卒業式で悔し泣きするなんて思っていなかった。

 卒業式で鬱々とした答辞をききながら自然と涙が流れた時、自分は存外この生活に苦しんでいて、その上で合理化して、自分自身を誤魔化しながら過ごしていたんだなと気づいた。

 いつの時代のどんな学生も一度は想像する「突然学校が休みにならないかなぁ」が実現するなんて、事実は小説より奇なりとはまさにこのことだろう。
 そこまで学校に思い入れがあるつもりはなかった。休みになってラッキーだなって思った。まさか、いつまでも学校は始まらなくて、部活の大会は無くなって、マスクをつける生活が当たり前になるなんて想像できなかった。いや、しなかったのかもしれない。思えばあの時から適応は始まっていて、悪化することばかりが想像に容易い状況から目を背けていたのだ。次々に耳に入る悲しい決断に、その度悲しんですぐに忘れるようになった。だって、きちんと苦しむにはこの一年は辛すぎたから。

 高校最後になるはずだった大会の中止が発表された時、悲しさや悔しさよりも「しょうがない」という気持ちが大半を占めていた。こんな状況で開催なんかできないだろう、みんな我慢して悔しい思いをしている。あったのはそういう脱力感、無力感みたいなものだった。だから、心の底から悲しんだのは卒業式が初めてだったのだ。
 悲しいまま終わるのは嫌で、日常の楽しいことを拾い集めながら「色々あったけど楽しかったよね」と笑って、周りや自分を慰めた、言い聞かせた。もちろんその気持ちに嘘はないけれど、それでも、出来たはずのことや今までの18歳たちが味わってきた楽しい事も苦しい事も、すべて我慢で終わってしまった。自分のために抑えてきた「悲しいなぁ」というシンプルな思いが溢れてきたようだった。きっと、全てが終わる卒業式で、もう絶対に戻れないとわかるからこそ、最後に清々しく悔しがれたんだと思う。

 命は一つしかないし、大切な人たちだって代わりはきかない。だから自粛生活に文句はないし誰のことも恨まない。だけど、人生の中で高校三年生として生きる一年だってこの一度きりだったのだ。私達が2020年を遠い過去として振り返るような年齢になっても、永遠にやり直すことなどできない一瞬の輝きだったのではないだろうか。そう思うと、実感も手触りもないながらに何か大切なものを掴み損ねたような気がする。

 母が出産の話をする時、決まって「こんなに痛い思いしたんだからもう産まないって毎回思うのに、結局3人産んだなぁ」と嬉しそうに言う。その度私も「嫌な思い出は忘れるようにできてるんじゃない」と返していた。
 私だって同じだったのだ。嫌なことは忘れた方が生きやすい。だから、諦めた予定も積み重ねた練習のこともいつのまにか忘れていた。そして、最後の最後にそういう忘れてきたもののことを思い出させられて、泣いた。だからどうという話じゃないけれど、卒業式でこんなことに気づくなんてちょっとやるせないなあ、なんて考えたりした。

 そういう今年の、世界中でありふれた高校三年生の話。