鎌倉時代の失われた道と歴史
忍性の伝記を読むと、日蓮宗の開基である日蓮との信者の取り合いでの争いが出てきます。日蓮が名指しで怒ったのが、なごえの尼だそうです。追放された日蓮の信者で忍性に宗旨変えしてた人々の代表でパトロンでもあったようです。それで興味があって行ってみました。
この人は北条義時の弟の北条朝時の妻なんだそうです。
そう、鎌倉殿の13人で素行が悪くて口の悪い弟です。彼は伊賀の方と義時が再婚したとき、新しい母になじまず、祖父の時政に引き取られていたそうです。彼は女性問題で実朝に嫌われ追放されますが、和田合戦のとき呼ばれて復権します。そのあたりドラマでも面白かったですね。
彼は家に住み着いて、そのまま名越という地域と名越越えという街道入口の管理権を手に入れます。さて名越とは地図では失われた地名になっています。どんなところだろうといろんな案内サイトを調べてみました。そして、現地に行ってみました。
鎌倉駅周辺が人でいっぱいなので出口の逗子駅から歩いてみました。
名越超えとされる切通まではgoogleの地図では歩いて23分ということですが。ゆるい坂道でありあり、何本もルートがあります。
この道は東側から鎌倉に入る最古の道らしく、小坪という港に抜ける道と交差していたりしています。また、遺体の捨て場所でもあったので室町以降は荒れ果てた地だったそうです。そして、明治以降はそれに沿ってJRの横須賀線とトンネルができたのでますます歩きにくい道のようです。
歩いてみました。暑いし湿っているしでトンネルを通りました。確かに20分ほどで鎌倉市に行けます。自転車やバイクでいかれる方多いです。
途中で一度切れていてます。そのあたりが鎌倉側の切通のようです。
抜けると道が広がり中心部が見えてきます。脇にそれて日蓮乞水という遺跡に行ってみます。伝承では日蓮が鎌倉に入ったとき初めて水を飲んだ井戸だそうです。行ってみると古い水路がある街道筋の住宅地です。蓮がそなえられていました。
そこから、踏切をわたると鎌倉側から名越越えの道筋が見えます。
道を調べていると北条時政邸の表示が出ています。そこに向かってみます。
どうやら、その辺り一帯から名越と言われていた時期があるみたいです。
結構距離がありますが、このあたりが古い名越の集落みたいです。ちょうど、鎌倉時代に新たに開発された朝比奈道の裏手にあります。そこに抜ける釈迦堂口切通という道がありその脇に名越邸があったようです。釈迦堂口遺跡というのがその後のようです。ここになごしの尼もいたようです。
どうやら、このあたりに鎌倉殿の13人のひとりの三善康信が住んでいたみたいで、家が焼けて、大事な書類が失われたと泣いたと、吾妻鏡に書かれてますね。この人は承久の乱の直後まで生きていて誠実な人柄が描かれています。
歩いていると宝戒寺隧道といって鶴ケ岡八幡宮方面に抜けるトンネルがあります。大正時代に近所の加藤さんという土木に詳しい人が掘られたようです。地元でも知らない人が多い道だそうです。
細い道ですがよく整備されています。抜けると
北条家の代々の寺である東勝寺の遺跡と北条高時切腹やぐらに登る道に行き当たります。最も、今回調べたところ、宝戒寺の寺伝では、高時らは釈迦堂口切通に埋められているようで、発掘調査で刀が刺さった遺体とか見つかったようです。このあたりのやぐらは北条氏の時頼とかの先祖の墓のようです。うん、鎌倉市の学芸員はがんばっているようですね。
釈迦堂口切通とこのあたりは察しろということで立ち入り禁止になっています。名越邸とはどこかと考えるとつらいですね。
まあ、なごえの尼は時頼の代に何人か子供を殺されましたが、十人ぐらい産んでいる多産系の家系のようで、したたかに子孫は生き残っているようです。愛知県の名古屋というのは元々名越家の領地でそこにも子孫がいたりするようです。
真っ直ぐ降りると葛西重清の屋敷跡である葛西が谷に突き当たります。
吾妻鏡によると重清は源頼朝が領地を通ったとき、その妻を一夜貸し出しました。悩みが深かったのでしょう老年期に夫婦で親鸞に帰依した二人の肖像画が残っているようです。一族は東北戦に先陣を任され、頼朝以後は領地の東北にその本拠を移したそうです。滑川という小川が流れる
この地はいつしか北条のもちものになったようです。傍らの橋も東勝寺橋といいます。
そこから暫く行くと宝戒寺にたどり着きます。この場所は北条時頼の頃ぐらいから北条家代々の屋敷になりました。後醍醐天皇が供養のために足利尊氏に命じて寺にしたようです。
今も静かに静まりかえっています。そこから歩いて5分ほどで鶴ケ岡八幡前にたどり着きます。
駅前で作りたてが美味しい名物、かまくらカスターをいただき時間旅行を終えました。現世です。
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