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古道 ゑのしま道 みてある記

この記事は、当時、藤沢市 新林公園近くに住んでいたわたしの父が、
平成16年(2004年)11月に編纂し、ご近所さんへお配りしていた散策資料を起こしたものです。

以下の資料を参照し、散策しながら記した、と書かれています。
・藤沢の地名と風土(日本地名研究所編(藤沢市))
・藤沢市の各文化財標識
わが住む里
写真は、リンクを貼っているもの以外はすべてGoogle ストリートビューで
撮りました。

Google Map上では、記念碑、道標、史跡 などで検索すると、表示できるのをご存知でしたか?
上記は「江ノ島弁財天道標」の検索結果です。

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本ブログでは、上記地図の上から下へ向かって史跡をたどります。

古道 「ゑのしま道」を歩く

さて、古道「江ノ島道」のお話をいたしましょう。

藤沢宿から境川を南下したところにある馬鞍橋(うまくらばし)、
岩屋不動、
江ノ島弁財天道標、
諏訪神社、
一遍上人(いっぺんしょうにん)踊り念仏跡、
西行もどり松、
常立寺(じょうりゅうじ)、
龍口寺(りゅうこうじ)、
腰越満福寺(こしごえ まんぷくじ)
・・・までの、江ノ島に至る、徒歩90分ほどの散歩道の「つれづれ」を、
ご案内いたします。

新林公園から、ミネベア前の三叉路の右手上、山本橋寄り(ミネベア社宅入口)のところに、享保15年(1730年)の庚申供養塔があります。

ひっそりと佇む庚申塔

本ブログでは、このあたりから、「江ノ島道」と呼ばれた道筋に入ります。

庚申塔から南へ向かって歩きます。

江戸時代、庶民のあいだで弁財天信仰が盛んとなり、江戸から約3泊4日位の距離にある江ノ島は、信仰の地として、また遊興の地としても大変な賑わいだったようです。
江ノ島道は、藤沢宿(現在の国道1号線、遊行寺近辺)から江ノ島に至る道で、大山詣での人たちが、その帰りに江ノ島弁財天に参拝する道でもありました。

馬鞍橋

川沿いに南下すること7分程で、馬鞍橋(うまくらばし)があります。
別名 馬喰橋(うまくらいはし)、馬鞍橋(まぐらばし)、馬殺橋(うまころしばし)とも呼ばれています。

写真:タウンニュース 藤沢版 2021年5月21日号 より

昔、源頼朝が橋のない川に馬の鞍をかけてわたったという伝説から「馬鞍橋」、
また、石が2-3枚渡してある溝川があって、その橋のところに来ると馬がいななき、すぐに死んでしまう、という伝説から「馬殺橋」と呼ばれたそうです。
この橋は境川の洪水や、片瀬丘陵から流れ落ちる水のために、何度も流されたり、破損したりした、と伝えられております。

そうなると、参拝人は江ノ島へ山岸を伝って遠回りするか、川を舟で行ったということで、費用が余計にかかり、困ったようでした。
また、この橋の近くは、海岸からの荷揚げをしたり、陸から荷積みをした場所でもあったので、輸送の点でも大変重要な橋だったようです。

馬鞍橋を南下すると、片瀬山入り口・新屋敷橋に出ます。

右に新屋敷橋を見ながら、川沿いに歩いて行きます

この道を横断して少し歩くと、左角に岩谷不動道標があります。

岩谷不動

路地を左に折れ、道なりに3~4分歩くと、岩谷不動(巌不動尊)があります。
石籠山不動尊(いしごめやま不動尊)ともいい、やぐらの中に石造りの不動尊像が
安置されています。
その昔、弘法大師が修行のため穴を掘り、穴居修行(けっきょしゅぎょう)をした場所だと云われております。

その後、江戸時代元禄八年(1695年)、快祐上人(かいゆうしょうにん)が小堂を起こし、稲荷大明神を勧請(かんじょう:神や仏を移し祀ること)し、不動明王像を安置しました。

快祐上人は寛文3年(1663)に片瀬に生まれ、永享元年(1744)、行きたまま岩谷に入って成仏し、82歳で没しました。
毎年1月28日の初不動には、赤い布を結びつけた竹が道筋に立ちます。

さて、岩谷不動尊から道標地点まで戻り、江ノ島道をさらに南へ進むと、片瀬小学校の正門脇に江ノ島道標と、数基の庚申供養塔が建っています。

小学校正門脇の道標、その裏側には庚申塔群
泉蔵寺入り口に集められた庚申塔と石群

江ノ島弁財天道標

これらの道標は、正しくは江ノ島弁財天道標といいます。
その昔、管鍼灸(かんしんきゅう)術の考案者で、江ノ島弁財天の信仰者でもあった、杉山検校(すぎやまけんぎょう、1610-1694)が、多くの参拝者が道に迷うことがないように、と建立したと伝えられています。

道標は48基あったうち、現在12基が残され、市の指定文化財となっています。
4面のうち、3面に
「一切衆生(いっさいしゅじょう)」、
「ゑのしま道」、
「二世安楽(にせいあんらく)」
・・・と、刻んであります。

ただし、後に出てくる「西行もどり松」の1基だけは、第4面に「西行もどり松」と
刻まれています。
道しるべを兼ねて、道中する一切衆生の現世および来世の安楽を祈念した、造立者の杉山検校の心の温かさが偲ばれます。

泉蔵寺

江ノ島道標から左へ曲がると、奥に泉蔵寺(せんぞうじ、真言宗)があります。
この寺は、岩谷不動の別当(べっとう:神社を管理するために置かれた寺のこと)も
兼ねています。
また、相模国準四国八十八か所のうち四十三番目の札所で、弘法大師石像があります。

泉蔵寺入り口の道標に戻り、左手に泉蔵寺を見ながら、
三叉路を左へ進むと諏訪神社(上社)右へ進むと諏訪神社(下社)へ続きます。

江ノ島方面を向いたイメージ

まずは、右へ進路をとり、諏訪神社の下社へ向かいます。

諏訪神社下社→庚申塔→上社ルートをとります

諏訪神社

諏訪神社下社。奈良時代、養老七年(723)に、信州諏訪大社より他郷への最古の御分霊社として勧請されたと云われています。

上社を出て道なりに進み、T字路へ来ると、諏訪神社上社が見えてきます。

上社を右手に、さらに少し北へ進むと、塀と塀の間に佇む、青面金剛像の庚申供養塔(享保4年、1719)があります。

塀と塀の隙間にひっそりと佇む供養塔

密蔵寺

庚申塔→諏訪神社上社を過ぎ、まっすぐと南へ進んでゆくと、
嘉元年間(1303-06)頃に開山した密蔵寺(みつぞうじ:真言宗)の山門が見えてきます。

密蔵寺

これは、鎌倉時代に開山した古いお寺で、相模国準四国八十八か所のうち、十七番札所にあたります。
愛染明王(あいぜんみょうおう)を祀り、それにちなんで「愛染かつら」の記念樹が
植えられています。

密蔵寺の山門から斜め左前に、「左鎌倉道」「右江ノ島道」としるされた江ノ島弁財天道標があります。

この道標の右側のルートへ進んでいきます。

一遍上人地蔵堂跡

狭い道幅の小路を歩いてゆくと、少し小上がりになった公園の一角に、一遍上人地蔵堂跡があります。

現在は、公園の一角に標識があるのみ。

時宗(本山は遊行寺、正式名は藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)といい、踊りながら念仏を唱える「踊り念仏」で知られ、盆踊りの始まりとも云われている)の開祖である一遍上人は、鎌倉へ遊行へ行こうとしましたが、幕府により制止されたために鎌倉入りを諦め、片瀬で布教活動を行いました。

弘安五年(1282)、3月から7月にかけてここに滞在し、片瀬の地蔵堂の御堂を
中心として、踊り念仏を唱えたと伝えられています。
なお、一遍上人が4ヶ月間にもわたり留まったのは、この場所だけでした。

地蔵堂跡から、大通りと反対側へ進んでゆき、突き当りを右へ進むと、
片瀬市民センターがあり、敷地内に江ノ島弁財天道標があります。

駐車場内の敷地にひっそりと佇む道標
※2010年時の画像です。2017年以降は移設されています。下記を参照。

西行もどり松

片瀬市民センターを右手に、左側の道路わきには、見逃してしまいそうな一本の細い松が立っています。これが、西行もどり松です。

西行もどり松と道標。

根本に江ノ島弁財天道標があり、この標石には四面にそれぞれ、
江ノ島道
一切衆生
二世安楽
西行もどり松
…と、刻まれております。

江戸時代頃は、片瀬の名所のひとつであり、「ねじれ松」とも呼ばれ、枝葉が西の方に向いていたそうです。

これは西行法師が東国へ下る(当時は京都が都のため、西へ行くのが「上る」とされていた)とき、鎌倉への通りすがりに、道端の松の枝振りに目を留め、都恋しさのあまり、都の方を見返り、その枝を西の方へ捻じ曲げた、と云われています。

ここから来た道へUターンし、まっすぐ北上して、本蓮寺(ほんれんじ)に向かい、
それから本蓮寺の前の道を南下して、庚申供養塔をすぎて、常立寺(じょうりゅうじ)へ向かうルートを行きます。

矢印の道を右折した先に本蓮寺

本蓮寺

本蓮寺は、推古三年(595)に聖徳太子の師によって開かれたと伝わる密教寺院でしたが、源頼朝によって再建され、14世紀始めに日秀(にっしゅう)が日蓮宗へ改宗しました。慶安二年(1649)に江戸幕府から朱印地を与えられた「後朱印寺」です。

本蓮寺の山門脇、すぐ左の道を南へ進むと、三叉路に三猿像を台座の上に載せた市指定文化財の寛文庚申供養塔(1661~1673)があり、左の道のすぐ先には永正年間
(1504~1521)頃創建された常立寺があります。

常立寺

三叉路の角に庚申供養塔、左手先に常立寺
常立寺入口

このあたりは、「龍の口(たつのくち)」と呼ばれた刑場跡地です。
斬刑に処せられた者たちを埋葬し、塚を作って供養したところとも云われています。

常立寺の山門を入って左側に「誰姿森(だがすがたのもり)」と刻まれた大きな供養塔があり、その前に五輪塔が5基並んでいます

1274年、蒙古(現 モンゴル)が九州に来襲したが、台風に遭ったため撤収し、翌年に杜世忠(とせいちゅう/Du Shizhong)を始めとする使者5名を鎌倉へ派遣し、降伏を求めたものの、幕府はこれを拒否し、9月7日にこの地で5名を打首にしたとされています。

五輪塔は、鎌倉幕府の執権・北条時宗の指示により、建治元年(1275)、処刑された杜世忠ら五名を葬った元使塚があります。
塚の前には、杜世忠が妻と子を偲んだ辞世の碑が建てられています。

2007年、駐日モンゴル大使は、杜世忠らの命日である、9月7日に合わせこの寺を訪れ、今をもって五名を忘れることなく祀っていることに感謝し、
「これからは、毎年命日にこの寺を訪れ、五名を偲びたい」
と言って帰ったそうです。

常立寺を出たら、さらに南下して、モノレールをくぐり、龍口寺へ向かいます。

途中、三叉路の角に、江ノ島道標があります。
モノレールをくぐる方の道を進みます。

道標のある三叉路で、左のモノレール下の道を進みます。

龍口寺

道なりに進むと、国道461号線に出ます。そのまま左折して進むと、江ノ電が道路に合流するあたりに、日蓮宗随一の霊場本山、龍口寺があります。

山門前には、延元二年(1337)、日蓮聖人の「四大法難」のうち、もっとも有名な「龍の口法難」のあった龍の口刑場跡があります。
日法上人が、その跡地に一堂を建てたのが、この龍口寺である、と伝えられています。

このあたりの浜は、鎌倉幕府の刑場だったところでもあり、約2世紀にわたり
大庭景親のさらし首
義経の首実検(実検:討ち取った敵の首を検分すること)、
北条時行ら、多くの者の処刑
などが行われたと、伝えられています。

なお、義経の首は実検の後、片瀬の浜に捨てられたと云われています。
潮に乗って境川をさかのぼり、現在の藤沢白幡交差点のあたりにある、白旗神社付近に漂着し、里人がすくい上げて「義経の首洗い井戸」にて洗い清めた、ということです。

現在の龍の口刑場跡
龍口寺入口

法華経の布教者、日蓮は、文永八年(1271)、9月13日早朝、鎌倉幕府により斬首にされようとした瞬間、刃に大きな光が当たったかと思うとその刃が折れてしまい、一命をとりとめたとのことです。
土牢で夜明けを待ち、佐渡へ流されることになった日蓮は、馬の背に乗せられて龍の口を出発したとき、老婆が哀れんでぼた餅を差し出したそうです。
今でも、9月12日、13日には、この話にちなんで、ぼた餅が参拝客にふるまわれています。

ここからまっすぐ、江ノ島弁財天へ向かってもよいですが、
江ノ電または徒歩にて、満福寺(まんぷくじ)へ立ち寄るルートへ進みます。

万福寺へは江ノ電の線路脇を歩いて、徒歩で12分ほどの距離。
腰越駅近くの道祖神塔・庚申供養塔は、細い路地の角にひっそりと佇んでいます。

満福寺

満福寺は、義経が鎌倉の兄、頼朝に送った「潔白書」を書き留めたといわれている場所です。

満福寺

本堂のふすま、欄干などは、義経・静御前・弁慶などが物語風に鎌倉彫で装飾され、
義経がしたためた「腰越状」の現物も展示されており、ほかには、弁慶の腰掛石などもあります。

ここで、本ルートの終点、となります。
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さいごに

この記事をしたためた父は、東京の江戸川の下町で生まれ、中部地方で育ちました。
川崎生まれ、品川の下町育ちだった母と、東京・芝浦の勤務先で出会い、
結婚後の住処として、藤沢に居を構えます。

そして子供達を育てながら、お節介で世話好きな元来の気質で、地域活動にあれこれと関わりながら人々に愛され、同時に、藤沢・鎌倉地域を第2の故郷として、こよなく
愛すようになりました。
遺言で「父ちゃんの骨は江ノ島の海にブン撒いてくれ」とまで言っていたほどでした。

いっぽうで、母も元来の歴史好きが高じ、「藤沢地名の会」の活動に携わるようになり、長らく活動を続けておりました。
(この「藤沢地名の会」は、現在も活動が続いています。)

母は、この活動を通し、まるでミミズが這っているだけのような、不可解な古文書などもスラスラと読みこなせるようになっており、史跡やお寺などへ行くと「この巻物には、こんなことが書いてある」と、よく説明してくれていました。

また、曽祖父母の書いた、ものものしい縦書きの手紙が出てきた際、母に内容を尋ねてみると、
「当時大陸へ出稼ぎに出ていた息子(=祖父)に、お金がない、全然足りない、生活費を送れ、と、延々と書いているだけ」
と教えてくれながら、祖父の甲斐性のなさにあきれていたものでした。

本ブログの内容は、特筆はされていないものの、そんな母の知識や資料に大きく寄与するものだと思っています。

お楽しみいただけたら幸いです。

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