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映像によるイメージ操作を考える(清原氏の初公判報道をみて)

イメージ映像、再現ドラマ、CG再現の欺瞞

数日前に、役割語の話から、それを音声に広げて考えてみたとき、海外ロケの吹替えには差別感があるのではないか、他にも内容の正確さ、受け取る側の言語感を錯覚させてるのではないかなど、音声によるイメージ操作の可能性を書きました。

今回は、ふとテレビをみていて、清原元選手の麻薬事件の初公判についてのニュース報道を見ていて、視覚を使ってイメージってのもけっこう左右されそうなことが平気で行われてるよね、と思ったのでそれについて。

▶︎清原元選手の麻薬事件の初公判報道

昨日はなんだか朝からこの事件の初公判について、ニュースも情報番組もいっぱいだったみたいですね。初公判の様子もリアルタイムで記者がリレーで走りまくって報道し、公判終わったあともニュースはトップニュース扱い。いかにこの事件が世間の関心事、またはメディアが注目して報道したがっていたかがわかります。まぁ、私としては、そこまで重要事件とは全く思いませんが。

さて、この事件が重要かどうかではなく気になったことがあります。

そういえば、法廷って写真撮影が許されないので、法廷画家が描いた絵がニュースに使われてましたが、最近、それ以外に3DCGで法廷の様子を再現し、被告もCGで動き、そこに記者が取材してきた様子や発言にあわせて吹替えがついた再現ドラマ風のものが使われることがあります

昨日の清原元選手の初公判でも、再現された法廷内で、清原元選手らしき3Dキャラクターが頭を振ったり、首をうなだれたりするフリをつけられ、そこに深刻そうな声で傍聴席で取材してきたのであろう発言を声優があててましたが、これって表現方法として優れているといえるのでしょうかね?

声優が泣きそうな声とか演技しているのを聞くと、過剰演技ではないのかとか、単に視聴者のイメージを固定させる要素が強くてまずいんじゃないかと思ってしまうのですが。

この点では、以前に述べた、外国人の一般人へのインタビューに対する吹替えで、おばあさんには過剰におばあさんっぽい声、田舎の土地だと田舎者っぽいなまり方、辺鄙な土地だとたどたどしい日本語を振り付けるのと同様のことが行われているように思うのです。
テレビ局の人たちはこのような劇的演出をリアリティでわかりやすいと言うのでしょうか?

▶︎最近、再現ドラマが多すぎません?

そういえば、最近、バラエティ番組などで「再現ドラマ」が多いと思いません?いつ頃からこのような風潮というか流行が始まったのか定かではありませんが。

一説では、最初は無名の俳優やアルバイトの人が再現ドラマをやっていて、そこで目立った人が段々メジャーになるというパターンがあったのが、最近では地味な俳優や落ち目だった俳優が使われて、そこから有名俳優になるとか、有名俳優が意外なところで出てきてサプライズになる、といった様々な形があるようです。

俳優さんたちにとっては、ステッピングボードやカムバックの場になるし、テレビになんであれ出るチャンスが増えるという点ではよいことかもしれません。さらにテレビというメディアは当然視覚媒体です、その意味でも、視覚的にアピールするコンテンツを作る、増やすというのは当然の行為でしょう。

でもそうであっても、再現ドラマという手法は、すごく価値観を固定させてしまうデメリットを気にしてしまうのですが、みなさんはあんまり気にしてないんでしょうかね。
美談っぽい話、ハプニングから、果ては先に述べたような裁判の様子まで、再現ドラマから動くCGまで、私たちは視覚に支配されて、評価を一方向に寄せられるリスクはないんでしょうか?

反論としては、それは文字や聴覚レベルであってもそうなんじゃないの?ってことになりそうですが、私は視覚が加わることで、操作しやすく、偏りやすくなるのが怖いのです。

あのタレントはああいうことをしていい人や!というのはまぁ、タレントのイメージ向上戦略としてありかもしれませんが、事件事故絡みで客観的な判断がなされるはずのもので、視覚的にある程度劇的に演出されてしまうと世論のイメージが動かせそうでちょっとやだなぁと思うのですが。

思いませんか?


▶︎考える力を抑え込む視覚化

テレビの話からも離れてこの点を考えてみると、けっこう世間の様々なコンテンツは、メリット、デメリットはありながら、このような視覚による情報把握に頼っていることがわかります。

たとえば、プレゼンテーションってのは、視覚的ですよね。あと、本なんかで「マンガでわかる」とか、「チャート式」みたいなものに至るまで、いっぱいあります。

こういうのは、すべて図解によってわかりやすくしてる、ということになりますが、それってほんとでしょうか?
わかった気にしやすいのが図解や視覚化なのじゃないか、とは言えないでしょうか。

抽象的な話はわからないから具体的に、という人も結構います。図解は具体化の一手段ですよね。具体化というのは、ある意味、一般的なことをある例に集約することでわかりやすくなったように見える、という一種の錯覚のトリックで、全体を見渡す、または、より汎用性、より広がった世界を考えるには不向きなんですよ。

具体性や図解というのは、ごく一部、ごく中心だけに触れたい人のための方法論であって、あくまでも表面を撫でる程度の効果しか期待してはいけないのです。それで、わかったつもりになる、ってのは大きな勘違い。

これを最初の話にもっていけば、再現ドラマなどの視覚化はわかりやすく感じさせる分、ごく表面的なものだけすくいとって満足させる、視野を狭める、より広い部分まで考えなくなる、みんな同じ価値観や評価へ操作しやすい、といった大量のデメリットの上に成り立っているのです。
まぁ、テレビなんてそんなもの(だからこそ、ますます浅薄なコンテンツになっているともいえるでしょう)、という解釈もできますが、そういうコンテンツばかりに囲まれていれば私たちはそのような浅薄な世界で十分という、思考できない人々になっちゃわないかしら? なっちゃいつつあるんじゃないの? だからこそ、もう自分の気に入った話や、考えに沿ったものばかり見たがる視野狭窄に陥ってるんじゃないの?
ということを、清原元選手の初公判から思っちゃったのでした。。。

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