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【無料】無敵の人

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今後、日本における凶悪犯罪の主役となる〝無敵の人〟を解説します。

無敵の人、という言葉をご存知でしょうか。ネット上の言葉ゆえ正確な定義はないんですけど、一言で表すならば「失うものが何もなく捨て鉢になった人のこと」。2ちゃんねる創立者の西村ひろゆきが使い始めた言葉です。

普通の人間は人を殺したり、他人に大迷惑をかけたりしません。なぜならば、逮捕や解雇などにより生活を大きく毀損するから。

日本は治安の良さで有名ですけど、社会道徳や人間性により犯罪を抑制しているわけではありません。もしも「今日から子供を殺しても無罪!」と決まったらどうでしょう。日本人は民度が高いから大丈夫と言いきれますかね。私はそう思わない。日本中に子供のむごたらしい死体が転がると予想します。

法で縛るとは、すなわち犯罪に対してリスクを負わせるということ。リスクの大きさにより人間は犯罪を躊躇する。しかし、逮捕をリスクと感じられない人はどうか。法律を守るインセンティブはないし、法律を守らねば破滅するという脅迫も通じません。すなわち「無敵」なんです。

人間関係を失い、阻害され、味方するものは誰もいない。社会から不要の烙印を押され、社会から一切助けてもらえない人間が、なぜ社会のルールや法律を守らねばならないのか。そんな心境に陥った人は、我々よりも凶悪犯罪を犯す可能性は高くなりますよね。

怨恨でも金銭目的でもなく、社会が見放したのだから、見放された側は社会に対して忠義を尽くす必要はない。逮捕されても失うものがなければ、日本人だろうと何人だろうと強行へ及びやすくなるでしょう。無敵の人を救おうとする人なんていないんですから。

そんなことはない? 救わねばならない?

正論です。正しい。無敵の人にも人権はあります。

その上で考えてみてほしい。

10年も20年も引きこもっていた人間をあなたの会社は採用しますか? あなたは上司に対して採用すべしと言えますか? 断言しますけど、雇わなければ殺人事件を起こすような人間を雇いたいとは思いませんよ

そんな人間を抱え込んだところでまともに働くとは思えないし、どんな逆恨みで報復されるか分かったものではありません。事件を起すなら、せめて自分たちの関与しないところで起こしてくれと考えるのが普通です。

すなわち、救う人はいる(俺じゃない人が)という括弧付きの正論なのですね。


無敵の人というワードがネットを賑わせたのは、相模原市で発生した連続殺人事件後でした。逮捕された植松聖被告は、以前勤めていた津久井やまゆり園において、19人の障害者を次々と殺していった。その凄惨さゆえ覚えている人もいるのではないでしょうか。

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植松被告の生い立ちや性格は別として、彼の主張に言葉を詰まらせた人は多い。要約するとこんな内容です。

植松「障害者が人間ならば、彼らが罪を犯した場合、健常者と同様に裁かれるはず」

植松「知的障害を理由に裁かれないという事実は、彼らが人間ではないことを証明している」

植松「今回の事件で死んだ人の追悼式では、氏名が公表されず、遺影もなかったそうですね。彼らが人間として扱われていない証拠でしょう」

植松「私は介護施設で数年間、現場で働いてきました。彼らが家族や周囲に与える苦しみ、使われる膨大な費用、職員が置かれている過酷な労働環境を見てきました」

植松「私を批判するあなたに問いたい。あなたは施設に足を運んだことすら無いのに、なぜ理想論をさも正論のように述べることができるのか」

植松「あなたは一度でも介護にたずさわったことがあるのか。少しでも現場を知れば、介護は綺麗事だけではないことが分かるはずだ」

一人の幸福のために多くの人が不幸になるのだから、重複障害者は不幸を生む存在である、と主張したのです。

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当然、社会はこれに猛反発しました。障害者にだって人権はある、幸福に生きる権利はある。介護する側だって不幸だけじゃない、障害者との日常に幸福を感じることだってあるはずだと。

正論ですね、正しい。

しかし、植松被告に同調する人達は一斉に反論しました。

「じゃあ、お前らは多重障害者を介護しろよ。少なくとも植松は介護していたぞ。誰かが幸福に生きるため誰かが苦労を背負う。その「誰か」に立候補してみろよ。幸福を感じることもあるんだろ? 苦労を自分以外に押しつけて綺麗事を唱えるのは卑怯だ。」

もちろん私は凶悪犯罪者を許せない。凶悪犯罪者を安易に賛美する人も許せません。しかし、植松被告やシンパの主張を真っ向から反論することができなかった。恥ずかしいことに「極論ではあるけれど、納得する部分もある」と思ってしまったんですね。

一人の幸福のために大勢が不幸を背負う。不幸とまでは言わずとも、間違いなく苦労はする。重度の知的障害を持っている人は、その苦労に対して感謝するのだろうか。そもそも施設に預けた家族は感謝しているのだろうか。お客様意識で文句を垂れたり、預けっぱなしで顔見せにも来なかったり、そんな形になってやしないだろうか。

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私も44歳。こんな年齢になれば、人間は正義で無謬の存在だなんて思うこともなくなります。おそらく、我々が思うよりもずっと酷い状況が、重複障害の施設では繰り返されているのでしょう。


今日、川崎市で児童ら19人が殺傷される事件が起きました。犯人は自殺してしまったため無敵の人だったのかは分かりませんけど、ツイッターの検索ワードでトレンド入りしていました。

数年前は秋葉原や取手のバス内で、無敵の人による連続殺傷事件が発生しました。砦通り魔事件の犯人である斉藤勇太の動機は「劣等感に追い詰められ、死刑願望から優秀な生徒たちを道連れにしようとした」というもの。

失うものが何もなく、死刑になっても構わないという考えに至った「無敵の人」が人を刺す。

その都度マスコミは、社会の問題だ! 対策を行え! といいます。しかし、そもそも社会が彼らを受け入れてきたならば、大量殺人に及ぶこともなかったのではないか。今さら社会の問題と言っても原因へは辿り着けないのではないか。と思うんですね。

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社会は今まで彼らを放置してきた。社会は彼らに冷たかった。今も冷たいし、これからも冷たいでしょう。

事実、秋葉原通り魔事件の犯人、加藤智大の家族は数ヶ月で崩壊。加藤の弟は自殺しました。社会は加害者だけでなく、加害者の家族に対しても冷酷だったんです。


植松や加藤ほどの凶行に及ばずとも、おそらく私達の周りには「無敵の人」が大勢います。殺人までは至らずとも、ネット上では彼等のような社会的不適応者は日々煽られ、からかわれ続けています。すなわち、暴走する化物が生産され続けている。黒子のバスケ事件はその一つでした。

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社会との関係を絶った無敵の人が凶行へ及ばぬようにするのは、もはや運を天に任せるしか無いのではないか。少なくとも、これまで彼等を冷遇してきた「社会」には、無敵の人を止める術は無いように思うんです。

なぜなら、捨て鉢になった人間が死刑を望んだ場合、法律により死刑とするのは、罰ではなく救済になってしまうから

求めるものを与えるご褒美になってしまうため、社会は無敵の人を苦しめる(罰する)ことができません。そういう意味でも彼らは「無敵」であり、社会は彼らの前に敗北するのです。無敵の人による、社会に対する復讐と言ってもいいでしょう。

実際、逮捕された際の植松被告は、笑っていましたから。

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我々の住む社会には障害者を受け入れる施設は存在しますが、無敵の人を救うシステムは存在しません。おそらく我々は今後も彼らを「自己責任」「クズな大人」として社会の目が届かないところへ追いやっていくでしょう。

そして彼らは暴発する。

であるならば、社会の構成員たる我々が取り得る自衛策は、無敵の人に近付かず、雇用せず、自分達が被害者にならぬよう(=自分達以外が被害者になるよう)、彼らを意識的に遠ざけていくしかありません

やまゆり園事件の植松。秋葉原通り魔事件の加藤。取手通り魔事件の斉藤。黒子のバスケ事件の渡辺。被害者の数や事件の内容に差はあれど、どれも「無敵の人」が起した事件です。これだけ多くの事件が発生し、多くの被害者が出ても、社会は無敵の人へ手を差し伸べず、存在すら認知しようとしない。

である以上、定期的に発生する連続殺人事件を社会維持のコストとして受け入れるしかなくなってしまうのですが、無敵の人を発見・救済する法整備を社会の側が拒否する以上、これはもうどうにもならないように思いますね。


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