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人文系不要論やら人文書不況についてつらつら考えた。。。

出版不況や人文書不況、さらに人文科学が大学からいらないみたいな言われ方をするのにはこういう可能性ってないのかしら。

1960年代くらいまで哲学講座でも10万部売れたものが90年代には同様の書籍は5千部しか売れなくなったという話があるが、大きな理由としては書籍に限らず消費方向が多様化したことがあるだろう。で、もう一つ仮説をあげてみたいのだが、60〜80年代頃の雑誌って今に比べてすごく若者向けでも尖ってたようなきがする(もちろん、これは昔は良かった的な錯覚かもしれない)。
たとえば、朝日ジャーナルや宝島にせよ、さらに女性誌側のマリークレールや流行通信にせよ、執筆者にいろんな人々を迎えてハイソな時期があったのは、それだけ若者がそういうことへ関心を持つ渇望感からそして経済的に豊かになるにつれて余裕もできたからと感じる。

思うに当時は大学生は大学へ行くこと以外に、サボるのも自由、それを文化的な情報をえることや単に友人と駄弁ることも消費してた、というか(わたしはほとんどそれにしか消費してなかったのだがw)。

単にモラトリアムな度合いが高い時代だったといえばいいのかな。それだけ社会や仕事の実力はついてないけど頭でっかちで奇妙に世の中がわかったような錯覚をしてしまう時期をけっこうな割合の学生、男女問わずが持っていたし、バブル期になるとそこそこお金もバイトや仕送りやなんやかやで懐も暖かで勘違いできたというのもあった。そういう時期を経過してから就職などして実社会に入って現実を知り適応していくというプロセスがあったように思う。こういう頭でっかち期を持てたことが学術的、教養的コンテンツの消費ボリュームとなりその後も消費者として継続したのではなかろうか。いまでもその世代はそういう書籍に思わず惹きつけられるみたいなね。

それが90年代のバブル以降は、学生は真面目になり、経済的にも豊かさが減って授業とバイトに時間を費やす傾向が強くなり、サボってモラトリアムに生きる度合いが減ったことが、多様な文化的消費を抑え、頭でっかちになることもなく、妙に従順で(一方で大学生が高校4年生とか中学7年生とか幼稚さを揶揄される面もあり)そのまま実社会に出て行く(まぁ企業にはそれがつごうよいかもしれないが)形になったゆえに人文書などの読者は育成されなくなったのではないかな、、、現在は頭でっかちな人々は、オタクであり、ニートであり、もしくは大学にずるずる残るという形でモラトリアムな時期を作った人々という少数派、さらに分野は以前に比べ細かく多様化してるから、消費としては盛り上がらない、売れないなのではないかしら。
そして今はモラトリアムな時期を過ごさない、豊かさも知らないで社会に出るので社畜になるのではないか?(それ以前から24時間闘えますか?だったけど、そのモーレツさは豊かさも頭でっかちも経験した上でのことで、それによって得た何かをバックボーンにしてたことがと最近の社畜とは大きく違うのではないか。社会を解釈、消化する幅の広さにおいて)

一方で、少子化は進み、私立大学を中心に学生を集めて企業としてやっていかないと大学もいけなくなって、企業が即戦力を求めるのと相まって就職予備校化して、ますます人文科学を専門にすること、学ぶことの意味を大学自体示せないからいらない子扱いされるようになる。一定の専門家を作るには、ピラミッドがある程度できあがるボリュームがないとダメなはずなんだけど、その専門家にならない人々の扱いがよくわからなくなってるというか、専門家になんないならさっさと会社員になれる人にしなさいよプレッシャーでわけわからなくしてる。就職するだけなのにそんな学問がいるのか、と転倒させてかんがえてしまう人々にまともに対応できてないし。学生や教師側も大体は専門家や学者にはならないよね、というスタンスが当たり前になると、講義の質も低落していくだろうし、ますますいらないものに思われそう。

つまりはこれは良し悪しではなく、頭でっかちな時期を作るタイミングを失ったせいで、もしかしたらあと数年大学生のような時期を延ばせば実はよいのか(そんな単純なことではないかw

このような頭でっかちでモラトリアムな人を形成する時期や余裕の喪失が昨今の人文科学が大学で不要説みたいなものにつながってるように思える。文系学部のそれぞれの学科だってそんなに専門家が必要なわけではないし、それに比してきっと学生は多いわけだ。で、それを就職するだけなのにそんな学問がいるのか、と転倒させてかんがえてしまうのが今の不要説の根底にあるのではないか。

最近、特に私学文系中心にして有名人を特任教授や非常勤講師のように呼んで、なんか学生が集まりやすそうな科目で講義したりするけど、それが問題を加速させてるんでないかとも思う。よくそういうのが誰々のどこそこ大学での講義を書籍化、みたいな本になってるのを読むと、たしかにこんなのだと学問的漫談みたいなもんで、そりゃ大学でやることぢゃないんぢゃない、といいたくなる代物のように感じる(これはとても旧態依然な保守的な大学観に私が犯されてるだけかもしれないけど)。専門的正確さが欠けてるし、だらだらした面白げな漫談に過ぎないし、学生からの優れたフィードバックが求められそうにもないと思ってしまうのだ。大学は学問の府として学生を育てるのを放棄して学生集めに走った結果、文系学部はいらないっていわれてるんじゃないの、と言いたい。追い詰めているのは政府でも文科省でも役人でもなく、大学がそういうていたらくになったからの応報でないのか。。。

学者側もきっとお寒い状況なんじゃないかと思う。昨今の若手社会学者や評論家でテレビで発言する人はこのネット的即応性は高い分、読みが深くないという問題を抱えてないだろうか。それが質の高い文章を書けず本もできず、売れない側を加速させてそう。もちろん将棋や囲碁でも早指しが得意な棋士がいるように、そういう人がマスメディアやネットでは重宝されてるんだろうけど、その人たちが持ち時間が長い勝負にも強いとは限らない。そのような読みが浅い意見が多く見られるようになると、もっと広い範囲の論文を含むものも質が落ちていくような気がする。ちゃんととことんまで考えて物を書く時間がないと同時に、できなくなるというか。

出版不況というけれど、その原因にはこの時間をかけて質を高めたコンテンツ自体を出版側が作り出せないためで、単にコストやスピードでネットに勝てないからだけではないように思える。ネットで出すのと同じくらいの質のものしか書き手が用意できないんじゃ、そりゃ別に本でなくてもよいものね。新書ブームでのひたすら同じネタ再生産で回転率でなんとかするなんてその最たるものだろう。もちろんそれだけの時間をかけた分を支える経済基盤を出版界や会社が持たないってことなんだろうけど、それ以前にそれに応えられる質のコンテンツを書ける人自体が減ってる(論文を書けるという意味でなくて、大衆に向けた視点と文体も合わせもってないとだめよ)ってことではないかしらね。

もう、学生側は余裕がないし、大学は人材育成ができにくいし、学者は底が浅くなるし、出版は質の高いものを提供する時間もコストも執筆者もいないし。ほんと、人文系はみんなに見捨てられちゃいそう。。。市井でお金にもならず細々研究する人の心意気で繋ぐ世界になっちゃうのかしらね。。。。
(了)

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