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少なくとも「俺」だけはいる。空っぽで無意味な俺だけれど。(パラドクス自己解説・その4)

・この記事は、ノベルゲーム「パラドクス研究部の解けない謎のナゾとき」の元ネタとなるパラドクス(=解けない謎)を解説するものです。

 ゲーム部分(=解ける謎)の攻略については、別のページをご覧ください。

・この記事ではパラドクスの面白さを説明することを重視していますので、学問的な正確性には欠ける可能性があります。

・以下「だ・である調」で書かせていただきます。

・バックナンバーはそれぞれのページをご覧ください。

 自己解説その1「絶対に0点しか取れないテスト」

 自己解説その2「絶対に「ない」ことを教えてください」

 自己解説その3「レミ氏と私の双子的な関係について」

1.死を恐怖するのは人間のみ

ここで話題にしたい「死」とは、「物理的に差し迫った生命の危険」という意味ではない。

そうした意味での「死」であれば、人間のみならず、あらゆる生物はそれを恐怖し、それから逃げようとする。
それは本能だ。
ミジンコであっても死を恐れる。

ここで語りたいのは、そうした「死」ではなく、人間しか持たない「抽象的な死の概念」である。
つまり、暖かい部屋で、ふわふわの布団にくるまれ、満腹で、何も危険もなく、明日は休日で、幸せいっぱい、というときに、突然、死んだらどうなるんだろう、と漠然とした不安に駆られ、心配で心配でたまらなくなること。
こうした恐怖は人間にしかない。
(もしかしたら、類人猿などならあるのかもしれないが、そうだとしても構わない。ここで言いたいのは差し迫った具体的な危険としての「死」ではなく、概念としての「死」を話題にしたいということである)

2.現代は死が最も恐ろしい時代

概念としての「死」を恐怖するのは人間(+α?)だけだが、人間の中でも、過去の時代に比べて、現代は一層死が恐ろしい時代になっていると思う。

例えば近代以前、個人は村や家などの共同体の中でしか生きるしかなかった。そこでは個人よりも、村や家などの集団の理論が優先される。

それは酷く窮屈で、大変なことだったと思う。現代は、そうした制約からかなり解放され、個人として自由に生きていけるようになっており、大変ありがたいことである。
しかし、それは同時に、死の概念を個人で引き受けるしかないことを意味する。

ゲーム中、第零パラドクスにおいて、レミは、死に打ち勝つ最もシンプルな方法は団体戦に持ち込むことだと発言する。
(ちなみに1,000本のロウソクが消えたとしても、1,500本のロウソクが新たに灯れば勝ちだ、という話は、日本神話におけるイザナギとイザナミの会話が元ネタである)

個人としての自分が死んでも、家や村が残れば勝ちなのだ。
これは、家や村に限る必要もない。
例えば高度経済成長期において、会社に人生を預け、自分が死んでも会社が存続していくことに、自分の人生の価値を見いだせたのであれば、それもまた団体戦の一つの形である。

しかし個人主義の現代においては、もはやそんなものは(ほぼ)ない。
あくまで自分一人の個人戦で何とかしないといけない。
が、この戦いは絶対に負けるに決まっている。
なぜなら個体が消滅するのが死である以上、個人戦で死に勝つというのは本質的に不可能なことなのだ。

(このゲーム・自己解説では、大前提として、宗教における死後、いわゆる天国や地獄のようなものは想定していない。現代の日本人の多くが無宗教であり、そうしたものを想定していないと思うからだ。しかし、宗教の話は重要なものであり、今後触れることになる)

さらに、個人を尊重する現代の風潮がこれに輪をかける。
我々一人ひとりは、唯一無二の個性を持っており、かけがえのない存在であり、人の命は地球よりも重い、というものだ。
その一方で、自分が死んでも世界は何一つ変わることなく続いていくのが現実であることもまた、誰もが良く知っている。
この建前と本音のギャップが最も開いているのが現代である。

死そのものが怖いというよりは、自分の存在は地球よりも重いはずなのに、自分の命など軽く吹き飛ぶし、その結果、地球は何も変化なく続いていくという、そのことが恐ろしいのだ。

また、現代日本の資本主義においては、所有権の概念は、すべての根底を成すものである。
他人の所有権を犯してはならないし、私の所有権が他人から犯されてもいけない。

そして、「私」の所有物の中で最も大切なものが、「私」なのだ。
「命」という最も貴重なものを奪う行為が、殺人であり、最も重い罪となる。
しかし、殺人に巻き込まれなくとも、人はいつか自分の最も大切なものを手放さないといけなくなる。
これまた大きなギャップが存在する。

ちなみにここから、自分が消滅するなら、いっそ世界も、という発想も生まれる。
SF映画の世界滅亡などがそれである。世界と自分が一致するある種の快感がある。このとき、本音と建前のギャップは疑似的に解消される。

なお、所有者は自身の所有物を、自由に処分する権利を持つ。
ここから話を進めると、自殺をする権利はあるのか、という話になる。「私」の持ち主は誰か?という話である。「私」が「私」のものならば、私の意志で自由に処分(自殺)して良いはずだ、となるのだ。
ゲーム中でも語られる通り、これに対する僕の答えはノーだ。
自分の命であっても、自分で自由にして良いわけではない、というのが僕の立場だが、この話は長くなるので、今回は触れない。

3.ユウイチ、この超えられない壁

「死ぬのはいつも他人ばかり」とは、マルセル・デュシャンの有名な言葉であるが、死の本質を鋭く突いている。

この世界は実は5分前にできたものだとか、実はこの世界は水槽の中に浮かぶ脳みそが見ている夢なのだとか、そうした類の話もすべて同じことを言っている。
自分という超えられない壁が存在するのである。

「自分」が「自分」の壁を超えることは決してできない。
超えたところで、結局のところ、それは新たな「自分」でしかない。
もしくは超えた結果「自分」でない何かになったのなら、「自分」が壁を超えたことにはならない。

自己言及はパラドクスの王道である。

自分に言及してはならない。
そんなことをしたら、堂々巡りの議論になって、話が始まらない。

自分は存在している、ということはとりあえずの大前提として、話を始めなければならない。

他人の存在は証明できず、自分が見ている夢幻であり、無かもしれない。
しかし、こうして考えているこの意識の自分だけは、「有」の存在であるとするしかない。
本質的に人は、「一」人ぼっちであり、世界は自分の「一」人称でしか認識できない。
きっと他の人も同じようなことを考えているだろうけれど、それを「理論的に」証明することはできない。
人はみな「有一 ユウイチ」という主人公である。

また、ここには数学からのインスピレーションもある。

数学で証明を行う際、前提となるものを公理と呼ぶ。
公理をいわば土台にして、理論を組み上げていくのだが、公理は大前提の正解であり、本当にそうなのか?と疑いを持ってはいけない。もし疑い出したら、それが正しいことを証明するために別のものを持ち出す必要があり、以下、キリがなくなるからだ。
したがって、大前提となる公理は限りなくシンプルな方が良い。

1 存在公理
  少なくともひとつの集合が存在する。

ハヤカワ文庫『「無限」に魅入られた天才数学者たち』(著:アミール・D・アクゼル、訳:青木薫)

これが最も大前提となる最初の公理として出てくるあたり、妄想がはかどる。
が、これはさらに。

その集合を空集合とすることができる。

ハヤカワ文庫『「無限」に魅入られた天才数学者たち』(著:アミール・D・アクゼル、訳:青木薫)

と続くわけで、もう興奮でしかない。

これが理系的知識と文系的想像力の融合(妄想とも言う)により、「少なくとも「俺」だけはいる。空っぽで無意味な俺だけれど。」となり、主人公の「有一 ユウイチ」が生まれたのだ。

4.信じられる絶対の物語とは

中世やもっと前の時代、死のギャップ問題は今より少なかった。
平凡な村にたくさんの兄弟のうちの一人として生まれ、周囲から決められた仕事をこなし、ただ生まれてただ死んでいくだけ。
周囲もそう信じて疑わないし、自分もそう信じて疑わない。
認識と事実は一致する。そこにギャップはない。

もちろん、昔に戻りたいわけではない。
あくまで未来に進む形で、ギャップを何とかすべきと思う。

別の言い方をすれば、どのような物語を信じているか/信じられるか、という問題である。

何らかの宗教を信じていて、現世から来世までを一連のものとしてとらえられているのであれば、それは一つの解決方法である。
会社生活が自分の人生そのものでそこに満足しているというのであれば、それもまた一つの解決方法である。
が、そうした人たちは当然今でも存在するが、現代日本においては、もはや大多数ではないと思う。

では、現代日本において多くの人が信じる絶対の物語はあるのか? ということなのだが、それはあると僕は思う。

すなわち、「天国も地獄もない。死んだらこの意識は消滅する。死後も多少は覚えておいてもらえるかもしれないが、長い年月が経てばいずれ忘れ去られて、最終的にすべては消える。長い年月の果てには、太陽も潰れ、宇宙さえも消える。すべては無になる。が、そんなことを考えてもしょうがないので、とりあえず目の前の日常レベルで楽しいことがあったらいいなと思いながら、毎日を過ごすしかない。」

これが多くの現代日本人が信じる絶対の物語であると、僕は思う(どこまで強く意識しているかはともかくとして)。

ゆえに、これを大前提の出発点にして、話を組み立てなければならない。
この大前提に立ったうえで、生きる意味を考えること。虚無に陥らない、救済の道はあるのか?
それがこのゲームのテーマである。

(パラドクス自己解説・その4/了)

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