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“唯一無二の人生”を選んだ私の『死生観』

看護学生の時、授業で「死生観」についてのレポート提出があった。
私自身、今まで死生観について、ちゃんと考えたことはなかったが、自分の中にある「生」と「死」について、初めて真剣に向き合ったのを覚えている。
患者様の生死に関わる職につく者としても、自分の死生観をしっかりと持つことは、職を全うする上でも必要不可欠であると考え、自分自身に“死とは何か?”と問いかけた。

~ 「私の死生観」レポート全文 ~


 人は誰しも、いつかは「死にゆく存在」である。
その事実を私は子供の頃から認識していたが、“人は何のために生きるのか”ということについて、深く考えたのは16歳の時であった
人が生きる意味、やるべきこと、死ぬということは何なのかという答えを私はずっと探し求めた。
しかし、その答えも見つけられず思春期であった私は、家庭や学校、人間関係や将来に対して多くの葛藤を抱え、自分という存在価値を見つけられずにいた
 小学校の卒業文集に記した「白衣の天使になりたい」という将来の夢は時が経つにつれて、いつしか薄れていった。そして勉強もろくにせず、毎日、友人や彼氏と遊ぶことに夢中になり、夜遊びを繰り返していたことが引き金となって、私は犯罪に巻き込まれてしまった。それが契機となり、私は汚れた存在であると自分自身を全否定するようになっていった
そのエピソードから、将来に対して夢も希望も持てない中、生きることへの意味が見い出せず、自然と自分自身の“死”について考えるようになっていったのである。
今、自分が死を選んだとしても誰も困らないだろう、自分を必要としている人はこの世に一人もいないだろうと根拠の無い思いが、私の心を支配していた。
 そのような思いに駆られていたある日、私はついに「生きることをやめる」という選択を自ら下した。“死ぬ”ことに対し、微塵も執着心や恐怖心を感じなかった。要するに、それは自分が生きることへの意味や、生きる上での希望を持っていなかったからだと考える。
自らの死を望んだが、死ぬことが許されなかった私は、以前にも増して「生きる」ことに対し、さらに苦しむことになった
その理由として、第一に先が見えないこと、第二にやるべきことが見出せないこと、第三に自分の存在価値を感じられないということである。
この人生の1ページが、私の死生観に大きく影響しているといえよう。

“死とは何か?”と問われたならば、私の死生観を次のように表現する。

「生きることに夢や希望が持てない人は死ぬことに恐怖心を抱かないが、生きることに意味や夢、希望を持っている人は死ぬことに怯え、生きることに執着心を持つもの」であると。

なぜならば、自らの死を望んだ数か月後に私は、かけがえのない存在を自分の強い意志で授かり、その存在に生きる希望を抱いたからだ。
16歳であったが一児の母として、また一人の女性として、娘の存在が私の生きる意味となり、娘を守らなければという思いが私に「死ぬことへの恐怖心」と「生きることへの執着心」を与えたからである。

今、もし自分に死が直面したならば、私は迷わず、どのようなことをしてでも命を乞うであろう。
それは「娘を守り、娘の成長を見届けたい」という願いと、「白衣の天使になりたい」という夢を成し遂げるという希望を抱き、毎日を懸命に生きているからだ。
 これまでに述べてきた自らの死を選択した経験や、生きることへの希望を見出したことが基となり、私の死生観となっている。
人は様々な経験をすることで、生きることに意味を見出す生き物であると私は身をもって体験した。
それは、決して良い経験ばかりでは気付くことができず、辛い経験を乗り越えることで、やっと生きる価値を手に入れることができるのだと私は考える

この先どのような試練が立ちはだかろうとも、私は「生きる意味」と「生きる希望」を見失わず、“生きる”ことを全うしたい

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レポートは原稿用紙3枚と決まっていたため、これで完結としたが、補足エピソードがある。

~ 補足エピソード ~

誰にも言わず、自らの死を選択した私が助かった理由。

それは、、、
私が一つの細胞を姉と分け合った“一卵性の双子”だったから

双子には、今の化学をもってしても証明することのできない不思議な何かがある。これは、小さい頃から肌で感じてきていたこと。
口では説明のできない目にみえない何か、テレパシーのようなモノがある。

母の睡眠薬や市販薬を大量にオーバードーズして、意識が遠のき身体は動かそうと思っても動かず、心地よい眠りに誘われ、深い眠りに落ちた時…
私の異変を目に見えない何かで察知した姉が部屋に来て、状況を把握し、すぐに救急車を呼んだのだ。
救急隊員が必死で、眠らないよう叩き起こそうとするが、私の目は開かなかった。だが耳からの音や声は、うっすらと聞こえていた。
「血圧70、酸素投与開始」
「ルート確保」
「受け入れ先決まりました」
母は足の手術で入院中、姉もまだ未成年だったため、すぐ近くの叔母が駆け付け、救急車には叔母が同席してくれた。
「お姉さんが自転車で並走しているから運転気を付けて!」と救急隊が、運転手に声をかけているのも薄れゆく意識の中から聞こえてきた。
自転車で必死に救急車を追いかけ、病院に搬送とほぼ同じタイミングで姉も到着。
今思えば、救急車を自転車で追いかけるって、どれだけスピードを出していたのかと、その姿を想像するだけで目頭が熱くなってしまう。

緊急で処置室に入り、私が意識を失う寸前、最後に聞こえてきたドクターの声。
「あと15分遅かったら間に合わなかった」そうハッキリと言っていた。

あと15分、、。
姉が私の異変に気付いていなければ今、私はここに居ない
私が助かった理由は、【一卵性の双子だったから】
これ以外に理由はなく、そして根拠もない理由だが、私が今、生きているというこの事実は、私が双子として生まれていなければ成立していなかったと思う。
だから私は結婚式の時、姉とバージンロードを一緒に歩いた
姉が居なければ私は、バージンロードを歩くこともなかったから。

~ そして、もう一つのエピソード ~

私が搬送された病院、、。
そこは、私と姉が一緒に生まれた病院でした。
私はその病院で生を受け、その病院に命を救ってもらった。
さらに、その数か月後、娘がお腹に宿っていることを知ったのも、その病院だったのです。
そして、その時エコー検査などをしてくれたドクターが、私たち双子を取り上げてくれたドクターでした。
そのことをドクターに伝え、16歳での妊娠についての不安を話したところ、返ってきた言葉は、
「大丈夫や!アンタらのお母さんは39歳で双子を産んだやろ?それより、リスクは少ないと思ってたらええから!」だった(笑)

改めて、母がリスクを負って私たちを産んでくれたことに感謝し、その命を自ら終わらせようとしたことに心から反省した。

「こんな生き方もある」と知って欲しい。
そう思い、私はbeautyJapan2023に出場を決めました!
BJを率いる女性に言われた言葉。
「あなたのような方が、世に出るべき人なんだよ。」
この言葉の意味を、私は全力で受け止め、私の伝えたい想いを全うしたい。

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