なぜ和同開珎が嫌われてしまっているのか

謎解きで、しばしば見かける小謎の中に和同開珎があって、個人的には結構好きなのですが、割りと嫌われている感じがするので、自分が思いつく原因を述べてみたいと思います。

● 新規性をほとんど感じない
小謎(軽めの謎)を解くと気持ちよさがあると思うのですが、すべてがベタ問だと、なんかどれもやったことあるな感であまり面白くないのではないかと思います。
だから、小謎の中にも何かしらの、これまでに経験したことがないような要素があるとよいのですが、和同開珎については、基本的に特に新しいものがないのかなと思います。

● どん詰まりしてしまった時にかなり時間を浪費してしまう
謎解き公演全体を楽しみたいとき、できるだけ大謎に時間を残したいので、小謎はある程度で終わらせたいのですが、和同開珎はドはまりして、何分も経ってしまうことがあります。
しかも、それが結果として、公演の失敗につながってしまうこともあります。
なのであまり和同開珎で時間を費やしたくない、という思いがどうしても出てきてしまい、結果じっくり味わって楽しもうという感情が生まれにくいのではと思います。

● どうしても勉強っぽい
平成教育委員会でも出題されたことがあるように、どうしても勉強との結びつきが強い問題なので、謎解き公演の世界に浸っていたはずなのに、急に現実を感じてしまうのではないかと思います。

● あまり解き心地が考えられていない和同開珎が多いのでは
これが個人的には一番の原因と思うのですが、本来、上質な和同開珎は、その問題を解くだけで、解けて気持ちいいという感動が得られるものだと思っています。
ですが、謎解き公演で和同開珎が出題される場合というのは、公演全体から見たときに、その次のステップのために、ある答えが出る必要があるなど、制限がある中で作られるため、どうしても和同開珎としての解き心地や難易度の調整には限界が出てきてしまう。
それは、解く側からすると、そういう問題を謎解き公演で何度も経験することになり、和同開珎は面白くないなと感じることにつながっていると思います。

和同開珎は難易度調整はしやすい謎だと思います。
例えば「子」を答えさせたいのであれば、「餃( )」「双( )」と出題すれば、きっと即答できますし、「( )分」「分( )」みたいに出題すれば、どっちも成り立つような漢字はなんだろうと気になるのではないかなと思います。
この辺りの作り方はもしかしたら、どちらかというと言語系パズルを作る感覚に近いかもしれませんね。
和同開珎好きとしては、謎解き公演中に、これは名作和同開珎だ!といったものが沢山登場して、和同開珎好きが増えたらいいなあと思っております。

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