が男に言論統制かける時代になっちゃったらどうしよう、と。語弊を恐れずに言えば、いじめられっ子がいじめっ子に変わるのに似たような瞬間が訪れたらどうしよう、と。
なんていうか、こわくなった。


名称未設定のデザイン (18)


誰かの発言、文章、台詞、存在する音、形、色、匂い、色んなところに暗闇を飛び交うコウモリのように目を光らせて、スズメのように小さく硬い嘴でチミチミとついばんで、「これってこういう意味でしょうか・・?」「それを気にしている方がいたら傷つくんじゃないでしょうか・・?」って、背後からそっと現れてくる他人、他人、他人。そういう他人たちは、例えばこの文章に対しても「目が光る事を気にしているコウモリだっているんですよ・・?」とでも言うのだろう。先に謝罪させて頂きます。コウモリ様、心無い発言まことに申し訳ありませんでした。

自分の考えと異なる=自分を攻撃している。ではない。この事を何人が理解できているだろう。異なるということは、つまり、ただ、異なるというだけ。JUST 異なる。自分と違う。それだけ。そもそも自分と全く同じ人間なんていないし(クローン人間を作ることは法律で禁じられている)、異なるから対立しなければいけない、オセロのように自分と同じ色にひっくり返さなければいけない、なんてルールはどこにも存在しない。


外を歩いてもゴミは落ちていない、人気ラーメン店には一列で並ぶ、電車の中では静かにお行儀よく過ごす、そんな整備されつくされた国だから、みんな少しの"異"が気になって大きなストレスになるのか。だとしたら私は積極的に道端にゴミを捨てたい、味がなくなるまで噛んだガムをそこら中に吐き出したい、みんなの心の安寧のために一生懸命、高級絨毯の上にジュースや牛乳をこぼしたい。みんなが必死で"異"を見つけては糾弾していく事の一因がこの国の美しさにあるのなら、私は本気でそうしたい。


「常識とは18歳までに身に着けた偏見のコレクションのことをいう」というアインシュタインの言葉がある。一人ひとりの脳みそケースの中には、今までにコレクションしてきたイメージが陳列されているのだ。例えば、色白・黒髪・口数の少ない静かな人を思い浮かべながら「清楚系」にカテゴライズした事はないだろうか。例えば、焼けた肌・金髪・口癖はウェイ、そんな人を思い浮かべながら「パリピ系」にカテゴライズした事はないだろうか。それも君の立派な偏見。っていうか今のは私の偏見。脳みそケースの中にコレクションされたフィギュアの中から、手に入れた情報となるべく近いものを探して、「清楚ちゃん」と「パリピくん」を取り出しているのだ。
これはもちろん誰かを貶そうとかそういう意図があるわけではなく、今まで蓄積されてきた経験則に基づくイメージである。だから人によって異なる。正しいも間違っているもない。誰かが思い浮かべるイメージは全て偏見。それで良い、というか、そういうものだ。偏見を持って人と接し、様々な見方を知って、徐々にコレクションのバリエーションが豊富になっていくのではないか。

それすらも禁じられるのであれば我々はもう、事実しか話す事ができない。「あの人どんな人だった?」に対して、「髪が黒くて肌の色が白くて口数が少なくて、あと、人間。」と。

名称未設定のデザイン (19)


思ってたよりも優しい人間がいっぱいいる。
たった28年7ヵ月間しか生きてないけど、私の人生の感想だ(2019/12/30現在)。悪意を持って、誰かを傷つけようと思って発言・表現する人って意外と少ない。その言葉に至るまでの想いよりも言葉そのものや字面ばかりが注目されてしまう世の中だけど、私は、放たれた言葉そのものよりも、本当にこの人は誰かを傷つけたいと思って発言したのかな、って静かに考えたい。





はあ。
5日間考えてたのにまとまらない、上手く言えない、主張もグラグラ、つらつらと書いたけどまだゼンゼン。これが全部じゃない。

何が言いたいのか分かったら、また書こう。



以上、私の偏見。
読んで下さりありがとうございます。





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