及川徹は宗教なのか、影山飛雄は宗教なのか

※387話を受けただの独り言です。基本的に私の目に届く範囲の感想や意見を踏まえて書いています。

 先日ちょっとつぶやいたことなんですが、及川徹は宗教なんでしょうか。まずこの時点で意味わからん!って方は、おそらく最後まで意味不明だと思いますので、無理して読まないでください。幻覚強めのヲタクの独り言です。というのも、こないだの飛雄回(387話)で彼の過去が明らかになり、その時の読者の反応が気になったからです。
 387話では、飛雄ちゃんに姉がいたこと、両親ではなく祖父に育てられていたこと(そしておそらく、両親と祖父は不仲)、一緒にバレーをしてくれる相手がだんだんと居なくなったこと、しかし「強くなれば絶っっっ対に強い誰かが現れる」という一与さんの言葉を信じて、ただただ強くあろうとバレーを続けてきた結果、今、かつての最強の味方、日向翔陽と対峙していることが明らかになりました。19ページで飛雄ちゃんの人生を描き切る古舘先生の筆力が本当にすさまじいんですけど、これを受けた(私の目の届く範囲の)読者の反応が面白かった。一言で言えば「飛雄ちゃんが人だった」という感想。それに対する評価は、肯定的なもの否定的なものともにありましたが、結局は同根の問題に見えました。
 「飛雄ちゃんが人だった」の根拠を作中に求めるならば、天才達が「妖怪」や「バケモノ」と表現されていることを踏まえての表現でしょうが、それに加えて、二次創作において影山飛雄が「バレーの神様に愛された子」として表現されてきたことも理由の一つでしょう(もしかしたら特定の二次かもしれませんが……)。そんな彼の、人間性というか、過去が見えたのを受けて、私のTLでは「妖怪だと思ってた子が人だった」とか「人だけどその神性が失われていない」とか、そういった感想がまま見えました。人だった=人とは思ってなかったとか、神性ってまんま宗教ですよね。でも、影山飛雄は宗教だと言う方を、今のところ私は見たことがありません。もちろん推し(CP)は宗教みたいな言い回しでは見たことがあるけれど、及川徹のキャラクター性を表現するような、そういった使われ方はあんまりしてないと思う。もちろん用例調べてとか何にもしてないので、印象批評だーというそしりはまぬかれません。これはただの独り言なので……。そう言い訳させていただいた上で続けます。
 及川徹が宗教の比喩で語られるのは、作中で、彼がきわめて優れた指導者として描かれているからでしょう。技術はもちろん、国見ちゃんの本心(常にガムシャラなことがイコール本気ではないと考えている)を見抜いていたり、練習中、金田一君に「言いたいことは言う」と指導していたりするあたり、彼が人をよく見、心を掌握するのに長けていることがうかがえます。かつ、及川の不撓不屈の精神。彼は中学時代、牛島に敗北し続け、影山という脅威にさらされる。中高と才能への葛藤を抱きながらも、最後の春高では「才能開花のチャンスを掴むのは(中略)30歳になってからかも?」、「無いと思ってたら多分一生無いんだ」と「正しい努力」の道を選びます。これってすごいことですよね。影山君も言ってましたけど、あきらめないって口で言うほど簡単じゃないですよ。アインシュタインが成功するまでやるとか言ってますけど、それが「正しい」道だって分かってたとして、いったい何割の人間が成功するまであきらめずにやるんだろう。学校では、夢を持ちましょう、夢を実現させよう、夢を叶えるために努力しようと教えられます。私たち、幼稚園の頃から将来の夢はなんですかって聞かれ続けて、常に「何者」かになることを求められてきました。夢を追いかけることは素晴らしいと多くの人が言うけれど、売れないミュージシャンはびっくりするくらい馬鹿にされるし、サッカー選手や野球選手になると言った子供の何割が、選手になったんだろう。そのくらい夢を追いかけることの絶望が世の中にはあふれてる。夢を追いかけることが難しいというより、もはや夢を持つことすら難しいのかもしれない。もちろん夢を叶えている人達はいるけれど、心のどこかで、それは一握りの人間なのだと思ってしまう。そういう世界に私が、そしてもしかしたら、あなたが居て、この作品を読んでたら、及川徹の歩んだ先が、どれだけ──言葉は悪いけれど──異常なのかが分かるでしょう。私たちは「夢を叶えるために努力しましょう」と習いました。でも、めったなことでは夢どころか、努力することさえ、実現できないんです。それを、彼は地でやっている訳です。つまり学校で教えられるような「正しい」道を及川徹は歩んでいる。
 ここで、ちょっと寄り道ですが仏教には八正道という考えがあります。私も中途半端な知識なので偉そうに言えませんが、簡単に言うと、正しくものを考え判断し、正しい努力をしなさいみたいな意味です。この「正しい努力」というフレーズ、及川さんがホセに言われてますね。で、実際、及川さんは「正しい努力」の道を選びました。もちろんホセの言葉が仏教を意識したものだとは思いませんが、この「正しい努力」ができる人って、やっぱり賢人なんですよ。そういう正しさ、賢さ、みたいなものが「及川徹は宗教」って言われる所以なんじゃないかと私は考えています。
 そして、ここで飛雄ちゃんに立ち返ります。元はと言えば、387話の飛雄回からこれを書こうと思ったからです。私の見立てでは、読者は及川さんの宗教性をなんとなく自覚している。けれど、飛雄の宗教性(人じゃない、神様の子)には無自覚でいる。さっきも言ったように、それは飛雄が作中随一の天才であり、妖怪であり、バケモノだから。そう読むように何度も誘導されてきたからこそ、387話を受け「人だった」という感想が出てくる。それを肯定的にとらえる人、解釈が合わなかったとショックを受ける人、両方を見かけました。でも、ここで奇妙(?)なのが、肯定的に捉えようとショックを受けようと、結果的にはどちらもが神様の子「影山飛雄」を信仰しているように見える所です(念のためにお断りしますが、それらが悪いと非難したい訳ではありません)。
 というのも、肯定的に捉えた方には「人の部分を見せられてもなお影山の神性は濁らない」といった感想がまま見え、ショックを受けていた方はいわゆる「解釈違い」で受け入れがたい様子だったからです。前者は、人間の飛雄を一応は受け入れていますがその神性に傷がついていないと、最終的な着地点は宗教的な部分です。後者は、これまで自分が積み上げてきた神様的なイメージと実際(原作で提示された)の飛雄のギャップに耐えられず、過去に積み上げた自分の中のイメージを優先させたい状態にある。ちょっと嫌なニュアンスの言葉になりますが、つまりは偶像崇拝の状態ということです。要するに、前者も後者も着地するのは「影山飛雄」の神性です。これってやっぱり宗教じゃないのかな。では、なぜ読者は及川には自覚的で影山には無自覚なのか。
 それは及川徹の宗教性が作中から読者のいる世界に干渉してくるのに対し、影山飛雄の宗教性は作中世界にとどまっているからと、現時点では考えています。現時点ていうか、書きながら今考えました。先ほど長々と書いた「夢を叶える」文脈は、読者もある種、経験してきたことです。つまり、及川徹の努力の「苦しさ」を読者は、程度の差はもちろんあるけれど、実体験として知っていて、彼の存在は読者の世界に干渉してくる。あるいは、読者を脅かす。対して、飛雄の神性はバレーの天才であるという作中での事実に依存しており、読者の居る世界と距離、つよく言えば、断絶があります(反対に言えば、もしかしたら何かの天才の人は飛雄により共感するのかも)。物語と読者が断絶されるとき、読者は安全です。悲劇は、その災厄が自分の身に襲い掛からないことを知っているから楽しめるのと同じ。だから、安心して信仰できる。信心が薄くても厚くても、読者は何を揺るがされることはない。ただ、愛することができる。一方、及川徹を信仰しようと思えば、危険だ。お前は「正しい努力」をしているのかと、読者はその「正しさ」に打ちのめされる可能性がある。だからこそ、読者、いや、私は、どこかふざけた調子で「及川徹は宗教」と言うんだろう。