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在野研究者へのエールの書 「これからのエリック・ホッファーのために」を読んで

私の家系は、そこそこアカデミズムな家系でした。なので、小さい頃から家の中には学術書が山と転がってましたし、親は学者だったので、学者の生活を目の前で見ていました。
周りにもアカデミズム系の人が多かったので、自分もそのうちそういうものになるんかなぁ、と思って育っていたのですが、いかんせんこの性格と能力のなささ加減が半端なく、結局は自分はアカデミズムの人にはなれませんでした。
それでも、中にいないけど、たくさんアカデミズム系の人の話であるとか実像であるとかは見聞きしてきてしまったので、内情を知りつつ外からはどう見えるかというのも計れるような立ち位置にもいられるような気に勝手になってます。

今回紹介する「これからのエリック・ホッファーのために 在野研究者の生と心得」は、過去の様々な分野の日本の在野研究者の小伝を描きつつ、今現在、在野研究者として生きるとはどういうことか、そして何を心得とすべきかを提示して、在野研究者にエールを送る本といってよいでしょう。

この本を読んでみて、私自身も、今、在野研究者として生きるってどんなことなのかな?と考えたことを少し書いてみます。

▶︎様々な在野研究者たちの群像

この本では、著者が物故者の中から、近代の大学、高等教育機関に属さずに論文を発表し業績を残した人々を様々な分野から16名選んでいます。
南方熊楠、谷川健一、相沢忠洋、高群逸枝、小室直樹、小阪修平などこうやって並べてみてもバラエティに富みつつなかなかな人選といえると同時に、こうやってとりあげられてこそ、そういえば在野研究者だったんだな、といまさら気付かされます。ただ、物故者を選んでいるために、私達に近い世代だなと感じられるのは、小阪修平氏くらいで、あとリアルな活動でギリギリ小室直樹氏、、、あとは、今のアカデミズムや在野研究と比較したり、生活を語るには少しの古い人々なのがちょっと残念です。

個人的には、大好きな文筆家にして評伝の天才であった森銑三氏が取り上がられているのがうれしい。
この中で、森氏が編纂所時代に、同僚から知的満足を得られなかったという話とともに、日常生活で学問の話をすると引かれる、と著者自身も書いているけれど、そうなのかなぁ?
自分の身の回りの経験からいえば、自分の親なんて常に学問や知識の話しかしてなかったし(たしかに、大学時代に友人が実家に遊びにきたとき、私と親の会話を聞いて、あとから「普段から親とあんなことばかり話してるの?」と尋ねられたことはあるが)、まさに学問にはまっている人々はそっちが普通だと思うんだけどなぁ。。。(そういった面を面白おかしく描いたのがたとえば山下友美氏の漫画「天才柳沢教授の生活」あたりか、でもリアルにあんなもんだと思う)
そういえば小谷野敦氏の近著「江藤淳と大江健三郎」に江藤淳氏があれほど若く評価され持ち上げられておらず、もっと森銑三氏のようにマイナーな人物の評伝を腰を据えて書いていれば、といった記述を思い出したりもした。。。

あと、この本で取り上げられた16名の中で自分が一番惹かれたのは、全く知らなかった哲学者野村隈畔。あくまでも普通に働くことを拒否し続け、ゴロゴロし続け(でも10冊以上本は出してるのね)、最後は献身的に支えた妻をよそに、心中死してしまうとは、、、なかなか勝手さ加減もすばらしい!(そしてこの本の中でもっとも紙幅が割かれてもいる)

でも正直なところ、ここで取り上げられた16名のユニークさを見ると、そもそもアカデミズムな世界には適用しづらい人々なんじゃない?というのが正直
感想。なるべくして在野研究者になったというか。もちろん、アカデミズムの世界側もすっごく俗っぽい面もありつつ、奇人変人もいっぱいいますが。

▶︎今、在野研究者って?

先にも述べたように、この本で取り上げられている在野研究者たちは、物故者です。それも16名中10名は生誕100年以上経過している人です。自ずからその人たちが在野研究者として生活した時と今とでは研究者として過ごす環境も生活の糧を得る方策も大きく違うはずです。
その点ではこの本はこういう人たちがいたという以上ではなく、著者が40個取り上げる「在野研究者の心得」も、どちらかというと今の研究者へのエールとしての心得を先人たちの生き様から導き出したというよりは、適用できる心得を逆に当てはめたような面も否めません。

そういう部分から見て、じゃあ、今の在野研究者は、というところにもっと考えを広げらるのは読者の責任ってことなのでしょうか。

この本の中にも学歴がない研究者もとりあげられています。でも昔は結構そういう人はいますよね。人類学の鳥居龍蔵氏や植物学の牧野富太郎氏も小学校しか卒業していないし
たしかに日本は学歴がないと学問的な仕事につけないし、一度ドロップアウトすると大変なのはたしかですが、一方で今は通信制も放送大学も大学検定もあるといえばあります。
そして、アカデミズムのポジションにつけないとはいいつつ、昨今は少しメディアで有名になれば、私立大学が有名人を教授陣に並べることで学生集めするために、けっこう教授のポストが用意されたりもするわけで、この点も昔とは大きく違うといえそうです。

さらに論文発表という面でも、インターネット上に専門媒体が増えて発表できる機会は増えています。特に文系の場合、雑誌への発表でも「論文」という言い方をする人がけっこういるために、じゃあ、どこからが論文やねん!と突っ込みたくなる状況ともいえなくないですしね(でもいざとなると「××」に発表してないとダメ、とか言い出すけども)。
研究のために文献を探して読むという点でもインターネットのおかげで格段に楽になり、インターネットと図書館を併用すれば、研究者に負けないくらいの文献にアクセスすることも不可能ではありません(語学ができればなおさら)

こうやってみてくると、もちろん大変でしょうし、成功することも大成することもチャンスは小さいとはいえ、この本で描かれた人々よりも、今は、やる気さえあれば、在野研究者として生きることは困難ではないようにみえます。
あとは、自分が在野研究者として生きる支えを得るための人脈やネットワーキングを持つことくらいでしょうか。

▶︎今を生きる様々な在野研究者

と、在野研究者でもない私が偉そうに、楽観的な現在の在野研究者観を描きましたが、実際どうなのでしょうね。

この本の中でも名前はあげられている科学史家の山本義隆氏なんて代表的な現代の在野研究者といえるでしょうね。
私の大好きなというか、最も尊敬する文筆家である林達夫氏だって、たしかに大学に奉職していたとはいえ、限りになく在野研究者に近いような気もします。

そういえば、この本には理系の学者は動植物学以外出てこないんですよね。たしかに、実験しなければならない分野は在野で研究するのは困難だと思うのですが、数学や物理はまだ不可能ではないと思えます。

たとえば、アインシュタインだって特許局につとめながら、あの奇跡の3論文を書いたわけですし。現代なら、まさにポアンカレ予想を解決した数学者ペレルマンが在野研究者の代表といえるかもしれません。インターネット上に論文発表可能な場ができた今は、理論的学問は在野研究者の余地があるといえそうです。

もっと視野を広めると、芸術分野の人々なんて多くは在野研究者みたいなものですよね。この本でもその点に目を配って小説家は除くとしていますが、音楽、絵画など芸術作品を発表する人の多くは、それでご飯は食べられないし、アカデミズムのポジションはないし、でも優れた作品を発表して認められている人はいっぱいいるわけです。ミニマルミュージックの創始者の1人、フィリップ・グラスはメトロポリタン劇場で自作のオペラが上演されている時に、その横でイエローキャブの運転手をしてたわけですし。
なぜ、在野研究者を考える際に、学問と芸術分野とは違うという区別したくなるのか、というのも考えてみると面白いかもしれません。
哲学あたりも在野でも問題なさそうに思えますね。というか、学問の営み自体が本人が大学に所属するかとは別に在野的な精神のもとにあるというか。

このように見てくると、世の中には思ったより在野研究者(っぽい)ものに満ちているような気分もするのですがどうでしょう?そういう楽観的な気分を持つことが少しでも在野研究者の気を楽にしたり、生きやすくしたりはしないかしら?そしてますますそういう人々が活躍でき、生きていけそうな気もするのですが(もちろん、専門家側が細って、そういう形でしかいけなくなるという可能性もありますが)。

こういうこというと、あまりに楽観的過ぎるといわれるでしょうか。学問の世界をわかってないと怒られるでしょうか?

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