見出し画像

日本にノブレス・オブリージュあるか?(舛添都知事の金銭問題とか見てて)

最近の舛添東京都知事の金銭問題を見ていて、思ったのは、日本人にはノブレス・オブリージュという感覚はあるのか、育ちにくいか、ということ。

▶︎ノブレス・オブリージュって?

ご存知のとおり、ノブレス・オブリージュってのは、高貴な身分の人はその身分の相応の責任もある、ってことですよね。本来は貴族制度のような身分制度があって、階級上位の人はその階級であるがゆえの責任をちゃんと負っているってこと。
そしてここで重要なファクターとして、貴族や権力者は単にその階級ゆえに義務を押し付けられている、という感覚ではなく、その階級であることに自負、矜持を持って、責任を果たす意識を持つことなんですよね。

で、現代のように貴族という階級が減少してくると、お金持ちや社会的有名人、に主語がおきかえられて語られるようになってきてるわけで、責任を持つというイメージから、そういう人々は社会的規範たること、というやや倫理的ニュアンスも強くなっているように思います。

つまり現代においては、権力者、有名人、お金持ちは、その財産や力を持って、何かのときには率先して社会のために役立つことをすべきだという経済やパワーを持っている分を社会へ還元する義務があるという面と、普段から社会的に目立つ存在であるがゆえに倫理的規範を守った存在であれという面の2つでノブレス・オブリージュは語られるわけです。
さて、このような考えは日本ではうまく働いているのでしょうか?

▶︎日本のようなフラットな社会では?

日本だってきっと侍がいた時代だと、侍としてのプライドとしてのそういう感覚はあったように思えます。プライドで生きてたようなところさえありそう。

で、日本にも明治から第2次大戦までは華族がいたわけですしそこにはおそらくノブレス・オブリージュはあったのではないかと思うのです。もちろん一方でお金にも女にもだらしない政治家や身分の高い人やお金持ち財界人もいっぱいいたでしょうが、それとは別にそんなことをしても自分は、というプライドは並存しえたと思うし、あまり良いことではないでしょうが、それが場合によっては普段の悪行の免罪符にさえなっていたと思うのです。

で、現代の日本は階級差がなく、基準となりうるのは社会的知名度と経済的成功に還元されてしまう社会で、さらに大きな経済的格差を嫌う社会ですよね。このような社会ではなんだかノブレス・オブリージュのようなプライドに伴う責任感というのは育ちにくいと思うのです。

ノブレス・オブリージュとは違いますが、たとえば教師や医師、弁護士など士師業の類は、倫理性の高さを要求されていて、少なくとも昔はその職であることが尊敬対象であると同時に、その職の人はノブレス・オブリージュのようなプライドと行いの正しさが要求されていました。
今はそれは憧れられるとするなら、倫理性よりも経済的成功が期待されるだけなのではないでしょうか?
今でも、そういう人々が犯罪を犯すと嘆かれる理由にはその尊敬対象だった時の名残りあるわけですが、実際は単にそういう職業の社会的成功や経済的な裕福さとして目指す存在であって、その職に伴う倫理的プライドがあまり顧みられなくなっているのが現実ではないでしょうか?

つまりは、日本は戦後、フラットで民主的な社会をつくりだしたついでに、なんだかプライドや矜持を持つこと、責任感を結構置き去りにしたのかもしれません。(もちろん、個人それぞれが持っている倫理性や責任感は低くないと思いますよ。ここでいうのは、社会的地位に付随するもの、という意味合いに限ってのことです)

▶︎舛添都知事の金銭問題をみて

別に、舛添都知事に限らず、過去に様々な金銭問題を政治家は起こしてきているわけですが、舛添氏は特に政治家としてのプライドとともに、このくらいはしても大丈夫というずれた形で現れているように感じます。
正直なところ、母子家庭や単身世帯の収入が300万円を割り込む時代に、海外出張にファーストクラス往復250万円を使うってのは、そういう収入が少ない人の年収を交通宿泊費で優に使ってしまうわけですから、それをまずいと思わないってのは、そのくらいは自分の地位では当然という自負があるのでしょう。そこに本当に何かあればすべて全部がやってみせるぜ、という信用性があればいいのですが、それがなく本人のプライドだけってのがすっごくまずいし、ずれまくってるわけですね。

でも、実際もし、その政治家がすごく実行力もあれば許されるかというと、ここまでネットが発達して個人の意見が言いやすく、情報も多岐になってくると許してもらえなさそう。
実は、最近の石原慎太郎氏による田中角栄氏の評伝を気に、田中角栄氏の政治家としての豪腕が評価されたり、懐かしがられるのは、実は、このノブレス・オブリージュ的なものの存在への懐古ではないかという気がするのです。でも、もし今、角栄氏と同じことをする能力の人がいて、一方で金権政治だったとしたら、やはり叩かれまくる(いや、以前より)でしょうけどね。。。それだけ田中角栄氏は過去になったということでしょう。

▶︎ノブレス・オブリージュを嫌う日本人?

現代日本のように、階級概念がなく、格差拡大といってもまだまだ大きな差が生まれない社会では、ノブレス・オブリージュという感覚は持ちにくく、育ちにくいのかもしれません。これは、日本では個人の寄付文化が育たないのとも軌を一つにしてそうです。個人が寄付するより組織による寄付がベースになるのも、このような個人の社会への責任感が希薄なせいではないでしょうか。国がなんとかすべき、みたいなことも含め。

そんな中、熊本の大地震で、金銭的援助や現地への援助活動をするのは芸能人やスポーツ選手が目立ちますよね。もちろん国会議員で寄付している人もいると思いますが、目立たない。

あ、ここで少し説明すると、国会議員や都道府県、市町村議員は、自分の選挙区を外しさえすれば、相手の自治体や災害支援団体に寄付をすることができます。

ということで、お金持ちな議員さんや元議員さんも大枚をはたいてあげてもよいと思いますが、実際はどうなんでしょう?
で、そこで気になるのは、そういう寄付をして明らかになると、偽善、目立ちたがり、と叩き出す人々の存在でですね。
つまりそういう人々からみれば、ノブレス・オブリージュのようなものは逆に階級差別的で無用なものということになるのかも。。。
政治家がもし大金を寄付したら、それはそれで叩きたい人はいっぱいいそうですよね。この心性も実は相当、あるべき社会的責任を邪魔してることはないのでしょうかね?

それともノブレス・オブリージュのようなものは日本のような社会、さらにいえば、できるだけ格差は大きくない方がよいと思っている社会には不要のものとした方がいいのでしょうか?
でも、そこには自分のプライドというものがなくなる、または経済的に成功したら万歳だけど責任もなにもないってことになりそうですよね。
経済的な部分に頼りすぎて、自分のプライドに伴う倫理や社会的な責任を切り捨てそうな私たちって危ないのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?