ぽんちえ劇場で感じた「エモいとは作るものではなくそう成るものなのでは。」の話

 Youtubeが好きだ。現代っ子の大概はそうだろう。一日つぶすなんてのは造作もないことだが、Youtubeは時に、新しい世界を私たちに教えてくれる。今回は私が好きなチャンネルについて書いていこうと思う。

 ぽんちえ劇場。現在の登録者数は約4.5万人。白い小さい鳥と女の子(女性)が主人公のシンプルなアニメーションが投稿されているチャンネルだ。キャラの紹介は、本家の物を引用する。

チン:白い鳥のようなもの。一人称は朕(ちん)。ぱるんこ:チンの飼い主の女。

これだけである。動画もシンプルで、背景はほとんどがパステルカラーのピンクや水色一色だし、キャラたちも必要最低限のセリフしか喋らない。また、セリフの間も独特で、急いでいるときに見ると「はやく」と思ってしまうようなスピード感だ。動画の長さも、だいたい3~6分程度。

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 私がこのチャンネルの紹介を通してしたためたいのは、エモいとはいったい何なのだろうという話である。先に言っておくが、「エモいって軽々しく使いすぎ」とか「エモいで片付けないで」だとか、そういう熱のこもった警鐘を鳴らすつもりとかは全然ない。自分にとってしっくりくるエモいとそうでないエモいの違いを、このチャンネルを通して見つけたから書いておくだけだ。みんな好きにエモいとかエモくないとか言っていればいいと思う。

 私がこのチャンネルと初めて出会った、かつ一番大好きな動画は、『(※これは剛力彩芽が寝る前に見る用の動画です)』という三分の動画だ。これがタイトルである。女優の剛力彩芽と、元ZOZOTOWNの前澤社長の破局報道後に挙げられた動画だ。

 まず簡単にあらすじを説明したい。男に花の名前を教えることで、別れた後もその花で自分を思い出させる、という話を聞いて、白い鳥の朕が「じゃあ彩芽は、毎晩夜空にログインしてくる月を見るたびに前澤を思い出してしまうのでは?」と心配する。そこでぱるんこが「月を意識していなければ、そこにないのと同じだ」という旨の反論?をする。生活に密着しているときは意識せざるをえないけど、離れてしまえば月よりも近所のコンビニのほうが意識を占める割合が大きくなる、と。

 この動画の好きなポイントが二つある。一つは、動画のラストだ。この動画のラストは、ぱるんこのセリフで締められている。

 「見たいものは見える。見たくないものは見える。でも意識にないものは見えない。心に月がなければ、それは月がないのと同じ。」そして、ぱるんこの目線がこちらを向く。「そうでしょ?彩芽」

 初めてこの動画を見た時、最後のセリフで思わずドキリとした。非常に勝手だが、剛力彩芽だったらどういう気持ちになっていただろう、と。朕の、「月を見るたび別れた相手を思い出す」という発想は、すぐに理解が追いつくし、失恋して癒えきらない傷を抱えているときは、そういうのに浸りたくなるだろう。しかし、生活とは、どんなひどい失恋をしても、大きな失敗があっても続いていく。そして人は、確実に物事を忘れていく。ぱるんこがあっさりと提示したように、いつか彩芽も、月を認識すらしない、つまり前澤を思い出しもしない日が来るはずなのだ。最初の花の話に置き換えれば、記憶の爪痕に残ってやろうと花の名前を教えたとして、いつか相手はその名前すら忘れる時が来るということだ。時の流れと人の忘却の能力は、本当に残酷だなと思う。ただ、それが世の常であり逆らえない現実なのだ。なんかリアルだなぁ。そんな風に思った。名前しか知らないような人の失恋に憑依して、勝手に人の世の無常を感じちゃったのである。

 そして、好きなポイント二つ目。コメント。この動画のコメント欄の一番上には、チャンネル主によって固定されたコメントがある。「俺はカップヌードルの底に貼ってある蓋止め用のシールで元カノログインしてくる」。

 エモい。一言で言ってしまえばこれだ。動画の内容と相まってこのコメントがどうしようもなく好きになってしまった。男子大学生が、深夜に一人でカップ麺を作ろうとしてふと元カノの笑顔を思い出している映像が鮮明に見える。未練とか執念とかではなく、言ってしまえばただの思い出なのだろう。そして、今はシールで元カノがログインしてくる彼も、いつかそのシールの思い出も、はたまた元カノのことすら思い出さなくなるはずだ。ぱるんこが「意識にないものはないのと同じ」といったように。エモいなぁ。

 さて、タイトルの回収に入ろう。エモいとはいったい何なのか。私は、この動画とコメントがエモい理由は、「なるべくしてなる」からであったと思う。コメントの彼は、思い出そうとして元カノのことを思い出したわけではないだろう。ただ、生活の中でふとした何かが引き金になってぽつりと思い出す。どうとなるわけでもないけど、思い出す。彩芽がいつか、月を意識しなくなって、前澤を思い出すことがなくなる。そういう、そうしようと思ってしたわけではないけどなってしまった、そういう感じが「エモい」んじゃないかなぁ。世でエモいと思われるものは何だろうと考えた時、例えば夕日の写真とか別れた恋人の話とか、既存の日本語で言えば「哀愁」とかと似た感じの雰囲気だろう。そういうものって、終わりゆくものであったり既にどうにもならないもの、それらをただ見ているような感じがするのは、私だけだろうか。そういう、どうにもならない感じのものを「エモい」と呼んでいるのが私は好きだ。

 何が言いたいのかわからなくなってきた。エモいは作るものではなく、ふと日常の中で何かを拾い上げる、そういう行為ではないだろうか。自分で落として拾って同じ動きをしてみても、偶然や無意識というピースが抜けている時点で、それは全く違うものになっていると思う。思う、うん。

 要するに、ぽんちえ劇場面白いので見てね。ほとんどの動画はもっとおふざけで気楽な感じです。ぱるんこが駆除した蜂の巣の生き残りの女王蜂と話すとか、変態について研究するとか。声が可愛いよ。時たまあげられる、ぽんちえ今昔物語シリーズは、どうやら朕の過去についての物語のようで、普段の動画とのギャップがこれまた良い。とても深みのあるチャンネルなので見てみてね。

 以上、今回の好きなものは『Youtubeのぽんちえ劇場』でした。以上!

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