コンパッション(compassion)って何だろう?
コンパッション。思いやり、慈悲。この本質を探りたいと思ってます。
もちろん、大切なのは実践ですが(^_^;)
今月号のHBR誌「セルフ・コンパッション」を読むところからスタートしてみようかと。自分に向けたコンパッションですね。
https://www.dhbr.net/articles/-/5839
6つの論文、2つのインタビューが掲載されています。
中島隆博教授のインタビューが自分的には響いてきました。
「プロテスタンティズムが近代の強力な原理となった」と指摘。sincerity(誠実さや真摯さ)「嘘偽りない透明で清廉潔白な内面性こそが理想的な自己」が求められ、苦悩を生んだとしています。確かに、”嘘も方便”くらいが丁度いいと感じます。
もう1点。資本主義が「モノ(所有)からコト(経験)になった」と指摘しています。これは結構色々な経営学者、特にマーケティング論あたりで既に言われていることです。大量生産、大量消費、大量破棄の時代ではなく、それぞれの「経験価値」が大切ってことです。興味深い、示唆深いなと思ったのは、この先の中島さんの論考です。
「どのような経験をしているか、どんな生き方をしているのかが、その人のユニークさとして消費されていく」とし、「たえず差異らしきものを生み出さなければならず、実に苦しい」というわけです。
つまり、モノ→コトになっても、実は大きなパラダイムは変わっていない。評価であり比較が根底にあるってことでしょう。
モノ:人より多く所有したい
コト:人と違う経験をして差別化したい
それでは、モノ→コトの次には何が来るのか?
中島さんは、「人の資本主義」だといいます。
「わたしの内面に訴えるアプローチよりも、他人とつながりの中でともに生きつつ、共同の経験を豊かにするアプローチ」が核心だと指摘します。
ま〜中島さんの中でもまだはっきりしていない感じではあります。
ここ辺りを探求、創造していくことが、現代に生きるわれわれにとって重要と思います。
中島さんの論考をまとめるとこんな感じです。
モノ 労働者 生産 所有
コト 経験 差異
人間 活動 共同の経験(つながりの中で共に生きる)
人間は、『風土』で有名な日本思想史家、和辻哲郎によると、
ニンゲンと読むのではなく、原初は「ジンカン」だったと言います。
つまり、人と人の間。
「自分は誰か?」
ソクラテスの「汝自身を知れ」から始まり、
プロテスタンティズムの原理に絡めとられ続けられている、
”自分探し”からの呪縛から逃れ、
ジンカンの世界観へと向かうときなのかも知れません。
それは、つながりの世界の中で、自分を表現する。
どうあるべきか?というより、
何をやりたいか?、何を表出したいか?
が鍵になるのではと思うのです。
というわけで次に続く・・・。
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