赤子が弱いのではなく、我々が強すぎるという可能性

 電車でぐずっている赤ちゃんとか、お店で駄々こねている小さな子を見かけると、いつも思うことがある。

 19のわたしだって泣きたくなるんだから、生まれたての幼児なんてそりゃ泣くよな〜という感想。

 例えば、極限までお腹がすいているのに食べるものが何もないバイト帰りの夜10時。死ぬほど眠いのにまだやることがたくさん残っている水曜の夜。
 そういうとき、私は全然泣きたくなる。
 別に深刻なことは何もないけど、ただただ、「ね〜む〜い〜!」とか言ってギャン泣きしたくなることは全然ある。高校生の頃だって、数学の問題があまりに解けなくて授業中にこっそり泣いた。

 空腹、眠気、不快。
 そういうことではもはや泣かなくなった大人は、赤子は些末なことで泣くものだと、余裕しゃくしゃくで笑っている。
 しかし、赤子がこれらで泣くのはなんら弱いことではないし、むしろ、こういうとき思いきり泣いちゃうのが、人間本来の姿なのではないだろうか。
 それは決して弱さではない。人間は皆、赤子の状態がスタートラインなのだから。

 ではなぜ、我々はお腹がすいても泣かずに料理ができるようになったのか。道端に身を投げ打ち「もう歩きたくない」と手足をばたつかせることがなくなったのか。
 それは、ほかでもなく「おとなはそんなことしない」と社会で学んできたからだ。それが人の本性だからではない。

 無意識に、「大学生はお腹がすいたくらいで泣かない」「おとなは眠いときに駄々をこねたりしない」と思うように育っている。

 我々は、赤子だった頃から強くなりすぎた。
 食事も排泄も睡眠も、全て自分の手で世話できるようになってしまった。このことに気づいてから、世の中の大人はもっと声を大にして自慢するべきだと、常日頃思っている。

 他人と比べることをやめるのは難しい。しかし我々が本当に比較するべきなのは、スタートラインの自分、すなわち赤子だった頃の自分。あの頃から何ができるようになったのか、何を我慢できるようになったのか。それを数えることが、本当に必要なことだと思う。
 ジンベエだって「失ったものばかり数えるな」とルフィに言っている。できないことばかりじゃなく、できることに目を向けよう。


 おなかすいても泣かないのえらい。眠くても泣かないのえらい。嫌なことあっても駄々こねないのえらい。毎日生きててえらい。
 おとなってつよい!