見出し画像

ズィーバーという作曲家を知ってますか?(改訂版)

この文章は、
4月5日に開催された
「小池耕平リコーダーリサイタル
イグナツィオ・ズィーバー リコーダーソナタ全曲演奏会」
(初台オペラシティ 近江楽堂)

のプログラムノートのために書かれたものです。

ズィーバーというまだあまり知られてない作曲家の知られてないリコーダーソナタ集の全貌を日本で初めて聞くことができる素晴らしいコンサートでした。

以前、半分ほど無料公開してましたが、コンサートも終わって1ヶ月以上経過しましたので、全文公開します(リンク先やズィーバーの経歴、あと誤記について手も入れました)。
このテキストを書く機会と、内容に適切なアドバイスをしてくださった小池耕平氏に深く感謝します。

ズィーバーという知られざる作曲家について、ズィーバーが触れたであろう当時のイタリア音楽の状況、今回日本で全貌を聞けたリコーダーソナタ集について、そして推論としてズィーバーが当時の音楽界にとても大きな影響を与えた音楽家なのではないか、ということについて書きました。
いささか長めの文章ですが、バロック音楽やイタリア音楽に興味のある人には楽しんでいただけるかと思いますので、ぜひお付き合いください。

▶︎WHO IS SIEBER?

ズィーバーという名前を聞いてピンとくる古楽ファンはどれだけいるでしょう?いや、ファンに限らず、音楽家を含めてもどうでしょう? このほとんど知られていない作曲家は6曲からなるリコーダーソナタ集を残しており、さらに当時の作曲家に大きな影響を残した可能性があるのです。

イグナツィオ・ズィーバー(Ignazio Sieber, 1680-1761)はバロック時代後期にイタリアで活動した作曲家という以外、その生涯について詳しいことはわかっていません。そもそも名前の読み方も「ジーバー」「ズィーバー」と書かれますがそのように呼ばれていたかさえわかりません。イタリアで活動していたこと、さらにイタリアに残る記録ではイタリア風にSiberと記載されることが多いことも考えると「イニャンツィオ・シーベール(シベール)」と呼ばれていた可能性の方が高いかもしれませんが、ここでは従来のゲルマン風な読みの「ズィーバー」で紹介したいと思います。

ヴァルターの1732年の音楽目録には

「ズィーバーはローマの音楽家で、6曲のリコーダーソナタをガリアルドのソナタと共にアムステルダムで出版した」
Johann Gottfried Walther: Musicalisches Lexicon, 1732, p.568

と記されています。
またゲルバーの作曲家列伝目録には

「1725年頃にローマに住んでいたドイツ人の作曲家。6曲のフルートソロ曲を作りアムステルダムで出版した」
Ernst Ludwig Gerber: Historisch-biographisches Lexicon der Tonkuenstler Bd.2, 1792, p.512

と記されています。

また、ヴィヴァルディが音楽監督を務めたことで知られるヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院(以下 ピエタ音楽院)の記録からは、ズィーバーという名前の人物が1713年から1715年にかけてオーボエ教師、1728年から1757年にかけて断続的にバロックフルート教師をしていたことがわかっています。ヴィヴァルディがピエタ音楽院において1703年からヴァイオリン教師、1716年から音楽監督であったことを思えば、ここに記載されているズィーバーがリコーダーソナタの作曲者と同一人物とするなら一時期ヴェネツィアでヴィヴァルディの同僚として働いていたことになります。
この他に、1730年から1750年までドージェ(ヴェネツィア共和国統領)の儀礼用管楽器団のファイフ奏者、1748年から1760年までサン・マルコ大聖堂付属オーケストラの団員でもありました。その意味でヴェネツィアとの繋がりは強かったようです。

後で述べるようにズィーバーのリコーダーソナタにはナポリ楽派的な部分もあれば、住んでいたというローマ、教師と奏者をしていたらしいヴェネツィアと、イタリア各地の要素が見られます。そこでズィーバーのソナタが出版された時期、さらに同一人物とみられる演奏家のズィーバーがヴェネツィアに教師をした時期、さらに伝記資料にローマに住んでいたと記録されていることを考慮して、1710年から1730年までのイタリア各地の音楽事情を簡単にみておきましょう

▶︎イタリアの音楽状況

●ナポリ

ナポリはオペラの発展に大きな役割を果たしました。現在ではナポリ楽派という名称を残し、アレッサンドロ・スカルラッティ(チェンバロ作品で有名なドメニコの父)を先人に多くのオペラ作品で成功作を生み出します。音楽的には華麗であり、転調が多く、ナポリの6度と呼ばれる和音も特徴です。
スカルラッティはナポリとスウェーデンの宮廷において長く楽長を務めますが、音楽自体は特に晩年(1710年)以降はナポリよりローマで好まれ、オペラはローマで多く上演され、人気が高く、当地の音楽に影響を与えることになります。
リコーダー作品では、スカルラッティがなくなるまでナポリ宮廷の副楽長に甘んじることになるフランチェスコ・マンチーニのリコーダーソナタ集(1724年ロンドン出版)がありナポリ楽派としてのメロディーの多彩さ、抒情性、転調による変化の激しさやフレーズのやや過剰な繰り返しを見ることができます。ズィーバーの作品にも転調やフレーズの繰り返しに類似したものを見ることができます。他にこのマンチーニの作品を中心として、フランチェスコ・バルベッラ、ドメニコ・サッロ、ジョヴァンニ・バッティスタ・メーレ、スカルラッティの作品で編まれた24曲からなるリコーダー協奏曲集(編成はリコーダー、2本のヴァイオリンと通奏低音)が知られています。

●ローマ

ローマは器楽においてまさにアルカンジェロ・コレッリの影響が大きかった土地といえます(ローマだけでなくこの時期のイタリア全体、ヨーロッパ全体に影響を与えたといってもよいでしょう)。コレッリは1713年に亡くなりますが、1700年に出版されたヴァイオリンソナタ集と没後1714年に出版された合奏協奏曲集の影響力は大きく、18世紀後半まで何度も再版が繰り返されヨーロッパ全体で売れ続け、様々な作曲家がメロディに装飾を施し記録したものや編曲したものなどが多く残ります。

バロック音楽といえば装飾的な旋律、それも特にイタリアでは華麗なイメージがありますが、コレッリの音楽の特徴はシンプルであることに尽きます。メロディを歌わせる時も、躍動的に動かす時も、そしてそれに寄り添う伴奏もすべてが最低限の音で作られていて、それでいながら美しさと強靭な芯の強さを感じさせます。ヴァイオリン曲であっても音域がそれほど広くなく派手でなく、しかし美しく、だからこそ当時すぐにヴァイオリンソナタはリコーダー用を含め様々な楽器への編曲が出版されました
ズィーバーのソナタのシンプルな旋律やヴァイオリン的な上下に広がりつつ繰り返される音形にはコレッリ風のところが見られます。ただ、この影響は、コレッリの後にヴァイオリニスト、作曲家として成功した(しかし正直、シンプルさは似ててもいささか単純、凡庸な面がある)ジュゼッペ・ヴァレンティーニからの可能性もあります。まさにズィーバーがリコーダーソナタ集をアムステルダムのロジェ出版から出す前後に、ヴァレンティーニのすでに出版されて成功していた器楽作品をロジェは再版しているのです。ズィーバーがヴェネツィア以外にローマとも音楽家として密接であったとするなら、同時代的な影響は受けやすかったかもしれません。

●ヴェネツィア

ヴェネツィアはナポリ楽派のあとを襲うことになるヴェネツィア楽派の地であり、その中心人物が(後世いかに、どの作品も似ていると誹られようとも)アントニオ・ヴィヴァルディであり、この地の音楽がその才能と多作に負っていることは間違いありません。ヴィヴァルディ自身は、ピエタ音楽院のヴァイオリン教師に始まり、後年、音楽監督になる数年前から音楽院のための作曲をすべて請け負うことになります。ズィーバーのリコーダーソナタが出版される頃には、弟子として訪れてきていたピゼンデルのためにヴァイオリン協奏曲やソナタを書いています。
ヴェネツィア楽派の音楽の特徴は今までに述べてきたナポリやローマの音楽のいいとこ取りのようと言ってよいかもしれません。様々に展開するメロディ、躍動的な音型、イタリア的な明るさ、叙情的な歌、すべてを取り込み、たくさんの作品を書き続けた代表がヴィヴァルディといえます。
同地にはベネデット・マルチェッロ、トマゾ・ジョヴァンニ・アルビノーニ、フランチェスコ・マリア・ヴェラチーニと言った人々が同時代に活躍し器楽作品を残しています。前の二者は貴族であり公務を持つ兼業作曲家ですが、マルチェッロは1712年にリコーダーソナタ集作品2をヴェネツィアで出版しており、これは当然ズィーバーの目に触れているでしょう。アルビノーニは1716年にオーボエ協奏曲集を出版しています。ヴェラチーニは1716年に最初の作品集となるヴァイオリンまたはリコーダーと通奏低音のための12のソナタ集を書くことになります。そしてこれらの作品は作曲家、演奏家としてのズィーバーに関わっていることが明らかになります。

▶︎ズィーバーのリコーダーソナタ集

リコーダーソナタの作曲者であるズィーバーが、ピエタ音楽院で教師として活動したズィーバーと同一人物かどうかをここまで曖昧に、同一人物だったとしたら、という仮定のもと話をしてきました。実際に同一人物かどうかは、その作品と出版時期からある程度推測できます。ここでは、ズィーバーのリコーダーソナタがどのような特徴を持っているのかをみてみましょう。

ズィーバーの作品が含まれるリコーダーソナタ集は1716年から1717年にかけてアムステルダムで出版され、前半6曲がヨハン・エルンスト・ガリアルド(Johann Ernst Galliard, 1680-1749)、後半6曲がズィーバーによる計12曲の構成となっています。

正式な表題は

「フルートと通奏低音のための12のソナタ。
前半6曲はガリアルド氏作曲の作品1、後半6曲はローマのズィーバー氏による。
アムステルダム、ジャンヌ・ロジェ出版No.430」

"XII SONATES a une Flute & Basse Continue, Dont les 6 Premieres sont de la Composition de Monsieur GALLIARD, qui font son OPERA PRIMA & les 6 Dernieres de cells de Monsieur Sieber demeurant a Rome. A AMSTERDAM CHEZ JEANNE ROGER No.430"

この当時、ソナタ集は6曲または12曲のセットで出版されることが多かったのですが、2人の作曲家の作品を6曲ずつ合わせて12曲セットとして出版するというのは珍しいといえます。

ズィーバーの6曲のソナタは、いずれも緩急緩急の4楽章形式からなっており、急である第2、第4楽章はすべてアレグロと指定されています。
緩徐楽章は、第1、2番はラルゴだけ、第3、4番ではアダージョが主になり、第5、6番ではアンダンテやカンタービレという第1〜4番にはなかった指示がでてきます。そして第1、2番(その他に例外的に第4番の最終楽章)は速度表示以外にPreludio、Corrente、Ceciliana、Capricio、Sarabande、Allemanda、Gigaと、イタリア語の舞曲名が指示されていることが特徴的です。
このように見ると2曲ずつの3つのセットからできていると考えることができます。

調性でみると、第1、3、5番が調号のないイ短調、ハ長調、ハ長調、第2、4、6番がフラット2つのト短調と調性はかなり限られており、この点でも2曲ずつという見方も可能です。

冒頭の2曲、第1番と第2番のソナタはヴィヴァルディの作品を様々取り入れた作品ではないかと見られています。
第1番イ短調の第1楽章は、ヴィヴァルディの1711年に作品2として出版されたヴァイオリンソナタ集の第3番の第1楽章と同じモチーフからできています。しかし、ヴァイオリン的な音域の広さをリコーダーに合わせるためのオクターブの変化や、細かなモチーフの追加により、原曲と同じであると気付きにくくなっています。最終楽章は弦楽のための協奏曲(RV127)をベースとしていると見られています。

第2番ト短調も、作品2のヴァイオリンソナタ、弦楽のための協奏曲(RV143)、さらにスターバトマーテル(RV621)からの引用を使った作品ではないかと見られています。しかし第1番同様、そのままメロディーを使うのではなく、楽器に合わせて変形がされています。

第5番ハ長調はフランチェスコ・マリア・ヴェラチーニの手稿譜として残る「ヴァイオリンまたはリコーダーと通奏低音のためのソナタ集」(1716)の第5番と同一の内容です。
この作品はズィーバーが原曲なのか、ヴェラチーニの作品をズィーバーが借用したのかの判断は難しいところがあります。
ズィーバーの作品の方がヴェラチーニよりも装飾が細かく、前者では単純な音形のフレーズの繰り返しになっているところが、後者では変化をもたせるようになっていること、さらに第3楽章が3/4拍子から3/2拍子へと音価が倍に伸ばされバスラインが滑らかな形へと変形され、さらに曲全体が伸ばされている点ではヴェラチーニが借用したように見えます。

一方で、ズィーバーの他のソナタではでてこないCantabileという曲想の表現がヴェラチーニのソナタ集ではしばしば見られること、この曲に限ってフォルテとピアノという強弱表現が見られること(これもヴェラチーニのソナタ集ではよく見られる)。ヴェラチーニのソナタ集に見られる特徴(曲の構成やメロディの転調など)が、やはりズィーバーのこの第5番にだけ見られる、という点ではズィーバーが借用したように見えます。

ズィーバーのこのソナタ集が6曲しかないために、似た曲想や楽章の重複が少なく、どちらがどちらを借用したのかを断定するには材料不足気味です

これらの曲を含め、ズィーバーの6曲のソナタ全体を見渡すと、基本的には、ヴィヴァルディ的な部分とコレッリ的な部分がモザイクのように組み合わさっているように感じられます。
冒頭の第1楽章が緩徐楽章として抒情的に始まるところはヴィヴァルディ風、第4番や第6番の第2、第4楽章の急速楽章においてはヴィヴァルディのヴァイオリンソナタに見られるような速い細かな繰り返されるフレーズをうまくリコーダーの音域にはめ込んだ形が見られますが、同様の速いフレーズが続く場合であっても第3番の急速楽章はよりバリエーションがついてシンプルながら多彩なコレッリ風といえますし、第3番の第1楽章はまさにコレッリのヴァイオリンソナタの冒頭を彷彿とさせます。3拍子で書かれた緩徐楽章もとてもコレッリのヴァイオリンソナタの緩徐楽章に似た作風に感じられます。
その他にも、第2番の第2楽章のコレンテでのやや執拗なフレーズの繰り返しや、第4番の第3楽章の転調とナポリの6度の使用、第5番の第2、4楽章で見られるような転調を繰り返していき、どこかへ行くかのように見せてきっちり戻ってくるところにはナポリ楽派的な香りもします。

このように見ていくと、様々な作曲家のメロディと当時のイタリアの音楽のトレンドを取り込み、消化して、一種のアラカルトのようなソナタ集になっていることに気付きます。気に入った旋律は取り込んで自分の演奏する楽器のための曲を作っていった結果がこのソナタ集だったといえそうです。
そして、それが(原曲の存在いかんに関わらず)技術的に高難度で展開されるのが、ズィーバーのソナタ集の特徴であり、リコーダー奏者にとってはチャレンジしがいのあるタフな曲集にもなっている、ということができるでしょう。

技術的な難度と曲としての演奏効果が最大限の効果を上げているかどうかは微妙なところですが、曲作りの器用さはズィーバーが演奏家としても各地に住み、音楽家と交流し、作品にも触れたことによって得た技術だったのではないでしょうか。そのように考えると、作曲家ズィーバーとヴェネツィアの記録に残るオーボエやフルート教師をしていたズィーバーは同じ人物であり、ローマやヴェネツィアを中心に音楽家として活躍していたと見てよいのではないでしょうか


▶︎ズィーバーの影響

ズィーバーの作品には、様々な様式が組み込まれていると同時に、同時代に活躍した作曲家の作品からの借用やメロディの引用があることを述べました。その背景がイタリア各地での音楽家たちとの交流にあったのではないかという点に注目してみると、演奏家としてのズィーバーはヴェネツィアにおいて作曲家により大きな影響を残したのかもしれません

冒頭にも述べたようにズィーバーとヴィヴァルディは1713年から1715年にかけてオーボエ教師とヴァイオリン教師としてピエタ音楽院の同僚でした。ピエタ音楽院に初めてオーボエ教師が赴任したのは1704年ですが、その後は空席のことが多く、ズィーバーの赴任は久しぶりのものだったようです。
ヴィヴァルディが初めてのオーボエ協奏曲2曲が含まれた作品7を出版したのが1716年だったことを考えると、この作品の作曲のきっかけ、さらに技術的な相談やソリストとしてズィーバーが関わった可能性はないでしょうか。ほぼ同時期にアルビノーニのオーボエを独奏楽器に含む協奏曲集作品7が書かれていることも何か関係があったのではないでしょうか。ヴィヴァルディは1716年から1717年にかけてヴァイオリニストのピゼンデルが弟子となるためヴェネツィアに来た時に、ピゼンデルのために多くの作品を残しています。この行動からいっても、ヴィヴァルディがオーボエのための作品を初めて書いたというのはズィーバーが教師としてヴェネツィアに来たおかげと考えてもよさそうです。

オーボエ作品だけでなく、ヴェネツィアにおけるバロックフルート作品のお披露目という点でも、同様のつながりを見つけることができます
ヴェネツィアにおいて最初のバロックフルートを使った曲とされているのは、アルビノーニが1724年に作曲したセレナータ「Il nome glorious in terra, dentifrice to in cielo」の中のアリアのオブリガードパートと言われています。次いでヴィヴァルディは1726年にオペラ「狂えるオルランド」でヴェネツィアで発表した作品としては初めてバロックフルートを使い、1728年には「海の嵐」「夜」「ごしきひわ」などを含む有名なフルート協奏曲集作品10を出版します。この年はピエタ音楽院に初めてのバロックフルート教師ととしてズィーバーが戻ってきた年なのです。

そもそも、この協奏曲集の中の幾つかの作品はリコーダーやバロックフルートなどをソリストとした室内協奏曲が原曲として存在します。それらを元にバロックフルート用に加筆編曲したものなどを6曲集めて出版したのが作品10のフルート協奏曲集です。室内協奏曲版は1710年台後半に書かれたと思われ、ヴィヴァルディとズィーバーが最初にヴェネツィアで同僚として働いた時期を考えると、まだイタリアでは人気のなかったバロックフルートを室内協奏曲に使うというアイディアが生まれたのはバロックフルートも演奏したズィーバーをヴィヴァルディが知ったためと考えることはできないでしょうか?まだヴィヴァルディにとっても馴染みの薄い楽器へのチャレンジを促した結果が室内協奏曲だったのではないでしょうか?

それから10年近くが過ぎ、バロックフルート人気がイタリアにも波及し、曲の需要が増した時、ヴェネツィアにズィーバーという奏者が戻ってきたこと、そこでロジェ出版において楽譜出版を契約する時に、バロックフルートを堂々たるソロ楽器とした協奏曲集を編むというアイディアがヴィヴァルディに起きたとしても不思議ではないのではないでしょうか?
さらに想像を逞しくするなら、フランスからイタリア北部へとバロックフルートの人気が伝わる中、ヴェネツィアにその奏法、技術を持ち込むために呼ばれたのがズィーバーだったと考えるのは無理でしょうか。
そして、この協力関係は他の1730年頃に書かれたと思われるフルート協奏曲(RV.431やRV.440など)の作曲にもつながったのではないでしょうか。

ズィーバーという作曲家の作品はリコーダーソナタ集の他、わずかな作品しか現存しておらず、当時どれほど活躍し有名であったかは、残った記録を見る限りあまりパッとしないものだったようにみえます。多様な様式とメロディを取り込んだリコーダーソナタ集を見る限り作曲家はややオリジナリティが足らないような、という面は見せていても、上で述べたような歴史的事実からの推測が真実なら、奏者としては、ヴェネツィアにおけるオーボエやフルートの使用に大きな役割を果たし、協奏曲の創作に大きな影響を残し、名曲が作られる契機となったすばらしく重要な人物だったのではないでしょうか。

なんてズィーバーってすごいんでしょう!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?