最近太宰治読んだって話

 最近、太宰治の本を読んだ。『人間失格』と『斜陽』。
 文学部に所属していると言うのが恥ずかしいレベルで本を読んでいないことに、臆病な自尊心と尊大な羞恥心が我慢ならなくなったのが理由。とりあえず日本の名著は読んでおくか、と思って本当になんとなく太宰から手をつけた。読んでよかったなと思う。

 読んでいると、「私は本当は生きていてはいけない人間なんじゃないか」という、いつからかこころに漠然とある気持ちを肯定してもらえたような気分がした。ほっとしたような気分だ。

 イタいな~と思われるのかもしれないし、実際イタいのかもしれない。でも、イタくないようにと考えて喋って生きることがわたしを助けてくれるようにも感じられないから、考えが変わるまではこのままでいようと思う。


 「あぁ、わたしたぶん生きてちゃいけないんだろうな」と、ふと思う時がある。いわゆる病み期とかメンブレしているわけではなく、授業が終わって家路についている時や、お昼ご飯を食べ終わった時とか、そういうほんとうに何気ない一瞬で。毎日絶望しているとかそういうわけではない。いろんな人のおかげで、楽しいことも嬉しいこともそれなにりにたくさんあって、辛いことからは逃げることができる生活を送っている。だからこれは、私の思想ではなくて、もうほとんど感情、あるいは生理現象みたいなものの気がする。おなかがすいたとか、楽しいとか、そういうのと同じように、生きていてはいけないなぁと自然と感じる。でも別に、おなかがすいたその瞬間に必ず何かを食べているわけではないように、生きていてはいけないなぁと思いながら、毎日生きている。

 何が理由なのかはいまいち分からない。でも、限りなく根っこに近いところには、バレないように必死に取り繕っているだけで私は最低で駄目で誰の役にも立たないような人間なんだという自己認識があるような気がする。そしてときたま、それが実はとっくに周りにばれている、あるいはそのせいでみんなに迷惑をかけているということにはたと気がついて、自分が生きていることの図々しさを感じるのだ。

 本を読んで、太宰治という人間はこんな気持ちを、類まれなる感性と精神で私の何倍も強く強く感じていたんじゃないかと思った。


 中学生の頃、授業で『人間失格』の抜粋を読んだことがある。葉蔵の、自身がいかに周りが思っているような人間でないかを独白しているあたりだった気がする。そのころ私は、自己中心的な幸せなこどもだったので、「こんなことを考えて生きるのは、そりゃ何度も自殺するくらい大変なことだろうなぁ」くらいに思っていて、まさか数年後に自分がその本に救われているなんて思いもよらなかった。なんならちょっと引いてた。

 でもそもそも、太宰が有名作家な時点でこういう気持ちは別に特異なものではないのだろうし、私の代わりに太宰が、太宰の本の中の人間たちが言語化してくれている。おかげさまで私は、自分で四苦八苦して反吐を吐いて答えを探さずとも、太宰の本を読んで「わかる~」と思っていればやりすごせているのだ。

 『斜陽』の中では、直治の遺書の部分がダントツですきだ。とてもきれいな文章だと思う。「僕は、死んだほうがいいんです」と、まるでそれだけが唯一絶対の客観的事実かのように書かれていて、どこか清々しさまで感じる。


 ここまで語ってなんだけど、普通に、生きていちゃいけない人間なんていないと思う。私は断然「実存は本質に先立つ」サルトル派で、なんなら人間の本質なんてこの世に存在しないと思っている。私たちが生まれていきているのは親の性交渉の結果でしかなく、でもただの結果として過ごすには人間にとって人生が長すぎるから、いろいろ考えて「世の役に立つ」とか「命をつなぐ」とかを人生の目的にしているのだ。そんなのなくたって、息して飯食ってれば命は繋がってしまうのに。そして、目的がないなら道を外れる人間もいないので、そもそも生きてちゃいけない、なんてのも成立しないんじゃないか。

 生きてちゃいけない人間なんていない。だから再度書くが、わたしのこれは、思想あるいは理論ではなく、感情なのだ。そう感じてしまうものなのだ。だとすると、太宰は私よりたぶん全然頭が良いので、いろいろ考えた末にあそこにいき着いているんだろうと思うから、勝手に共感するのも失礼な気がしてきた。


 まあ読書っていいよねって話。ずっとモヤモヤしていたのが馬鹿らしくなるくらい、きれいに言語化してくれているひとが世の中にはわりかしいる。言語化は、自己肯定だ。太宰のおかげで、生きていてはいけないという思いを肯定しながら生きていけるようになった気がする。