仇討(あだうち)・Ⅲ

 同じころ、政府の太政官正院に所属する監部という密偵機関でも、極秘に「おとき殺害事件」の調査が始まっていた。監部は、国内の外国人居留地における情報収集活動や国内の反政府組織への潜入、政府高官の暗殺といった政治事件の調査が主な仕事であり、こうした民間人の殺人事件に介入することはない。
 この事件の調査を命じたのは、長官の大隈重信である。武蔵屋の囲われ者のおときが殺害された事件に対して、司法省警保寮の探索掛とは別に、監部で調査掛が編成され、すべての報告は、大隈長官へ直接おこなうことになった。
                  
 彦四郎は、部下の巡査を二名つれて、品川ステーションから、汽車で横浜へむかった。彦四郎らは、私服である。ポリスの制服では目立ちすぎると、彦四郎が判断したからである。
 新橋と横浜の間に鉄道が正式開業するのは、もうすこしあとになるが、品川・横浜間は、すでに仮営業がはじまっていた。ただ運行本数はまだ少ない。 
 横浜にむかったのは、武蔵屋藤兵衛のアリバイを確認するためであった。おときに愛人がいることを知った藤兵衛が、押し込み強盗のしわざにみせかけて、おときを殺害したのではないかという可能性を、捨てきれなかったからである。事件当夜、藤兵衛が横浜にいたかどうかを、確認しなければならない。
 武蔵屋の女中おせんの証言によれば、藤兵衛は、おときの遺体が発見された前日の朝、品川ステーションから汽車で横浜へむかい、南仲通りの支店に顔をだしたあと、生糸問屋の野澤屋、陸軍への物資を納入する不入(いらず)屋へ回る予定だったという。両店とも、服地を扱う武蔵屋が訪ねても、おかしくはない相手である。
 捜査の結果、武蔵屋の不在証明(アリバイ)は成立した。武蔵屋の証言通り、事件の夜は、不入屋で主人の和三郎と、おそくまで、陸軍に納める軍服の生地について相談し、結局、最終列車に乗れず、その日は、横浜の支店にとまったことが確認できた。
 彦四郎は、武蔵屋藤兵衛による犯行の可能性を、捨てた。
「犯人は、おときの愛人だろうか?」
 押し込み強盗の犯行なら、床や畳に足跡が残る。また、財布を残すはずもない。犯人は、財布には手を付けず、土蔵の鍵だけを盗んだ。土蔵には、舶来の洋服生地しか収められてはいない。それを盗むために、あえて殺人を犯すものかどうか。殺人の動機が不明である。
「土蔵には、洋服生地以外の、なにか別のものがあったのではないか?」

 彦四郎が、品川ステーションから汽車で、横浜に向かっていた頃、本所深川の武蔵屋の別宅に、小文と妹の咲良、咲良の友人の小吟(こぎん)、小吟と同じ浅草花屋敷の写真館で、絵画の修行をしている玉喜(たまき・十九歳)の四人が、人力車二台に分乗して現れた。
 四人とも、丈の短い筒袖の着物の上に、女袴(襞付きのスカート)をはき、草履という姿である。
 小文は、人力車から降りると、別宅から少し離れた場所で、別宅を監視している、刑事巡査の角袖のところへゆき、
「月殿さまからの指示で、参りました」
 と告げた。
 むろん、嘘である。指示などはでていない。捜査の進展が気になった小文は、咲良と相談して、とりあえず、自分たちにできることをやろうと決めたのである。その手始めが、台所の土間に残された靴跡の保存である。直感と言っていい。
 角袖は、小文が、以前、彦四郎と一緒に来たことを知っていたので、わかったというように頷いて、別宅内へ入るのを許した。
 小文は、台所の土間に残された「靴跡」が気になっていた。その靴跡が、犯人を特定するための、重要な証拠となるのであれば、これを保存しておくべきではないかと思ったのである。
 時間がすぎれば、台所の土が乾いて、靴の痕跡が消えてしまうかもしれない。彦四郎は、とりあえず、米とぎ用の籠をかぶせたが、そのままになっている。
 それならばと、小文は、浅草花屋敷の写真館で、写真術を学んでいる友人の小吟に、相談したのである。写真機という器械を、ほとんど目にすることがなかった江戸時代の町人には、写真撮影による、証拠物の保存など、思いつきもしなかったであろう。
「絵で描くよりも、写真のほうが、はるかに、はっきりと写し取ることができる」
 小吟は言う。しかし、被写体の場所をきいた小吟は、
「むつかしい」
 と言った。
 このとき、小吟と同じ写真館で、絵画を学んでいる画家志望の玉喜が、
「デスマスク」
 とつぶやいた。
「デスマスク?」
 小文と咲良と小吟が、異口同音に、その言葉を口にした。
「死んだ人の顔を、写しとるんです。それと同じやり方で、靴跡の型を取ればいいんです。靴跡を型枠で囲み、そのなかに、溶かした蝋を流し込むんです。西洋では石膏を使いますが、蝋でも大丈夫かと」
 玉喜が言った。

 台所の土間に入って、上がり框のそばに置かれた米とぎ用の籠を、玉喜が、そっと持ち上げた。ついで、土の上に顔をつけるようにして、靴跡を確認した。
「やってみましょう」
 小文が言った。
「灯りがたくさんいるから、ろうそくでも行燈でもランプでも、ここを明るくできるものを、なんでもさがして」
 玉喜が言った。
 日中の屋外なら、光源は十分だが、台所の土間は、かなり暗い。小文たちは、玉喜が、持参した道具の準備をしている間に、家中の灯りを求めて、走り回った。
                
 彦四郎が、司法省警保寮の川路利良(かわじ・としよし)邏卒(らそつ)総長のもとへ、出頭を命じられたのは、おとき殺害事件から二週間後のことである。
 彦四郎は、鍛冶橋(かじばし)御門内にある司法省警保寮へゆき、川路の執務室にはいると、川路のほかに、もうひとりいた。
 応接用の布張り椅子に座っている人物を、川路が、
「司法省警保局長、島本仲道さまである」
 その人物を紹介した。彦四郎は、島本の正面に立っている。
「そのほう、先日、横浜の不入屋に行ったそうだな」
 島本が聞いた。
 なぜ島本が知っているのか、彦四郎はおどろきながら、
「殺人事件の捜査でまいりました」
「殺人事件?」
 今度は、川路と島本がおどろく番だった。
「どういう事件か?」
 島本が聞いた。
「事件の詳しい内容を聞かせよ」
 川路が言った。
 彦四郎が、事件の概要を説明すると、
「その事件なら、探索掛から報告をうけております」
 川路が、島本に答えた。
「犯人は逮捕されていないようだが、君は、武蔵屋藤兵衛を疑っているのか?」
 川路に聞かれて、
「ひとり疑わしい人物がおります」
「だれか?」
 島本が聞いた。
「殺害されたおときの愛人です」
「男がいたのか? 押し込み強盗の仕業ではないと?」
 川路が、島本と顔を見合わせた。
「はい」
「何者か?」
 島本に聞かれて、彦四郎は、
「靴をはいた男、としかわかっておりません。軍人、ポリスの可能性も考えて、捜査をつづけてまいりました」
「武蔵屋の囲われ者の家で、なにか盗まれたのか?」
 川路が聞いた。
「ポリスへの届けでは、財布と土蔵の鍵が盗まれたことになっておりますが、実際は、そうではありませんでした」
「どういうことか?」
 川路は、執務机をはなれて、島本のそばに立った。
「財布は盗まれておらず、土蔵の鍵だけが、一本盗まれたようでございます」
「土蔵の鍵だけ? 土蔵から、なにが盗まれたのか?」
 川路が聞いた。
「盗まれたものは、ありません。土蔵には、阿波錠という頑丈なからくり錠前がとりつけられておりました。これを開けるには鍵が二本必要です。しかし、二本のうち、一本は武蔵屋が所持していたために、犯人の目的は達せられませんでした」
「犯人は、土蔵からなにを盗もうとしていたのか?」
 島本に聞かれて、
「犯人は、土蔵の中にあるものを、手に入れようとして、武蔵屋の別宅に侵入し、そこで武蔵屋がくるのを待っていたのではないかと。武蔵屋は、横浜にでかけたときは、きまって別宅に泊まっていたようですが、事件の夜、武蔵屋は、最終の汽車に乗り遅れ、別宅にはゆけませんでした」
 彦四郎が答えた。
「そのため、犯人は土蔵の開錠に必要な、二本目の鍵を手に入れることができなかったのです。犯人は、口封じのために、おときという女を、押し込みの仕業にみせかけて、殺害したのではないかと、考えています」
 彦四郎が答えた。
「月殿、じつは、いま、司法省警保寮の密偵掛で、陸軍省における公金の不正流用事件を内偵中だ。そなたも存じておろう、神保一等巡査が、指揮を取っておる」
 島本が言った。
「そのため、横浜の不入屋を監視中の密偵掛から、そのほうが聞き込みにきたことを、報告に来たのだ」
 川路が言った。
 昨年の末、フランス・パリの日本公使館から、ある人物に関する身元照会が外務省に来た。パリ市内で、高級レストランを借り切って、連日豪遊する日本人がいるというのである。
 山村和三郎こと不入屋和三郎と判明した。和三郎は、陸軍省の御用達となり、陸軍大臣と懇意である。
 その不入屋が、何の担保もなしに陸軍省の予備費を借用し、資産運用という名目で、生糸相場に投資していたのである。ところが、ヨーロッパでプロシア(ドイツ)とフランスの戦争が勃発し、生糸相場は暴落、大損害をだした。
 不入屋は、この損害を取り戻すという理由で、陸軍大臣から、さらに公金を無担保で借り出し、それをもって、フランスへわたり、その公金で、豪遊をはじめたというわけである。
「この件が、近衛将校たちの耳にはいり、大騒ぎになったのだ」
 川路が言った。
 近衛将校たちは、陸軍大臣が推進中の徴兵制度に、反対している。農民や町民に戦争はできない、戦争は士族(武士階級)の仕事であるというのである。このため、国民皆兵派の陸軍大臣をひきずりおろして、徴兵制をつぶそうと計り、陸軍省会計局の内通者に、調査をすすめさせていた。
「しかし」
 川路は、ふたたび執務机にもどった。
「陸軍大臣の兵制改革については、政府の上層部が支持しており、政府内部は混乱している」
 将来の対外戦争には兵力の増員が必須であり、そのためには、陸軍大臣の主唱する国民皆兵による徴兵制を、導入するほかないと上層部は考えていた。
 陸軍大臣は、討幕戦争において農民兵、町民兵とともに戦い、のちに日本陸軍の創始者となった大村益次郎から、徴兵制の確立を指示されていた。そのためにも、徴兵制度の確立はゆずれない。
「武蔵屋の件と不入屋の公金流用事件に、どのような関連があるのです?」
 彦四郎が聞いた。
 陸軍の兵制改革について、陸軍内に意見の対立があることは、彦四郎もきいていた。そこに陸軍の公金不正流用疑惑である。反徴兵派軍人にすれば、徴兵派の陸軍大臣に、打撃をあたえる絶好の機会であろう。
 しかし、武蔵屋は洋服の生地を扱う商人で、陸軍の御用商人である不入屋とは商売上の付き合いはあっても、公金の不正流用事件とは、結びつかない。
「じつは、司法大臣が、この事件の追及に熱心なのだ」
 島本が言った。
 司法大臣は、新政府の官職を、一部の人間が、ほとんど独占していることに不満だった。そこで、今回の汚職事件に、陸軍省内で、反徴兵派の近衛将校と徴兵派の軍人の対立のあることを知り、これを利用して、政府内部に、くさびを撃ちこむ腹らしい。監部の大隈長官も、司法大臣の指示で、ひそかに動いていた。
 司法大臣が、島本局長を捜査主任に任命したのも、島本が、上層部の連中と、距離をおいている人物だからである。
「不入屋は、陸軍大臣派の軍人たちに賄賂を贈り、その見返りとして、軍需品の独占的納入をおこなってきた。軍人たちは、これに味をしめて、不入屋にたかりはじめた。その金で、酒をのみ、女遊びをした。不入屋は、そういう軍人たちから、借用証文をとっていたのだ」
 島本が言った。
 不入屋に対する司法省の捜査が本格化すれば、陸軍省の大汚職事件に発展する可能性が高い。すでに、その証拠となる借用証文や店の帳簿類を入手しようとする司法省と、その証拠書類の隠滅をはかる、陸軍大臣派の軍人との暗闘がはじまっている。
「やはり、武蔵屋の土蔵に、例の証拠類があるかもしれませぬな」
 川路が、島本に言った。
 その言葉を聞いて、彦四郎はすべてを悟った。犯人は、陸軍大臣派の軍人であろう。その男は、武蔵屋の土蔵にある借用証文や賄賂に関する書類を手に入れるため、武蔵屋の囲われ者であるおときを誘惑して、信用させ、土蔵の鍵を手に入れようとしたのだ。
「いそぎ、その別宅の土蔵を封印し、ポリスに警戒するよう命じてくれ。司法省の許可なく土蔵を開扉してはならぬ」
 島本は、川路に厳命した。 
                              つづく