マイクの前の二年間、朗読。

 放送をしていてよかったと、改めて思う。朗読という行為に、一応真剣に向き合う二年間があって良かったと思う。最後くらい、おセンチな自分語りがあってもいいかなと、こんな文を書いています。

 高校に入学したとき、いや本当はもっと前から、それこそ、放送部が一体何をするのかをろくに知らなかった時から、なぜか根拠のない自信があった。「たぶんそこそこうまくやれるだろうなぁ」そんな確信めいたもの。あながち間違いでもなかったわけで、運やら何やらの味方もあって、県ではそこそこの実力者として通ってきた二年間だった。ありがたいことに、「才能があるね」とか「すごい」と言ってもらえることも何度かあった。でも、曲がりなりにも一年の頃からたくさんの全国の舞台を見てきたから言えることだけれど、私は才能がない。朗読の才能はない。卑下でも謙遜でもなく、客観的な意見としてそう思う。才能があるというのは、私が全国で見てきたああいう人達を形容する言葉で、すごいというのは、あの人とかあの人の朗読やアナウンスのことを言うのだ。せいぜい私はセンスがあった、くらいのレベルで、そんなのは努力でいくらでも身につく範囲だ。一年の夏、全国大会に参加してから、ずっとそんな思いを抱いて部活をしていた。思えば私の二年間は、常に諦めと共にあったと思う。

 井の中の蛙、そんな時期すら与えられない間に大海に投げ出された。入部して一か月足らずで県大会に出て、なんだか全国派遣が決まって、だた純粋な好奇心で、とにかくウキウキで参加して、そして、心を粉々に砕かれた。付け焼刃の技術と雰囲気で代表に選ばれた一年生にとって、全国の舞台はあまりに恐れ多かった。人の前で読むのが嫌だと思った。私はこんなにレベルが低いのに、この人たちと同じ舞台に立つのが恥ずかしいと思った。そして、決勝の舞台を見た時、「あぁ、私はきっと、あと二年かけてもあそこまで上手にはならないんだろうな」と、諦めがついた。じめじめした僻みや悲しみといった感情ではなく、世界の真理の一つを見つけたような、悟りを開いたような感じだったのを覚えている。思えばあれが人生で初めての挫折だ。そこからずっと、諦め続けている。

 しばらくは苦しかった。どんなに努力しても越えられない壁がある。夏が終わってから聞く自分の読みは、記憶の中の「本当にうまい」人達の読みとはかけ離れていた。何か根本が違うのだ。その何かがわからないことも、きっと私が駄目な理由だった。これ以上どうしたらいいか分からない。何のために頑張っているのか、何を目指しているのか。どうせたどり着けないのに?ふとした瞬間に湧き上がるそういう気持ちと戦うのが、この二年間で一番大変なことだったかもしれない。なにより、そういう思いを誰にも打ち明けられなかった。全国の舞台に憧れて派遣を目指す仲間に「全国には絶対敵わない壁があるよ、行っても絶望だよ」なんて酷な事は言えなかったし、言うつもりもなかった。ただ時々、卑下でも何でもない、このただの諦めを共有できる相手がいないことが少しだけ苦しかったりもした。

 でも、大事なのはそこじゃない。私がこの二年で学んだのは、諦めることと努力しないことはイコールではないということだ。私は、自分が全国で通用できるなんて本当に微塵も思っていなかったし、三年とも準々決勝どまりで終わるのだろうと思って練習していた。けれど、結果がでないと分かっていても(思っていても)、努力をするのは楽しかった。二年の夏に読んだ原稿に、「今はまだその時じゃない。/才能という言葉でごまかしてはいけない。」というフレーズがある。本当にその通りだと思う。才能がないからなんなのだ、結果が出ないから何なんだ。私は、朗読が好きだ。だから放送部に入ったし、朗読をしている。別にうまくなろうがならまいが、結果が出ようが出まいが、才能があろうがなかろうが、どうでもいい。目の前の出来ないことを出来るようにするだけ。練習をするだけ。それだけだった。この原稿とそういう思いを携えて、全国の準決勝の舞台に立てたことは今でも心に残っている。


 私は、朗読という行為が好きだ。

 中学生の頃は、吹奏楽”部”が好きだった。厳密にいえば、みんなで協力して一つの物を作り上げるという部活動自体が好きだった。だから、吹奏楽そのものが好きだったのかと聞かれると、正直微妙。でも今は、朗読が好きだから放送をしていたと自信を持っていえる。私は、本当にいい環境に恵まれたと思う。優しい顧問に先輩、気の置けない同輩たちがいて、ずっと楽しく部活動が出来た。こんなに部活に打ち込めたのも部活が楽しかったのも、そういう環境のおかげだ。それでも、なぜ続けていたのか何故好きなのかと聞かれれば、それは朗読が好きだったからだ。

 どんな嫌なことも不安も、マイクの前に立つと全部忘れることが出来た。比喩じゃなくて本当に。二年の半ば、どうしようもなく辛かった時期、泣きながら一人で練習の準備をしたことがある。電源を入れて、スタンドを立てて、原稿を持って。準備をしている間も悲しくて苦しい思いでいっぱいだった。でも、マイクの前に立って声を出した瞬間、全部吹き飛んだ。ただただ「楽しい!」って感じで、思わず笑ってしまったのを覚えている。私にはこれがあると思えたから、この二年間をどうにか乗り越えてこれた。だからこそ越えられない壁がとてつもなく大きくて苦しかったんだけど。

 とはいいつつ、私がこの二年で得た確固たる信念が一つだけある。それは、私にとって朗読は承認要求を満たす道具ではない。自分自身を表現するためのものではない、ということだ。賞を取って、褒められて持ち上げられることは気持ちがいい。その心地よさに、何度も流されそうになったこともある。だけど、それではだめだ。賞のための朗読をすることはできる。実際、「競技朗読」なんて言葉があるように、大会で実績を取りやすいやり方があるのは事実だ。でも、少なくとも私は、そんな朗読は絶対にやりたくない。私は、私が読みたいと思った場面を私が考えた解釈で、私の声で読みたい。例えそれが大会での結果が奮わないものだったとしても、自信を持っていたい。常に「良い朗読」を目指したい。「朗読をしている自分」に溺れてしまうのが怖かった。自分自身の要求にも他人の承認にも忖度せず、ただ「良い放送」を作るというのは、案外ほんとうに大変なことなのだ。


 そういう風に、周りと比べないとか、賞に囚われないとか、口で言うのは簡単だ。私も口酸っぱく部員に言ってきた。「賞を取った人がうまい訳じゃない、正解なんてない」本当は、ほとんど自分に言い聞かせていたようなものです。

 芸術、という言葉は荘厳すぎてちょっとこっぱずかしいけど、でもやっぱり朗読は芸術の一つで、表現の世界のものだと思う。だから、審査員の好み、本の解釈、はたまた発表の順番、読み手の容姿。そういう本当に些細な要素が組み合わさって、賞という不安定で不確定なものが決められる。賞は、朗読の質の指標でも、読み手の実力の順列でもないことは、たくさんの舞台を見て痛感してきた。特に、自分が賞をもらうたびに。一年生の秋、県で一番朗読が上手かった、ということになった。とても嬉しかったけど、同時に不安に襲われた。それ以来、ずっとつきまとわれている。その大会の時、少なくとも二人は、明らかに私より朗読がうまいと感じた人達がいた。謙遜するつもりはない、賞に不服申し立てるつもりもない。賞は水物だということは、その時からすでに重々承知していた。だからこそ、怖かった。こんなに不安定な物を目指して努力するのか。いつか、あっさり裏切られそうだなと思った。だって、こんなに上手な人達を差し置いて私が貰えてしまうようなことがあるんだもの。

 じゃあ結果なんて気にしなければいい、という簡単な話でもないから困ってしまう。これは私の持論だけど、賞を取る人が上手いとは限らないけれど、圧倒的にうまい人は賞がとれる。解釈の違いも好みもねじ伏せるような圧倒的な読み。これが正解なのだと思わせてしまう朗読。そういうものが作れる人には、自然と結果がついてくる。二年前のNHKホールで「あ、この人が優勝だな」と感じさせられたあの読みみたいに。この法則が頭にちらつくせいで、賞をどうでもいいものだと蔑ろにできなかった。賞が欲しい訳じゃない。でも、賞の不安定さに負けるような朗読をしていると証明されるのも怖い。うまいなら獲れるはず。獲れないなら、私の朗読には、まだ賞に勝つ力がない。そういう不安や焦りが大会のたびに心を埋めていって、ただ純粋に朗読を楽しむことが難しかった。

 「一年生の頃からずっと賞を取り続けている子」というレッテルが、大会を重ねるごとに重くなった。今思えば、勝手に自分で貼り付けていただけだったのかも。そうだったとしても、私には重かった。二年の九コンの時は気持ちが完全に負けて、本番まで何度もトイレに駆け込んだ。個室の床に蹲ってなんでこんな思いをしてまで、と訳が分からなくなった。

 だから、今年のNコンがなくなったとき、正直、ほっとした自分がいた。もうそういうふうに賞に苦しむ事もない。全国に行けなかったらどうしようと不安で眠れない夜もない。実をいうと、三年のNコンはずっと怖かった。去年の先輩達の姿がちらついていたから。

 去年、夏の大会で準決勝に残った。自分が準決に残るなんて微塵も思っていなかった。嬉しかった。努力は無駄じゃなかったんだと思えた。でも、準決に残ったのは私とアナウンスの先輩が一人だけ。私よりもずっとうまかった朗読の先輩は、ちょっとした、でも取り返しのつかない原因で残れなかった。その先輩に無言で肩をたたかれた。ずっと憧れていて、でもあまり話したことがなかったアナウンスの先輩には、笑顔で「すごいね、聞いてるから頑張ってね」と言われた。その時初めて、自分がとんでもないものを背負っていることに気づいた。情けないことに、自分が県の代表であることや、誰かがもう二度と立てない舞台に立つこと、聞かれているということの重みを知ったのだ。

 準決の舞台は、本当にレベルが違う。発表者の話ではなく、聞いている側の。聞かれている、という感覚が全身に刺さるのだ。一挙一動、一度の呼吸でさえ食い入るように見られている。準決の舞台は観覧が自由なので、会場にいる人達はみんな自分の意志で聞きに来ているからだろう。そしてその人達はきっと、本当はあの舞台に立ちたかった人達だ。その中には、私の知る先輩のように、この夏が最後の大会だった人たちもいただろう。そういう人たちの視線は、重かった。

 私は、放送にそれを行う人の要素は全く関係がないと思っている。三年生でも一年生でも、県代表としてでも一個人としてでも、今までの経歴がどうであれ、目標はただひとつ「良い読みをすること」ということだけだ。でもそれは理想論で、私は先輩たちの視線や舞台の重みを振り払えるほど、朗読に入りこむ実力なんてなかった。叩かれた肩が、「頑張ってね」の言葉が、忘れられなかった。結果的に、私は準決に飲まれて、今まで練習でもしたことないような失敗をして舞台を降りた。自分でもびっくりするぐらい泣いて、他校の先生を困らせたのを覚えている。

 あの時の先輩の立場になったら、果たして私は、私の立てない舞台に立つ仲間に「頑張ってね」と笑顔で言えるだろうか。絶対に無理だ。

 去年の冬、最後の九コンの時。決勝が始まり、私は「学ばなきゃ」とシャーペンを握った。だけど、一年経っても結局去年と同じように客席に座っている自分が馬鹿みたいで、涙が止まらなかった。もう二度と参加できない大会で、私はただ座って見ている側だった。今でも後悔している。これが、正真正銘ほんとうに最後の大会だったとしたら?きっとずっと後悔するし、満足いく終わりだったなんてとてもいえないだろう。

 準決の名簿の紙一枚に名前が載っていなければ、最後の大会が終わる。十分にあり得ることだから、怖かった。だから、その大会自体が無くなったことに少しだけ安心している。

 でも、やっぱり思う。たとえどんなに悪い結果でも、全国に行けなかったとしても、去年より悪い結果だったとしても、それでも、挑戦する機会すら奪われるよりはよかったのかもしれない。あの不安や苦しさや葛藤を全部含めて大会だったのだ。ちゃんと挑戦して、ちゃんと後悔したかった。なにより、下の子たちの貴重な機会がなくなったことは、本当に心苦しい。仕方ないけどね。

 ただ総じて思うのは、そもそもそういう風に自分のレッテルを重く感じることとか、本番前に異様なプレッシャーに襲われることとか、そういう経験自体がとても貴重なものだったんだろう。抜きんでた特技なんてほかに何一つない私がそういう気持ちと戦えるのは、朗読という土俵の上だけだった。プレッシャーを知る権利、井の中の蛙として大海を知る権利。ありがたかったんだなと思う。だから、この辛い思い出も後悔も全部ひっくるめて、私は放送部としての二年間を大切に思っている。


 心残りは、経験の引き継ぎや伝達を含め、人づき合いがとても下手だったことだ。どこかで書いたように、私が一番好きだったのは結局「自分が朗読をしている」時間だったから、特に最初の頃は、人に教えることやアドバイスをするのが苦手だった。というか、すぐ忘れてしまうのだ。自分の練習に夢中になってしまって。でも、代表として上の大会に行く人には、そこで見てきたもの・学んだものを伝えるという大きな役目があることを、今更ながらに気づいた。技術の伝達は、県のレベルの向上であり、県のレベルの向上はつまり自分のレベルの向上なのだ。一人だけ一校だけで上手くなるのには限界がある。だから、自分のためにも周りや後輩を育てることは大切なのだ。

 県の練習会でも、暇があればひたすら練習して、派遣メンバーとお喋りしたりすることもほとんどなかった。今思えば、かなり近寄りがたい人だっただろう。実際、去年の夏の派遣中に同室の子から「いつも何考えてるかわかんないってよく話になってたよ笑」と言われた。周りの人からすれば、そんな奴と練習するのは居心地悪かっただろう。申し訳ないなぁ。今さら反省している。学校の部活も同じで、一人で没頭して練習してばかりで周りの部員に声を掛けたりすることも少なかった、部長なのに!特に派遣前なんて勝手にピリピリして、相当気を使わせていたと思う。

 うちの部は、有り体に言えば「自由・ゆるい」だ。でも、私が先輩の姿から感じたのはそんな単純なものではなく、「本気でやるかどうかは自由」ということなのだと思った。つまり、本気でやりたいならやればいいし、楽しみたいだけなら楽しくやればいい。そういうスタイル。だから私は本気でやったし、それを周りに強要したつもりもなかった。そのせいで、人にアドバイスする加減がわからなかった。ただ楽しみたいだけの人に本気のアドバイスをするのもお門違いな感じがしたから。別に本気でやることだけが部活の形じゃないから、そういう人に何か思っていたとかそんなことは一つもない。ただ、皆が自分の思う楽しい形で部活ができれば一番だと思っていて、だからこそ私の「本気」を押しつけて、ついて行けないと思われるのが嫌だったのだ。みんなが本当にどう思っていたのかは分かる術がない。けれど、二年間一緒に活動をやりきった仲間がけっこういることで、少しだけ安心している。

 私が言うことではないけれど、同輩のみんなはきっと、実績とかに関して、私に対してずっといい気持ちばかりではなかったと思う。私も大会のたび、どう振る舞うべきなのかどう声をかけるべきなのか、ずっと分からなくて冷たいと思われても仕方ない態度を取ったりした。放送に関して嘘をつきたくなかったから、できていないことをできているとごまかして教えたことはなかったし、良いと思ったものにしか良いとは言わなかった。思ったことは正直に講評してきた。そういう時に、つい「ここがちょっと気持ち悪い」とか「それは変」とか、自分が言われても嫌な言い回しをしてしまうこともあった。そういう、褒め下手で言葉も悪くてうまく立ち回れない私だったのに、誰も私を責めることも、私に対するいろんな気持ちを悟らせることもなかった。だからのびのび朗読ができた。私はいろんな人のおかげで充実していたけれど、私自身はみんなにとっていい同輩、部長、先輩であっただろうか。頑張ったつもりではあるんだけどね。

 

 正直なことを書いたから、辛かったことや後悔ばかり沢山挙げてしまった。でも、放送部としての活動は、そういうのを含めて全部楽しかった。あっという間の二年だった。放送をしていたからこそ手に入れられた感性があると思う。なにより、自分のことを好きになれた。「私にはこれがある」と思えるものを手に入れられた。そして、私は今も根拠のない確信がある。たぶん私は、朗読とか放送とか、そういうことを仕事にして生きていく。才能なんてないし、同じような実力の人は全国に溢れるくらいいるけど、でもやっぱり伝えることが好きだ。この二年は、これからへの長い入り口だったのだと思っている。いつか、自然と皆の耳に名前が入ってくるような人間になりたいな。


 放送をやっていて良かったと、改めて思う。朗読をやっていてよかった。マイクの前に立っていたこの二年に、自信をもっている。