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Ranz des vache(ベルリオーズ「幻想」)を解釈する

Fellow Orchestraの2024年の定期が終わった(2月12日祝・月)。メインプログラムはベルリオーズの幻想交響曲。自分は2ndオーボエ兼コーラングレパートでこのメインに乗ることとなった。

終わったコンサートの楽曲について、特に自分がどう考えて「そのように演奏した」のか、あれこれ書いても「いまさら」感は否めないかもしれないのだが、むしろ終わったからこそ今思い返して記録しておくのがいいようにも思えるので、あえて書き残しておこう。まずは自分にとって今回最も重い役となった「幻想交響曲」第3楽章のコーラングレのソロについて。

このソロは知る人にとってはあまりにも有名な箇所なので、多くの演奏家たちには耳慣れたものかもしれないし、「幻想」は歴史的にもあまりに多くの録音物があるため、演奏サンプルに事欠かない。自分自身、曲そのものが相当好きだということもあり、あれこれ聴くことが全然苦にならなかったこともあって、事実、今回古いものから新しいものまで、優に10数種の音源を聴いてみたのだった。

これら過去の録音作品は、「全般的にあのように吹けばいい」というようなお手本として参考にはなるのだが、これだけの数があると、それぞれの「良さ」とか「納得できなさ」とか、そういうことをそれぞれの演奏に感じることになる。しかし、これだけの音源を聴いても「これがベストだ」という音源にはついぞ出会わなかったのだった。信じ難いことであるが、聴きまくった挙句に完全に納得できるものがひとつもなかったのであった。

例えばフレーズに納得感があっても音色がどうしても受け入れられなかったり、逆に音色に説得力があってもフレーズに受け入れ難い部分があったり・・・ 音の長さや切り方、様々な点で納得ができないものが多かった。結局、何となくこの曲はこうだという自分の曖昧な記憶やこうした「お手本」に頼るのは、一旦完全にやめて自分で最初から組み立てていったらどうだろう、と、かなり経ってから思い直すことになった。

そうなるとあるものは譜面だけということになる。

譜面の解釈に入る前に、この「旋律」について自分が感じていたある種の「違和感」について書いておくことにしよう(「違和感」というのは必ずしも悪いことを指しているのではない)。この交響曲の前衛性については別のところですでに文章にしているが、実はこの作品の最大の前衛性のひとつは、まさにこの第3楽章冒頭と終わりに出てくるコーラングレ(とオーボエ)の「旋律」自体にあると思っている。すでに2度も旋律にカッコを付けて記したが、どうしてそのように書いたのか? なぜなら、このフレーズ「ファーソ、ドーラ、ドーレー(実音)」(F-G, C-A, C-D)は、本当の意味で旋律ではないように感じているからだ。あらためて問うが、これは本当に旋律(メロディー)なのであろうか?(もちろん広い意味で旋律であるが、因習的な意味でどうかという問いだ) この曲を初めて聴いた小学生くらいの頃から、このメロディーをメロディーとして認識するのは難しいと感じていたのだが、もし仮にこれがメロディーなのだとすると、到底古典時代の音楽に属することのないアヴァンギャルドなメロディーであると言えるだろう。この音は世界のどこからやってきたものなのであろうか? 海のものとも山のものとも解らない不可思議な音の連なり。そう自分には感じられた。(結局は「山のもの」だったのだが・・・)

もしこれがメロディーでないとすると何なのであろうか? それへの自分の答えは「信号である」というものだった。実際問題、ベルリオーズ自身の解説にもあるように、このフレーズは「ラン・デ・ヴァッシュ」(牛追い歌)とのことだが、歌と呼ぶには不思議すぎる音の連なりである。便利な今日では「Ranz des vaches」というキーワードで検索もでき、そればかりかいくつかの音源が聞けもするのであるが、それらは完全にメロディー(音楽)であって、ベルリオーズが作曲した件のフレーズとはかけ離れたもので、かなり異質と感じられた。元々は離れた場所にいる1対の羊飼いないし山の民の夫婦などが、離れたところで角笛のような道具を用いて、天候や家畜の状況確認などをするためのやりとり(遠隔通信)であったと想像する。

「どうだ、いい調子かや?」「ああ、いい調子さ」(長調)
「天気は悪くなるんかや?」「そうさ午後から下り坂さ」(短調)
「なら早めに牛を囲いに戻そうか」「そうさ早めに戻そうな」
「・・・、・・、・・・・」「・・・、・・、・・・・」
こうしたやり取りが「信号」の意味だ。

つまりこの音の連なりは「音」ではあるものの、狼煙(のろし)のような「信号」の役割を果たすものなので、過剰にメロディアスであろうとしてはいけない(メロディアスである必要がない)。ところが、やがてこの信号の応酬が重なり合ってきて、気づくと音楽らしく聞こえてくる。本来音楽でなかったものが、音楽化していく。ベルリオーズは実際に野原で聞こえた、この不思議な(おそらく彼の耳には最初外国語のようにしか聞こえなかった)信号音が催眠のような効果を発揮して、彼がある種の変性意識に入ったとき、徐々に音楽として聞こえてくる。そればかりか美しい二重奏になっていくのを夢見心地に「眺めた」のだった。その催眠的効果のある、ある種、元来、非音楽的なものが、音楽として、そして明確なロゴス(言葉)として聞こえてくるという過程を、第3楽章のオープニングとエンディングで聴かせなければならない。何故なら、ここで深く沈潜していく変性意識こそ、彼がこれから見る悪夢を誘引する前提条件であって、音楽ならざる音の催眠的効果こそがそれを第三者的視点から目撃するオーディエンスにも働きかけられる魔術として機能しなければならないからだ。

楽譜に戻る。最初の「ファーソ、ドーラ、ドーレーーー」(F-G, C-A, C-D)がどのように書かれているのかを詳述する。これは単純な2つの音のペアが3つ並んでいるもので、上向、下向、上向のインターバルで提示される。いかにも信号らしい音の並びだ。(楽理的には)最初のFがトニック(主音)として機能し、2つ目のペアの最初のCがドミナントとして聞こえるため、そのペアの短3度下の音はメジャー(長調)の響きを作る。ところがこの「旋律」の最終音はトニックにもドミナントにも戻らず6度のインターバルで宙ぶらりんになるため、一種の質問ないし挨拶として聞こえることになる。

もうひとつ大事なこととしては、この「ファーソ、ドーラ、ドーレーーー」のフレーズにはスラーが付いていない点である。このことにより、原則的に一個一個の音符は、クリアにアーティキュレートされなければならない。最初の四分音符Fにはスタッカートもアクセントも付いておらず、極めてプレーンな(特徴のない)音として記譜されている。二つ目のGは音価(音の長さ)としては八分音符に聞こえるがその実そうではなく、譜面上は十六分音符と短く、その上、その短い音にはスタッカートさえも付けられている。この音は、多くの録音で聞き慣れた耳にとって、それらの演奏の音よりもずっと短い音符として記譜されているのだ。(この辺りから、演奏のお手本というものを一旦全てリセットしてみようと思うに至ったと言える。)

そして高い四分音符のCにはアクセントだけが付いている。次の耳で聞こえるAの音価は八分音符だが実は(先ほどのGと同様で)スタッカートの付いた十六分音符である。そして3つ目のペアのCはアクセントのついた四分音符、最後のアクセントの付いた付点四分音符Dにはフェルマータが付いている。と、このようにこれら6つの音をとっただけでもこれだけ異なるニュアンスが一個一個には付けられていて、相互に区別されているのだ。いわゆる手本の記憶を頼りに「何となく吹く」という何度かのリハを経て、結局は記憶を一度白紙に戻してこれらを記譜された音の通りに吹くということをあらためてしてみようと思い至ったのだった。このフレーズを通常の旋律として認知しつつ同時にこれらのアーティキュレーションを保持しようとすると、不自然でかなり難しいことが分かる。ところが、自分洞察の告げるままに、これらの音符を旋律として捉えることを一度やめて、ただ遠くに向けて信号を打ち上げるようなつもりで吹くと、これらの記号が実によく考え抜かれたもので、この音楽の場面説明としてもうまく機能し始めるのだった。

さて、これら6つの音が信号音であるという前提に立ち、しかもスラーでフレージングもされていない事実に立脚すると、吹き方が段々決まってくるように感じられるではないか。「音楽ではないものの、音楽に準ずるもの」として、これら6つの音を野山に響かせる(狼煙として立ち上げる)。そのために必要な1個1個の音の実際の長さや強さというのが、「自然な減衰」と「消えかかる寸前にくる次の音の吹き始め」というのが鍵になると考えが至った。これは音価八分音符に聞こえる音が実は十六分音符で書かれていて、それには十六分休符が伴っているという事実から導かれたのだった。この十六分休符は、6つの音が実は3つのペアの音であることを示すための区切り線として機能していて、それによって3つのペアがどのように提示されるべきかのヒントを与えている。要は、休符もスラーもない場合の2つの音の関係はどうなるのか、ということだ。

鐘を打った時の減衰は打った強さで決まる。強く打ったのに余韻が短いとか、弱く打ったのに余韻が長いというのは物理の法則に反する。飛ばす弾の届く距離(着地する場所)は、打ち上げ時の弾の初速と角度で決まる。ある種の弾道計算のようなものを本能的にイメージしながら吹くということになる。そのようにひとつひとつの音を打ち上げていかなければ自然な音の立ち上がりと減衰、狙った距離への到達は達成できないからだ。難しいのは、ペアの2つ目の音は1つ目の音の衰滅(消えた瞬間)と同時に立ち上がらせることにあって、与えられた四分音符なりの長さで正確に衰滅させなければならない。アクセントの付いていない音とアクセントの付いている音の飛距離を同じにするためには、打ち上げる角度を考慮しないといけない。アクセントが付いていない音は初速が遅いので、打ち上げる角度は高めに設定するし、アクセントの付いている音は初速が速いので、打ち上げの角度を低め(あるいは極端に高め)にとる。描かれる放物線は異なるが結果的に水平飛距離(四分音符の長さ)は同じになる。・・・というようなイメージである。最後のフェルマータのついた付点四分音符のDは、一番遠くまで飛ばさなければならないので、初速も速ければ打ち上げ角度も最も効率的なものとなる。

最初の4小節は、コーラングレ奏者もオーボエ奏者も、完全に自由にたっぷり時間を掛けて互いの響きを聴き届ける必要があり、それがフェルマータで示されている。

と、このように一つ一つの音符と向き合うことで、どのように演奏したらいいのか、というイメージはかなり堅固に築き上げることができた。そのイメージは、ある意味、既存の録音のどれとも似て非なるもので、完全にその理想の音として録音に捉えられているものはないのであった。

しかるに問題は、そのイメージ通りに実際に吹くことであった。そこで毎日、弾を遠くに打つような気持ちで、音を打ち上げる練習をして本番を迎えたのであった。

いわゆるプロオケの職業的プレイヤーたちは、古典的楽曲については2、3回のリハを経て(場合によっては1回のリハで)本番に至る。高い基礎的な演奏技術を持っているわけだから、そうした練習回数で本番ができることに納得できるのだが、逆に言うと、フェロー・オケにおける機会のように、これほどの時間を掛けて一つの旋律なりを研究する時間が彼ら職業音楽家たちには与えられているであろうか・・・と考えると、なかなかそう言うこともないような気がする。フェロー・オケで演奏するということは、自分にとって他で味わえない贅沢であると思うし、これまでに存在しなかったような演奏を残す稀有な機会でもあると思うのだ。

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