自分を認められない苦しさは、人に頼らず自分で解決したい。

 今日、久しぶりに逃げ恥を見た。「逃げるは恥だが役に立つ」。テレビドラマは全然見ないのだが、放送されていた当時、毎週欠かさずに見ていた。

 久しぶりに見て、当時なぜあんなにこのドラマに感情移入していたのかを思い出したので、したためておこう。

 このドラマの主人公の一人、ひらまさ(星野源)は、まじめであまり表情がなく、三十代にして女性経験が一度もない。悪い人ではないのだが、ぱっと見、堅苦しい人間に見える感じだ。そのためか、ひらまさは自己肯定感が低い。何話なのかわからないのだが、今日見た話では、そんなひらまさの姿がえがかれていた。ひらまさの同僚二人と、妻という体になっている契約結婚相手のみくり(ガッキー)、みくりの叔母であるゆりちゃん(石田ゆり子)の五人でぶどう狩りに行く話だ。ひらまさは、この一日を通して同僚の一人である風間という男に常に劣等感を感じる。風間はイケメンでひょうひょうとした性格で、誰とでも当たり障りなくかかわることが出来る男だ。厳密にいえば、今までずっと持っていた劣等感が、みくりと楽しそうに喋ることができている姿を見ることで強まった、という感じだろうか。もやもやとした気持ちが続き落ち込むひらまさ。そして、ほか四人が楽しく談笑している中で、俯きながらひたすらブドウを食べているひらまさの、こんな心の声が聞こえてくるのだ。

「なぜこんなにも、劣等感に苛まれるのか。なぜこんなにも、ちっぽけな男なのか。」

 胸が痛くなるセリフだった。風間への劣等感が、彼に対する怒りや苛立ちに変わるのではなく、自分の小ささへの情けなさ、悔しさに向くところがすごく共感できる。「なんで自分はこんなに劣等感を感じてしまうんだろう、なんで自分はこういう考えにしかなれないんだろう」って思っちゃうんだよね。あぁこのドラマのこういう所が好きだったなぁ、と思い出した。

 劣等感とか、あと嫉妬とか。これは完全に自分の中から生まれる感情だ。第三者に迷惑なことをされて怒る、とか優しくしてもらって喜ぶ、とか、他人の行動に起因する感情とは違う。人の行動や境遇を勝手に羨ましがったり、自分と比べたりしている。それで、勝手に生きづらい。必要なのは自分の考えを変えることだけなのに、たったそれだけのことがどうしてもできない。たぶん、自己肯定感が低いのに自意識は強いからこんなことになっているんだろう。生きるのが下手だな、とつくづく思う。自分に自信がある強い人間であれば、全く無いことはないにしろ、些細な事で人と比べたり、大好きな友達と一緒にいるのが辛くなったりする回数は少ないんじゃないかと思う。

 そういうことを毎日考えているから、ひらまさの姿が痛々しくて愛おしくて仕方なかった。とはいっても、これはドラマなので終盤に向かうにつれ、挽回するような展開になってくる。お寺で、ひらまさとみくりが二人きりになる。ひらまさが「風間さんはかっこいいよなぁ」と呟くと、「かっこいいですね」と、みくり。そしてそのあと、「私はひらまささんが一番好きですけど」と何気なく言うのだ。ひらまさにとって、それは染み渡る一言だった。

 認めてほしい相手からの肯定の言葉って、麻薬みたいなものだと思う。自己肯定感が低いと特に。ひらまさは、みくりのことが好き(まだ恋愛でないにしろ)であって、自分に対しても同じように好意を持ってほしいからこそ、風間に劣等感を感じていたんだろう。自分があんな風にできれば、みくりにも気に入ってもらえるはずなのに、と。でもそうはなれないから苦しいんだよな。だからそんなみくりが、そのままのひらまさを「一番」と言ってくれたことは、ひらまさにとって大きな満足感、あるいは優越感を与えるものだっただろう。何気なく、というのもポイントだ。本心だと思えれば思えるほど、言葉の染みわたりが深まる。

 例えば友達と一緒に遊んだ日、別れ際に「今日は楽しかった、ありがとう」と言ってもらえると、「私と一緒で本当に楽しいかな、大丈夫かな」と心のどこかで心配し続けている私は、心底安心するのだ。たとえそれが社交辞令であっても。だからといって、一緒に遊ぶ人や友達にそれを求めているわけではない。むしろ求めてはいけないのだろうなと、思う。そうやって、相手から与えられるものにいつまでもすがっていたら、結局自分の中の自分への評価は低いままのような気がするからだ。毎度その言葉を待って、その言葉で安心していたら、私はいつまでも「私なんかと遊んで楽しいのかな」と考えるような人間のままだ。そんなのは嫌だ。友だち減りそうだし。

 ひらまさはみくりの言葉によって自己肯定感が高まった。そしてこのドラマで、ひらまさはみくりのおかげで、人として成長していくように思う。しかし、現実の人間は、自分自身はどうだろうか。自分を満たしてくれる言葉を待つのか、誰かのおかげで成長するのを待つのか。そんなことは決して解決にはならない。その人がいつまでも隣にいてくれるとは限らないからだ。この生きづらさからいち早く脱出するための方法は、私にとってのみくりのような人間を待つことではなく、自分自身で自分を「一番だ」といえるようになることではないだろうか。自分が幸せになるきっかけを自分以外に求めることは、今の生きづらさよりもよっぽどしんどい。

 でも、自分を認めるなんてことが簡単にできていたら、こんなことを水曜の夜中に書いているわけがない。というか、この世界に本気で心から自分のことを認めている人なんているのだろうか。想像がつかないや。

 とにかく、今の私には自分を認めるなんて高度なことは中々出来そうもない。だから、とりあえず失敗しないように気をつけようと思う。思いのままに喋りすぎないとか、人の話を最後まで聞くとか、そういう些細なじぶんの嫌いなところを治していきたい。別に、実際にその部分が他人にどう思われているかは重要じゃない。自分がそこを嫌いなのが問題なのだ。自分で自分が嫌いなところを無くしていけば、いつかは自分を好きになれるような気がする。

 全然関係ないけど、私が好きな人が私を好きとは限らないっていう現実にも最近気づいてきた。これもきっと、自己肯定感が高ければ「そういうこともあるよね」と、そんなに傷つくことではないのかもしれないなぁ。

 生きるのって大変だね。幸せになりた~い。以上!