第一夢  白の星

 虹色のペーズリー模様をした巨大なクジラが、REMの宇宙をゆったりと泳いでいます。目はとても小さくて、ペーズリー模様に紛れてどこにあるんだかわかりづらく、たとえ見つけられても、どこを見てるんだかわからないボーっとした目つきをしています。

 このクジラの体の中はがらんどうで、中にはだいたい666万6666匹の夢魔が棲みついていました。おおよそ666万6666匹の夢魔たちは、ペーズリー模様のクジラが宇宙を適当にプカプカと泳ぐのに合わせてそのへんの星へ飛んで行って、遊んだり、ダラダラ過ごしたり、何か夢魔っぽい数々のことをしては、またクジラのお腹の中の棲家へ戻るということをくり返していました。時には夢の終わった星の上で居眠りこいていた夢魔が、クジラの棲家と離れすぎて戻れなくなることもありしましたが、そういう時は何百年でものんびりREMを漂って、別の巨大でがらんどうなクジラが見つかればそこへ引っ越すだけのことです。

 夢魔というのは一応、悪魔の仲間に分類されるのですが、だからといって、別に悪いことをするのが仕事というわけではないです。例えば普通の夢を悪夢に変えるような意地悪ばかりが仕事というわけでは、ないです。――そういう意地悪は、夢魔にとって仕事ではなくてむしろ楽しい遊びです。夢魔は、気が向けば良いこともするし、イタズラもします。どっちの方向にもよく気が向くのが夢魔です。

 夢魔たちは、人間みたいな姿をしていたり、動物の姿をしていたり、はたまた体は人間で頭は獣のものだったり、逆に顔だけ人間で体は鳥だったり、様々な姿をしています。ただ、どの夢魔も一様に、先っちょが矢印みたいにとんがった尻尾を生やしています。そういうところに悪魔の仲間らしさが残っているようです。

 ペーズリー模様のクジラは、大きな口をいつも半開きにしてぼーっと泳いでいます。その口の下顎の縁には、大勢の夢魔たちが腹這いに寝そべって、頭を並べて、外を見ていました。気になる星を見つけたら遊びに行ってやるつもりなのです。

「このへんは、白くて硬い星が多いな」

 一匹の夢魔がそう言うと、周りにいた夢魔が一斉にうなずきます。

「このへんの星はみんなクソまじめでさ、あっちのゲンジツの国で働いてばかりで、あんまり眠らないから、ロクに夢も出さないんだろう」

「夢が出ないんじゃ、イタズラのしようもないな」

「そうでもないぞ、あんまり眠らない星はいつも頭を痛くしてるから、いい感じにドス黒い悪夢を出すこともあるぞ」

「最初からドス黒い悪夢だったら、俺たちがイタズラする余地がないじゃないか」

 それもそうだな、と夢魔たちはうなずき合うのでした。

 今虹色のクジラが泳いでいる辺りにはたくさんの星がありましたが、どれも白く固まっていました。……いえ、一つだけ、クジラが通り過ぎかけたアゴの下のあたりの小さな星が、モヤモヤッと黄緑色がかった霧を吐き出しています。夢を吐き出し始めたのです。

 ぐごぅ! きゅるるるるるるる~ぴゅる!

 凄い音がクジラの口腔内に鳴り響いたので、夢魔たちは一斉にふり向きました。そこにはずんぐりした体の貘が一頭いて、褐色の顔で頬をほんのりピンクに染めて、モジモジと恥じらっていました。今の大きな音は、貘の腹の虫が鳴ったのでした。貘は注目されて恥ずかしそうにしながらも、長い鼻の先はおいしい夢を求めてくんかくんかと蠢いています。
 REMに棲息する貘は、夢を食べる霊獣です。眠りに落ちた星が夢を展開し、夢の香がたてば、鼻が動いてお腹が鳴るのは貘のどうしようもない習性です。

 一匹の夢魔の子が、ヒョコ! と立ち上がりました。その夢魔の子は、先が二又に分かれた薄い紫色のとんがり帽子をかぶり、同じ薄紫色に水玉模様の入ったぶかぶかの服を着て、先のとんがった靴をはいていました。顔は白く、鼻は赤い団子鼻で、目の周りには青い星の印、ほっぺには黄色い月の印をつけて、口の周りは赤く、ピエロみたいなメイクをしているように見えますが、こういうのが夢魔の地顔です。

「ネム、お前の貘は、100キロ先でプチトマトが一粒潰れた程度の夢の匂いでも、牛百頭分の胃袋で作ったバグパイプみたいにでかい音で腹を鳴らすんだな!」

 黒い顔の羊の姿をした夢魔がそう言ってからかいましたが、ネムと呼ばれた夢魔の子は、そんなの聞こえなかったフリをして、腹の虫を盛大に鳴らした貘のところへ行き、耳の後ろをゴシゴシ掻いてやりました。

「セピア、お腹すいたの?」

 ネムが訊きました。この貘はセピアという名前でした。色のついた夢が大好きで、夢を食べるとしばらくモグモグして、色だけを食べて、残りは吐き出してしまう癖があります。(そうやってセピアが夢の色だけ吸い取ると、その夢に関係する部分の夢主の記憶がセピア色に色褪せるらしいのですが定かではありません)

「あの星にランチに行こうか」

 ネムに言われて、セピアはずんぐりむっくりのでかい図体で地団太踏んで、

(そうだ、行こう、待ちきれないよ)

 とばかりに尻尾を振りたてます。あんまり激しく振ったので、貘の尻尾は太い鞭のようにしなり、ネムの被っている二又とんがり帽子に命中しました。帽子がズレて、何かがパラパラと飛び散ります。

「ああ、もう。クレヨンがこぼれちゃったじゃない」

 帽子からこぼれ落ちてしまったクレヨンを、ネムは屈んで一つ一つ拾い集めます。ネムは夢に色をぬるのが好きな夢魔で、いつも帽子にクレヨンを入れていました。クレヨンは108色、108本あります。これはネムの年と同じ数です。108歳という年齢は、夢魔としてはとても若いものです。なにしろ一番年をとっている夢魔は、REMの宇宙と同じ年ですから。ネムはほんの8年前にクジラのお腹の中で保育園を卒業したばかりでした。貘のセピアも、ネムと同い年でした。
 セピアはシュンとうなだれて、お座りの姿勢でネムがクレヨンを拾い終えるのを待っていました。でも、尻尾だけはせわしなくピコピコ動いています。ネムがクレヨンを拾い終えるやいなや、セピアはネムをヒョイと鼻先でつかんで自分の背中に押しつけるようにして跨らせました。

「じゃあ、貘の放牧に行ってきまーす」

 ネムが叫ぶと、何匹かの夢魔たちがおざなりに手を振り返しました。「貘の放牧」といっても、別に夢魔たちは貘を育ててその毛を刈って毛糸を作ったり、貘肉を食べたり、貘の乳搾りをしてチーズを作ったりするわけではありません。夢魔が貘の放牧をゲンジツ世界の人間の言葉に置き換えるなら、一番近いのは「犬の散歩」でしょう。
 ネムは、貘のセピアに乗って、夢の星へお散歩に出かけたというわけです。

 虹色のペーズリー模様のクジラは、自分の口の中で夢魔たちがお喋りしているのが聞こえているのかいないのか、ぼーっとしたどこを見てるんだかわからない目をして、大きな口は半開きのまま、のんびりゆったりREMの宇宙をたゆたうのでした。



 夢魔のネムと貘のセピアがお目当ての星に着陸した時、その星は既に夢を展開していました。白い星の地面に降り立ったネムはびっくりしました。どの星も、夢を展開する前はだいたい白っぽい地面の色をしているものですが、普通はつるんとして固いのです。だけどこの星の地面は、真っ白な上にも真っ白な、フカフカの柔らかい絨毯になっているのでした。

「なにコレ、気持ちいい!」

 ネムは、先のとんがった靴をスポッ!スポッ!と脱いで、裸足になって地面のフカフカを存分に感じながら走り回りました。それからバフッと地面に倒れ込んで、柔らかな白に頬をこすりつけました。貘のセピアも隣でネムのマネをしてゴロゴロとねそべり、白いフカフカの感触を一応、楽しんでみました。……セピアは、本当のところはこんな真っ白のフカフカよりも、もっとビビッドな色のついた夢を食べに行きたいのですが。

「フワフワの絨毯が白い草原のように広がっている。これってどんな意味の夢かな?」

 腹這いにねそべって、ネムは自分の帽子に手を突っ込んで中をゴソゴソ探りました。ネムの帽子には、二又に分かれた右側には108色のクレヨンが入っていますが、左側には本が一冊入っています。分厚い本です。色褪せた表紙には、『夢判断大事典』の文字がありました。

「ええと……『白い色は清らかさを表す。同時に清らかさを保つために自分を守りたいという気持ちから、潔癖さ・不安がある』ふーん。じゃあフワフワはなんだろう……書いてないなあ、フワフワ……」

 フワフワの上に寝そべる感触が気に入ったネムは、ずっとここで事典をめくりながらゴロゴロしていたいような気持ちでしたが、貘のセピアはさっきからおなかがすいています。一応、ネムの隣で一緒に寝そべっていましたが、だんだん首をもたげて、長い鼻を蠢かせ、くんかくんかとおいしい夢の匂いを探りはじめました。ネムもじきにそれに気づいて、「やれやれ仕方無いな」という顔をして立ち上がります。
 白いフカフカの絨毯――毛皮の草原、とでも言った方が良いような広さでした――その地平の向うに、黄緑色の湯煙が、ホカホカと立ち上っているのが見えます。食いしん坊の貘は、「ぐゴゥ!」と大きく腹の虫を鳴らしました。

「じゃあ、あの黄緑色のホカホカを食べに行こうか」

 ネムが言うと、セピアはうん! と大きくうなずいて、ネムを背中に乗せようと鼻をのばしました。しかしネムはイヤイヤとむずがり、セピアの鼻を押し戻します。ネムは白いフカフカの感触がいたく気に入ったので、足の裏やくるぶしにその柔らかさを感じながら歩きたかったのでした。ネムはセピアの背中に乗るのが嫌いじゃないし、むしろ楽しくて好きですが、貘の毛は短くて、フカフカ感が足りません。せっかくフカフカの星にいるのだから、時間の許す限り(夢が覚めるまでの間)思いっきりフカフカを堪能するべきだとネムは考えます。
 セピアは、なんでネムが嫌がるのかわからなくて首を傾げていましたが、ネムが黄緑色の湯煙目指してサクサク歩き出したので、トコトコついて行きました。本当はもっと速く走ってもいいのですが、ネムを置いてきぼりにしてまで色のついた夢へまっしぐらに走るのは、ガッついてるみたいで恥ずかしい気がしたのです。

 一匹の夢魔と一頭の貘が、フカフカの白い草原をてくてく歩いていると、突然後ろから赤い軽自動車がすごい速さで突っ込んできました。ぶつかる直前に気づいたセピアが、キッとふり返ってその車の赤い色を鼻から吸いこんでやろうとしたのですが、間に合いません。セピアは長い鼻でネムをぐるぐる巻き取って抱きしめ、一匹と一頭はギュッと目を閉じて衝撃に耐えようとしました。
 ……けれど、予想された衝撃はありませんでした。おそるおそる目をあけたネムは、車の後部シートにちょこんと座っている自分に気がつきました。セピアも、でかい図体の背中を丸め、長い耳の先を天井に触れさせながら隣に座っていて、目をパチクリさせて驚いています。

 夢の星では、こんなことがしょっちゅう起こります。老獪な夢魔ならこの程度で驚いたりはしません。だけどネムもセピアもほんの108歳の幼児なので、まだまだ、夢の星での出来事にいちいち驚いてしまいます。1000歳を越えた夢魔たちは、そんなネムとセピアを「お子様だ」と言ってからかいますが、10000歳を超えて「あらゆる夢のパターンに慣れきった」と豪語する夢魔は、時々こんな風に言います。

「まだビックリできるなんて羨ましいね」

 いつの間にか乗っていた車の後部座席で、ネムはまた「夢判断大事典」を広げて夢の意味を調べ始めました。

「この車、赤かったよね……赤、赤、と……『赤は情熱の色。行動的になっているサイン』か。ふうん、じゃあ、この夢の主は、さっきの白はケッペキで自分を守ろうとしてるって意味だったけど、赤い車が猛スピードで走って来たってことは、守りの姿勢から行動的になってるってことかな?」

 独りブツブツつぶやいているネムの脇腹を、セピアの太い前足が遠慮がちにチョンチョンとつつきました。

「何? セピア。今、私、夢の意味を調べてるんだから邪魔しないで」

 口をとがらせて文句を言うネムに、セピアは前の運転席にアゴをしゃくって見せます。

(ねえ、あの人がここの夢主かな?)

そう言っているようです。

 ネムたちが座っている車の運転席には、茶色い髪――きつくパーマを当ててクルックルの髪をした、痩せた腕の、年配の女性らしい人が座っていました。

「そうか、たぶんあの人がそうだろね」

 ネムはうなずき、一匹と一頭は揃って「にゅー」と運転席と助手席の背もたれの間に頭を差し込み、運転手の顔を見ようとしました。が、同時にそうしようとしたせいで、夢魔と貘はゴチンと頭をぶつけてしまいました。ネムがプウッと頬をふくらませて見上げてくるので、セピアはすまなそうに前足で「どうぞ」と先にネムが頭を差し込むように促したのですが、ネムはさっさとシートの下の方へ頭を突っ込み、クイクイと上を指差します。セピアは、そうか、と理解しました。座高の高いセピアは上から、小さいネムは下から頭を差し込めば、一匹と一頭は同時に座席の前を覗きこむことができます。

 そうして、運転手の顔を見ようとしたのですが……どういうわけだか、見ることができません。強いパーマのかかった茶色い髪は、運転手の頭頂部を覆い、側頭部を覆い、顔の方までモジャモジャとくまなく覆い……ネムとセピアは懸命に顔を見ようとするのですが、結局運転手の頭は360°全てゴワゴワとした髪の毛に覆い尽くされているのでした。こんな顔の人間がいるでしょうか? もちろん、夢の星ではどんなこともありえます。頭部をまるっと髪の毛に覆われた人ぐらい、珍しくもなんともないのでしょう。ネムとセピアが、そんな人物を初めて見たというだけなのでしょう。……そうかな?

「仕方ないね、夢は夢主が見るようにしか展開しないんだもの」

 ネムはあきらめてスポンと頭を引っ込めて、後部シートに背中を預けました。そしてまた、夢判断大事典を開きます。

「頭が360°髪の毛に覆われた人物、頭が360°髪の毛に覆われた人物。……うーん、全然載ってないなあ」

(そりゃ、いくら大事典だってそんなに何でもは載ってないよ)

 セピアはネムに聞こえないよう小さく笑って、そのまま運転席と助手席の間に顎を乗せて、長い鼻をぶらぶらさせました。

 いつの間にか白いフカフカの草原は消えて、赤い軽自動車は川沿いの舗装された道路を走っています。左は整然と植林された杉の林で、右側は切り立った崖。道の端にガードレールがあって、その向うの崖の下が川です。川は、山の緑を映しているのか、はたまた藻類がたくさんいるせいなのか、濃い緑色をしています。……さっきまでの白いフカフカの草原や、地平の彼方に見えていた黄緑色の湯煙はどこへ消えたのでしょう? セピアは前足を組んで、「ぐも?」と首を傾げました。

 夢の星の上では、こんなことはよくあるのです。夢の風景は、夢主の描いたとおりにしか展開しないし、夢主の思い通りにもならないのです。さっきまであったものが急になくなったり、逆にあるはずのないものが何の断りもなく現われて「最初からそこにあった」ことになってしまうのが夢なのです。

 セピアはおなかがすいていましたが、夢を食べるにはタイミングが大事です。例えば今乗っている車の赤色ですが、赤いのは車の外側だけです。今はセピアが車の中にいるせいで全く赤が見えなくて、食べられません。車が止まったらすぐ降りて、降りた瞬間に、夢主が車を見ていない隙を狙って、ズゾゾゾゾッ!と急いで吸いこんでやろう。それから、ネムを容赦なく背中に乗せて、全速力で走って、さっきの黄緑色の湯煙を探すんだ。そうしよう、そうしよう。セピアはググッと鼻先に力を入れました。
 ――あれ?
 鼻の先が、何か固くてガサガサしたものに触れました。何だろう?

 見ると、助手席に籠が乗っています。さっきまでそんなものはありませんでした。籠は太い藤の蔓で出来ている軽くて頑丈なもので、しっかりした蓋がついていて、留め金がかかっていました。セピアが鼻で籠を撫で回してみていると、中から「フー!!」という声がしました。何か生き物が入っているみたいです。

(ネム、ネム、この車、他にも何か乗ってるよ)

 セピアは首を前の座席の方へ残したまま、前足で隣のネムの肩をつつきました。
 ネムはその時、窓の外を見ていました。山と山に挟まれた川の上の、狭く帯状に伸びた空には、カラスが群れ飛んでいます。その数は多くて、不気味な黒い雲のようです。ガァ、ガァ、と、しゃがれた声が窓をピタリと閉じた車の中まで響いてきました。そんな様子を、ネムはまたいちいち事典を開いては調べます。

「ええと、山と川は緑色。緑色は『生命力。愛情』乗り物に乗るのは、『運勢上昇の準備中』。自分で運転してるのは、『健康状態が良くなりつつある。渋滞してない道をスイスイ運転しているようなら、運勢の流れにうまく乗っているということ』……へええ。じゃあカラスは?『賢い生きものなので勉強運が上昇中』か。……ここまでの夢の流れをまとめると、最初ケッペキで臆病だったけど、赤い車が突っ込んで来たところでやる気が出てきて、山の緑で落ち着いて、スイスイ運転して進んで、カラスで勉強を始めたんだね。うん、流れとしてはだいたいまとまってるね。この夢主のおばちゃん……おばちゃんでいいのかな? 顔が髪の毛で見えないからわからないけど、たぶん年配の女の人だとは思うけど……何の勉強をしてるんだろう?」

 独り言をつぶやくネムの肩を、セピアがグイグイ揺さぶりました。

(ねえ、前の籠に何かいるよ! カラスが鳴くのを聞くたびに怒ってるみたいだよ!)

「もう~、何なの? セピア。おなかすいてるのは知ってるけど、夢が次の展開に移るまでやることないんだからのんびりしてようよ……ん? あれ、この車、他にも何か乗ってるの?」

 ようやくネムが助手席を見てくれたので、セピアはホッと溜息を……鼻から大量の溜息を吐き出したのですが、その鼻先は助手席の籠を触っていたので……夢を食べる霊獣の生暖かい息が、籠の中の生き物にモロに吹きかけられた次第です。

「フーッ! フーッ!」

 助手席の籠の中から、怯えと興奮の混じった荒々しい唸り声が聞こえてきます。

「こんな籠、さっきはなかったよね? 何が入ってるんだろ? 『フーッ』て鳴くのはどんな生き物だっけ? WHOって鳴くのは誰ですかぁ?」

 籠の中身に興味が沸いてきたネムは、夢判断大事典を帽子の中にしまい込むと、後部座席から運転席と助手席のシートの間に頭を突っ込み、上半身も突っ込み、

「あ、WHOって鳴くのは誰ですかぁ♪ あ、WHOって鳴くのは誰ですかぁ♪」

 と、妙な節をつけて歌いながら、そのまま座席の間をすり抜けて、前の助手席に遠慮なく座ってしまいました。そして、何が入ってるかまだわからない籠を、何のためらいもなくヒョイと抱えて膝に乗せました。更に、本当に何のためらいもなく、籠の留め金をパチンとはずしました。更に更に、一瞬も手を止めることなく、カパッと蓋を開けてしまいました。

 夢魔というものは、夢の星の上でこんな風に自由に気ままに思いつくままに振る舞います。ゲンジツ世界の生き物が見ている夢の中に勝手に入り込み、夢の内容を平気でいじってしまいまいます。

 だけど大丈夫です。ここはREM。夢の宇宙です。夢魔ははじめからREMにいる存在で、その体も元を辿れば夢から出来ている夢の結晶のようなものなのです。だから、夢の中で夢が夢に何をしようと、そこで起きたことは夢に過ぎないのです。


 さて、ネムがカパッと開けた籠からは、これまた何のためらいもなく中の生き物がバッ!ビュンッ!と飛び出して、ネムの視界から消えてしまいました。素早すぎる身のこなしでよく見えなかったのですが、真っ白なフサフサの毛にネムは見覚えがあると思いました。さっきまで地面だった、あの白い絨毯です。あの広かった白い草原は、一匹の猫になってしまったようです。そう、よく見えなかったけれど、猫のような形をしていました。……いえ、もしかしたらイタチかもしれないし、オコジョかもしれません。小さい猿かも。ネムはもう一度よく見ようと、白い毛の生き物が跳んで行った後部座席をふり返ります。

「ぐゥッ!」

 白い生きものは夢を食べる霊獣の茶色い頭に飛びついて、しっかり爪を立てて足場を確保し、ついでに牙の前にたまたまあった大きな耳の先に噛みついたところでした。イタチでもオコジョでも猿でもない、猫です。子猫と呼ぶにはちょっと大きい、でもまだ成長しきっていない大きさの猫でした。セピアは涙目で痛みを堪えています。夢の中で痛い目に遭ってもそれほど痛くなかったりするものですが、セピアは猫に噛まれて痛かったようです。その一部始終を夢中で目で追っていたネムは、たまらず叫びました。

「うっわあ、クッソ可愛い!」

 ――「クソ可愛い」という言葉は、夢魔の社会では可愛いものに対しての最大級の褒め言葉として使われています。ネムは、連れの貘が猫の爪や歯で痛い目に遭わされたことは大変だとは思いますがとりあえず置いといて、白い猫のフサフサした毛を撫でてみたいと思いました。さっきも裸足になった足の裏でフカフカの白い絨毯の上を歩いていたのですが、あの感触と、この猫の手ざわりは同じなのか、ちょっと違うのか、ネムはそこがとても気になりました。

 だけど、白い猫に触るのは至難の業でした。後部シートに頭を屈めて座る図体のでかい貘の、右へ左へ、頭へ足へ腹へ、座席の下から背もたれの上へ、総毛を逆立てて興奮した猫は跳弾みたいに跳ねまわります。セピアは爪とぎ柱か何かみたいに、前足でも後ろ足でも爪を立てられて、踏まれて、つかまってよじ登られて、そのたびに「ぐゥッ!」と低い悲鳴をあげています。

 狭い車の天井すれすれに跳んだ猫が、助手席の下へやって来たので、ネムははじめ両手を後ろに隠しておいて、タイミングをはかって猫を捕まえようとサッと手を伸ばしたのですが、猫はネムの手をすりぬけて真正面から顔に跳びかかり、引っ掻いてくれました。ちょっと痛い。でも猫をクソ可愛いと思っているネムは、助手席の上の日除けについているミラーを覗きこみ、自分のおでこから鼻筋にかけて見事に真っすぐ三本並んだ赤い爪痕がついてるのを確認すると、「……イカス?」とつぶやきました。

「キシャ―!!!」

 運転席の前、ハンドルの向うに陣取った猫は、小さな口を般若のように口をカッと開いて鋭い牙をむき出し、琥珀色に透きとおった目は生きとし生けるものすべてを警戒し、睨みつけています。

「セピア、猫の鳴き声って、『ニャーン』だけじゃなかったんだね」

 見事にひっかかれたネムの顔がそれでも楽しそうにしているのを見て、セピアは鼻の付け根を膨らませて溜息をつきました。そして、その鼻の先を……白い猫に向け、耳をパタつかせながら片目でネムに目配せしました。セピアがこの仕草をするのは、(ネム、コイツ喰ってもいい?)というサインです。

「ちょっと待って、セピア」

 ネムは貘の鼻を両手で押さえました。猫をクソ可愛い、撫でたいと思っているネムですが、セピアが猫を食べるのを止めたのは、その前に猫を撫でておきたいから……というわけではありません。

「そっちのモジャモジャ運転手じゃなくて、この子の方が、夢主かもしれないよ?」

 夢主。それは、「REMの宇宙で夢を展開している星に対応している現実世界の生き物の意識」です。夢主は、星の上で展開されている夢の中に登場していることもあれば、姿を現さないこともあります。夢に登場している夢主を、貘が食べたらどうなるかというと……貘はそれでお腹をこわすということもないし、別に平気なのですが……一つ問題があります。夢なら何でもいくらでも食べることのできる貘のおなかは、一説によるとノンレムの宇宙に繋がっていると言われています。ノンレムの宇宙とは、「夢の展開しない深い眠りと忘却の宇宙」です。夢主は貘に食べられなくても時間が経てばノンレムの宇宙へ行くものですから、何も問題はないのですが……ただ、夢主がノンレムの宇宙へ行くと、REMに展開された夢が瞬時に消えてしまいます。そうなると、貘は夢をたっぷり食べることができなくなります。おまけに夢主はほとんど味がしないし、貘のおなかを膨らすものではないのです。

「……ググゥ……」

 セピアは鼻を引っ込めました。

「キシャァァァァァァ!」

 セピアが猫を食べるのをやめても、猫は運転席の前に陣取って、激しく毛を逆立てて周りを威嚇しています。

 運転手のモジャモジャ頭の人と、白い猫と、どちらが夢主なのか、ネムは見極めようと思ってじっと見ていました。――すると、運転手の右手がいきなりゴム人間のように伸びて猫を背中から取り押さえました。そして左手の先がみるみるうちにドライヤーに変わり、「フォォォォォ~」と、うるさい機械の作動音を立てながら熱い空気を猫に吹きかけました。

 猫は大パニックでした。モジャモジャの人の、骨ばって皮の少し余った腕に爪を立て、思い切り噛みつくのですが、その腕は少しも傷つきません。ネズミの出す超音波をも聞き分ける猫の耳に、ドライヤーの作動音は刺激が強すぎます。毛を乾かすための温風も、猫にとってはドラゴンの吐く炎のブレスのようです。身をよじり、跳ね上げ、全身にありったけの力を込めて抗うのに、モジャモジャの人の手からは逃れることができません。

「スゴイね、モジャさんは。……この隙にちょっと撫でさせてもらおうっと」

 夢魔のネムは、その場の状況など全く気にせず、さっきから触りたかった猫の頭に脇から手を伸ばして撫でました。
 思った通り柔らかくて、最初に星全体に広がっていた真っ白なフカフカの地面と同じ感触だったので、ネムは満足しました。毛皮の奥からは温かい猫の体温が感じられ、興奮しているせいで激しくなっている鼓動も伝わってきたので、「もうこの夢の主はこの猫で決まりだな」とネムは確信しました。頭が顔までモジャモジャの運転手さんの方は、顔が見えないから表情もないし、さっきから運転してるだけだったし、手はドライヤーに変化するし……どうも「この夢を見ている視点」ではなく、「猫から見た印象」で出来ているような感じを受けます。

「セピア。やっぱりこっちの猫ちゃんが夢主だよ」

 そう言いながら後部シートをふり返ったネムでしたが、すぐ目の前にはあんぐりと開いた貘の口がありました。貘は前方に何かを見て危険を覚えていました。それが何なのかネムは確認する間もなく、貘の長い鼻にグルグルに巻き取られていました。

 フッ……と一瞬浮いた感覚があって、車は落下し始めました。直前にセピアが見たのは、「川沿いの道が大きくカーブしているのに車が曲がろうとしないで、ガードレールを飛び越えて行く光景」だったのです。

 猫は恐怖に目を剥き、セピアは鼻と前足でネムを抱え込み、運転手だけは顔がモジャモジャで表情がわかりません。赤い軽自動車はそのまま、川へ落ちました。――その時ネムが感じたのは、せいぜい、ゴムボートに乗って5メートルほど落下して着水した程度の衝撃でした。(たぶん夢主の)猫がどう感じたのかは、自分じゃないのでよくわかりません。

 車はどんどん川の水に沈み、窓の外は一面黄緑色で覆われてしまいました。……そう、黄緑色です。まだ車が道を走っていた時に見えていた川の色ではありません。絵具で色をつけたような、蛍光黄緑色に染まった水の色です。

「さて、夢主さん。これからどうする?」

 ネムは猫を見ました。こういう、事故に遭う夢や落ちる夢の場合、落ちて衝撃を受けた瞬間に夢が覚めてしまうこともあります。だけど夢はまだ覚めず、夢主の白い猫は運転手のモジャさんの手を離れてフロントガラスの前にまだ座っていました。そしてモジャさんの姿はいつの間にか消えていました。白い猫は、今はもう怯えていませんでした。カラスの声も聞こえないし、ドライヤーの音もしないし、押さえつける手もなく、川に落ちたという危機的状況にもかかわらず猫は落ち着いていました。ただ、外に出る方法を探してキョロキョロしています。

 猫は、フロントガラスを前足でつつきました。コツコツ、と固い音が跳ね返って来ます。出られないようです。窓の向うは一面、黄緑色の水で何も見えません。……かと思ったら、何かが泳いで来ます。それは、別な猫でした。濃い灰色の縞々の、見事な毛並みのサバ猫です。サバ猫はとても上手にスイスイ泳いでいました。猫だけど、泳ぎ方は犬かきです。スイスイ泳ぎ、水中でクルクル回って遊び、テレビで見たことのあるラッコの真似をして、揃えた前足をお腹に打ち付けて見せたりしています。

 白い猫はもう一度、フロントガラスをつつきました。すると、今度はコツコツと固い窓ガラスではなく、寒天かゼリーのようにぷるんとした感触が返ってきました。白い猫がまたつつくと、黄緑色のゼリー状の窓全体がプルプルッと揺らいで波紋が広がります。猫は、そこへ爪を立てました。――すると、ゼリー状の膜が破れ、黄緑色の水が車内に流れ込んで来ました。猫は少しも慌てず、サバ模様の猫を追って黄緑色の川へ泳ぎ出ました。白い猫も、サバ猫と変わらずとても上手に犬かきで泳ぐことができました。水はちっとも冷たくありません。冷たいどころか、お風呂のお湯のように温かいのでした。

 ネムは温水プールのような温かさの水中で、帽子をごそごそ探り、「夢判断大事典」を取り出して広げました。水の中ですけど、これは夢です。だからありがたいことに、川の中で本を広げても濡れません。

「ええと、泳ぐ夢…あった。『能力が花開く。苦手なことも得意になっていく。ただし、溺れていたら悪夢』か。猫ちゃん、上手に泳いでるじゃん。良かったね」

 白い猫が車の外へ泳ぎ出たのを見て、ネムとセピアも揃って脱出しました。ネムが二匹の猫が楽しそうに泳ぐのに見とれている間に、セピアはふり返り、川底に消えて行く軽自動車の外装の赤い色を思いっきり吸いこみました。(旨い!)温水プールのような黄緑色の川の中でセピアは一つ舌鼓を打ち、そのまま川の水の黄緑色も、鼻から口からどんどん吸いこみます。貘のでかい図体が浮かぶほどの川の水です。一息に吸い込んでも、簡単に川の色は透明になりません。セピアは安心して何度も、おなかいっぱいになるまで黄緑色を吸いこみました。

 白い猫とサバ猫は、競うように泳ぎ遊び、だんだんと上へ向かっていました。ネムも少し後ろをゆっくり泳いでついて行きます。ザパッ! と水面に顔を出すと、そこは川ではありませんでした。たっぷりの黄緑色のお湯が張られた広い浴槽に、ネムは浮かんでいました。山や、空や、道やガードレールは消えて、周囲を取り囲むのは銀色のステンレス製の浴槽で、その上には淡いピンクのタイルで出来た壁が聳え立っています。浴槽の縁の一方には、クルクルと巻き取られた水色の浴槽の蓋も見えました。

 ネムが水面に顔だけ出して、立ち泳ぎを続けていると、大きなサバ猫がまず、グイグイ泳いで浴槽の縁に辿り着き、ヒョイと銀色のステンレスの壁を乗り越えて向うへ消えました。白い猫もスイスイ泳いで後を追い、浴槽の縁へ飛び乗ると、ちょっとだけ黄緑色のお風呂の方をふり返り、「ニャオン!」と一声、誇らしげに鳴きました。そしてすぐに洗い場の方へ降りて、姿を消してしまいました。

 猫がいなくなると同時に、水面はどんどん低くなって行きます。――貘のセピアが、浴槽に張られた分は全部飲み干す勢いで吸いこんでいるのでした。セピアの鼻が、ズゾゾゾゾ! と夢の色を吸い込むと、黄緑色が歪み、つられて浴槽の銀色も歪み、壁のピンク色も歪み、ネムの目に映る夢の世界全てが歪んで、縮んで、セピアの鼻の方へ流れ込んで行きます。

そうして全てが貘の鼻と口の中に吸い込まれてしまった後には、暗いREMの宇宙に浮かぶ白く固い星の地面が残りました。

貘が夢を吸い尽くすと同時に、夢主は夢から覚めて、その意識はゲンジツ世界に帰って行ったのでしょう。




※ ココまで読んでいただきありがとうございます。
 後半の有料部分(100円)は、夢主のゲンジツ世界での様子がメインのお話になります。よろしければどうぞ↓

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