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初体験があるということは。。。 ちょっと人生論っぽい話かも??

「初体験」っていう単語から、連想されるのって、やっぱり、うれしはずかし初体験!って感じなんでしょうかね?(言い方がすでに古い。。。)

というか、「初体験」という単語をセクシャルな意味や性的体験に限定して使う用法ができたのっていつからなんでしょう?
けっこう昔からあったんでしょうか?
やはり、映画やテレビ、小説あたりが発祥なのかな?

今回の話とは関係ありませんが、もし発祥をご存知の方がいたら教えてください。

▶︎初体験っていうと?

で、初体験にだっていろいろありますよね、当然のことながら。
極端なことをいえば、一番最初の記憶ってのも、一種の初体験のはず。
もちろん、初めてどこへ行った、何をした、食べた、もう、人生の初期は当然、初体験だらけのはず。
初めて誰々と会ったとかだってそうだし、最初に戻ってしまいますが、それこそ性的体験だってそうだろうし、他人と一緒に暮らすとか、初めてペットを飼うとか、まぁいろいろあるでしょうよ。。。

そういえば、人間が年を取ると段々時間の経つのが早く感じる理由の一つは、新たに経験することが少なくなり、すでに経験したことの割合が増えるにつれて、それが時間の経過を早く感じさせるのだという説がありますね。
だから、時間を長く充実して感じるには、常に新たなチャンレジ、体験をするようにしましょう!とポジティブな話につなげるわけですがw

▶︎初体験があるってことは、その逆もあるんじゃない?

で、今回は「初体験」の話ではなく、普段、みんながあまり考えてなさそうな、その逆の事柄についてです。

たとえば、プロスポーツ選手、そうですね、プロ野球選手を考えてみましょう。

プロとしての初試合、初打席などが当然あります。その一方で、プロとして参加した最後の試合、最後の打席、最後の守備機会とか、そういったものもあるはずです。

その選手が有名選手であれば、引退を決めたシーズンがあって、出場するのが最後の試合というのがわかっていて、その最後が事前にわかっていることがあります。でも、多くの選手は、その「最後」がその時にはわかってないことも多いのではないでしょうか。
成績が悪くなって出場機会が減って、結局そのシーズンで引退を決めたとか、やめるつもりなかったのに契約してもらえなかったとか、もっというなら、今日は元気に試合にでてたのに、その後の練習中に大怪我をしてその後試合に出ることがなかったとか。。。

こう考えると、その人にとって最後の体験だった、ということは後になってわかるのです。そしてそれがわかった後、その人は、その「最後」をどのように振り返るのでしょう。単にノスタルジックに振り返るのか、もっとなんとかできたんじゃないかなといった、後悔や感想をもって振り返るのか。

そういう体験をみなさんはすでにしてますかねぇ。。。

で、プロスポーツ選手といった例だと、その職業から引退したら、すでに選手だった時にする体験は「最後の体験だった」と明確に認識できますが、私たちのような一般人の日常体験においてもそのような「最後の体験」はいっぱいあるはずなのです。

▶︎私たちにとっての「最後の体験」

私は男性なので決してわからないことなのですが、女性の場合は、初潮から閉経に至るプロセスというのは、ある意味、上のスポーツ選手的に明確に初体験と最後の体験がわかるできごとといえるかもしれません。いつ閉経が来るか自体はその時、明確でなくとも少しすればわかることですよね。
女性たちはその体験をどのようにそれを振り返るのでしょう?

で、実際のところ、私たちの人生にも知らず知らず「最後の体験」もいっぱいしているはずなのです。それも無意識だし、気づかないし、振り返りもしない形で。

たとえば、大ファンのミュージシャンがいて、その人の曲、特にその中の好きな曲を何百回と聞いていたとしても、いつしか聞かなくなっていて、実は「最後に聞いた」時がとっくに来てることがあります。あんなに好きだったのに、いつ最後に聞いたかも覚えてない、とか不思議だし、考えてみるとちょっと虚しかったり?
たくさんCDとか音楽ファイルを持っていたとして(まぁ、もしかしたら聞いてないのもあるかもしれないけど)、その中で好きだと思っていた曲だって、実は最後に聞いた時がすでに来てるものは山ほどあるかもしれませんよ。。。ちょっと怖いかも。

でも、本当に怖いのは、極端なことをいえば、死ぬ時まで本当にそれが最後だったかは確定しないことなのです!

最後にステーキを食べたのはいつか。

最後に映画を見に行ったのはいつか。

最後にセックスをしたのいつか。

最後に人を好きになったのはいつか。

え、実はあの時が最後だったの?!ってことがすでに皆さんにもいっぱいあるのかもしれないんですよ!

特に、このまま、まだ長生きしたならまだしも、明日突然、事故で亡くなったり、病気をして体がままならなくなったりすればなおさらね。

▶︎本当に「最後の体験」にしちゃっていいの?

いろいろな事柄を振り返ってみてください(どんな些細なことでも、日常的に思われる事柄でもいいです)。
そして、その体験がそれ以降ないってことに愕然としたり、残念に思ったり、することはないでしょうか?そして、それは本当にすでに「最後」の事柄でしょうか?

「最後」にしていい事柄でしょうか?

といったことを、ちょっと考えてみるのもよいかもしれません。

よく人が亡くなった時に、その友人、知り合いと思しき人が、
「何年も会ってなくて、近くまた会いたいとおもっていたのに、、、」
みたいな言葉を記すのをみると、それが追悼のためのレトリックであるにせよ、ひねくれものの私は、「そんなら、さっさと会っておけよ」と思ったりします。

まぁ、「最後の体験」というのはそうやって「最後」になってしまうわけですし、無駄に「最後」のチャンスを失ってることもあるわけです。

この延長線上で思うのは、人生がいやになって死にたいと思っている人も、まだあれを体験してないとか、えっ、あれが最後になっちゃうの!ってことを思い起こすことが、少しは抑止力にならないんかねぇ、ということも。(そんなことを振り返る余裕があるのか、という基本的問題はありますが)

ということで、ここで最後の命題がやってきます。

人が死ぬ時に、その人は過去のすべての体験が「最後の体験」であったことがわかるわけですが、そんな中で、一度しか体験しえないことであり、「初体験」=「最後の体験」、いや、それさえわからない、体験したかどうかさえ不明なこと、昔は仏教から、さらにはウィトゲンシュタインまでが述べているのが、「自分の死」なのですよね。

ちょっとは、人生論っぽかったかな?www

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