見出し画像

作詞は作曲より簡単だろうか?

しばしば聞くことですが、アイドルや歌手が新曲をリリースするときに、今回は初めて作詞にも挑戦してみました、ってのがある。
素朴な疑問として、こういう時、作詞に挑戦する人はいるのに、作曲に挑戦しました、って人をとんと見かけないのはなぜだろう?

作詞の方が、作曲よりも簡単って思われているのだろうか?
そして、それは本当なのだろうか??

▶︎まずは中学校時代の体験から

私は下手くそながら作曲したことはあるけれど、詩を作ったことはない。
そういえば、たしか中学1年の頃、音楽の授業で歌を作りなさい、という課題が出たことがある。
詩は作っても、既存のものでもOKで、とにかくそれにメロディを作って発表する、というものだった(はず)。
で、私はなんとその時にもすでに変拍子の曲を書くという馬鹿者な所業をしたのだが、詩は書かずに既存のものを使った。テキストはなんと山上憶良の長歌と反歌で合わせて18小節くらいのもので、教師を困らせ顏にしたのはたしかである。。。(さらにいえば、その次は、12音だった(ピエロ・リュネールが好きになったころだw))

まぁ、それはおいといて、その時、クラスの他の人もいろいろ発表したわけだが、たしかにそれはどこかで聞いたようなのに似たものであったり、何か破綻をきてして収拾がつかないものとかもあったりするにせよ、作れるわけである。
そう考えると別にメロディを作るレベルが、作詞よりも難しいってことはないだろうと思うのだが、どうだろう?

▶︎社会人以降の嫌な経験から

もう1つは、音楽とは無関係の経験だけれど、日本語や言葉に関連して経験したこと。そもそも仕事で嫌な思いってあまりしない性質なんだけれど、これはある意味その数少ない経験。

私はあるソフトウェアベンダーでマニュアルやらドキュメントを担当していて、外注も使ってたし、自分もテキストを大量に書いていた頃のこと。
できたマニュアルの初稿を、エンジニアにも回して読んでもらうわけですが、そんな中で若いすごくプログラマとしては優秀なスタッフがそれに時間を割くのを嫌がってた。そして、いつも言うのが、「日本人なんだから日本語でマニュアルを書けるの当たり前でしょ?!」なのだった。

そんなら貴様がマニュアルも書けよ!とか内心思っちゃうわけですが、このような日本人なら日本語が書けるのは当たり前でしょ、そしてプログラミングは違うのよ、的な優越感や差別感ってのが、実は、作曲と作詞の関係性にもあるのかも、内心、みんなそう思っちゃってる、そして作曲家は特にそう思ってるのかな、と思うのです。
そしてそれは本当だろうか??

▶︎で、ほんとのところ作詞って簡単?

正直、私は作詞なんて簡単にできるとおもえないし、自分がもし歌のついた曲を作ると仮定して自分で作詞しようなんて全く考えられない。

シンガーソングライターの人たちはどうなんでしょうね?
歌詞先、メロディ先いろいろあるでしょうし、きっと得意不得意があるのが普通ではないんでしょうかね?
そう考えても、なんで、作詞には挑戦できて、作曲には挑戦できないのか不思議でならんのですよw
きっと、その歌手がチャレンジする作詞だって、いろんな人がチェックしたり添削したり、場合によっては補作までしちゃうのかもしれないと考えれば、メロディを考えて、それを添削したり、補作したり、コードを付けたりしてくれる人もきっといるだろうし、手間がそれで大きく違うのかとか思うと、同じじゃないのかって思うのですが。

実は、作曲家とかが、そんなのはできるはずがない感をその業界に撒き散らしていて、作曲はさせないのだろうか(そりゃないか)

▶︎じゃあ、作曲はそんなに難しい?

たしかに作曲はメロディーだけでなくハーモニーとか理論とか難しそう、、、って思いますよね。だからできないと思われるんでしょうか?
でも、ミュージシャンでも楽譜を読めない人はいっぱいいるし、サザンオールスターズの桑田佳祐氏は昔から楽譜は書けないし読めないと言ってたし。でも曲は作りますよね。

正直な話、メロディだけ聞き取って書いてもらって、あとはアレンジしてなんて人はいっぱいいるでしょうし、それで作曲を名乗っている人もいっぱいいるでしょう。さらに、今なら機械が鼻歌でも採譜してくれちゃうし、下手したら簡単なコード付けだってしてくれる。
そこまで技術が進んでいるのに、どうして作曲にチャレンジしました、って人が出てこないのか逆に不思議なくらいではないでしょうか?
何か、ほんとに言い伝えのように作曲には手を出すんじゃねぇ!ってあるのかって思ってしまうほどです。。。

▶︎何が作詞は楽そうに思わせるんだろう?

もし、作詞ならできるかも、と思わせているものがあるとするなら、それだけ今流れているヒット曲の歌詞は安易で作れそうに見えてるってことでしょうね。実際はそうじゃない(はず)なのに

おそらく大きな問題は、作曲もそうでしょうが、良いものにする&売れるものにするための苦労と、安易に作れそうに見える部分が区別がつかないというか。
極端なことをいえば、阿久悠氏の詩のようなものを書けるかって考えたら、きっと誰も作詞にチャレンジなんて思わないはず。いや、秋元康氏のでもそうだと思う。
きっと西野カナとか聴いてると作れそうに思えちゃうのかも。でも、私は個人的には西野カナの曲も詩も好きではないけど、でもちゃんと売れるために書いてるから安易なんじゃないと思うのよね。
そこらへんで、きっと錯覚させられちゃうのかもしれない。

突然、変なことを思い出したけれど、昔、浅田次郎氏が小説家としてデビューして売れまくったころ、西原理恵子氏が、あんな小説なら自分も書けるかも、とたくさんの中年小説家志望を発生させ勘違いさせた、という素晴らしい評言をしたのだが、まさにそういう感じなのかもしれない。

でもそうであっても、一方でどうして、こんなに似たメロディやノリの楽曲が多くても、作曲しようとは言わないのはなぜ?という疑問は解消されないんですけどね。

ほんとどうしてなんでしょ?

そして、みんな作詞をバカにしたらダメよ!って言いたい!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?