仇討(あだうち)・Ⅳ

 彦四郎が、鍛冶橋の司法省警保寮から、浅草にある屋敷へもどると、家人の桐戸半蔵が、
「神保さまがお見えでございます」
 と告げた。
 神保信之は、司法省警保寮の一等巡査(警部補相当)である。密偵掛に所属するため、彦四郎の直属の上司ではない。
 彦四郎と神保は、麹町(こうじまち)にあった斉藤弥九郎道場で、ともに剣術を学んだ間柄である。後輩ながら、剣術の腕は、彦四郎が上であった。彦四郎は、三人の兄よりも腕が立った。
 三人の兄が、彰義隊に参加して、上野の山に籠り、新政府軍に抵抗したとき、神保は、新政府軍の一隊を指揮して、彰義隊を打ち破ったが、その戦場で、彦四郎の三人の兄の遺骸を発見したのである。
 神保は、彦四郎の兄たちの遺髪を、届けてくれ、彦四郎を実弟のように可愛がり、面倒を見てくれた。旧幕臣でありながら、彦四郎が、警保寮に入ることができたのも、勝海舟と神保の後ろ盾があったからである。
 神保は、書院で待っていた。八畳の中央に四畳半の絨毯を敷き、そのうえに、家人の半蔵がどこからか、手に入れてきたという布張りの、脚の短い肘掛椅子が一つ。神保の専用である。  
 テーブルはない。書院窓の手前にある文机の上には、煙草盆がひとつ。これも神保の専用である。 
「おそかったな。どこぞへ出張でもしていたのか?」
 神保が、冗談めかして言った。
「東奔西走しておりました」
 彦四郎が笑った。
「川路邏卒総長から、なにを聞かされた?」
 彦四郎は、神保の来宅した理由が、わかっていた。おそらく不入屋に関する司法省の内偵を探知した陸軍省の関係者が、司法省の捜査状況を知ろうと、神保を動かしたのだろう。
 神保は、紙巻たばこにマッチで火をつけてから、手を伸ばして、書院の障子窓をあけた。庭の樹間をわたる隅田川からの、冷たい川風が、さっと部屋に入ってきた。
「彦四郎、川路邏卒総長の渡欧が決まった」
 神保が言った。
「たったいま、川路さんに会ったばかりですよ。川路さんは、なにも言いませんでしたが」
「今ごろ、その命令が、川路さんのところへ届いているだろう」
 なぜこの時期に、と彦四郎は驚いた。
 川路は、いま、不入屋事件捜査のために、国を離れるわけにゆかないはずである。捜査主任の島本局長の先頭にたって、陸軍軍人による汚職事件の捜査を、指揮しなければならない。
「欧州の警察制度を学んでこいと、政府から命じられたそうだ。川路さんが、司法大臣に協力しては困ると思ったのだろう」
 川路邏卒総長を、政府の上層部が、汚職事件の捜査から外したのは、かれらが、今回の汚職事件から陸軍大臣を、守ろうとしているということだ。
 神保は、短くなった煙草を、煙草盆に潰して、
「ところで、彦四郎」
 半蔵の女房が置いていった茶を、一口飲んでから、
「武蔵屋の土蔵を調べたい」
 と言った。
「封印されています。司法省の許可がなければ開けられません」
「陸軍大臣は、陸軍省の次官も近衛長官も辞任した。われわれは、それで責任は取ったと考えている」
「……」
「司法大臣は、政府部内では、あまり影響力を持っていない。この事件を利用して、自分の存在感を、政府内に誇示したいのだ」
「しかし、それでも、司法大臣は、あくまで法に則って、物事をすすめようとしています。不正を働いた陸軍大臣派の軍人たちを、権力維持の重要な相棒ということで、法を無視してまで、支援しようとする政府の上層部、日本が法治国家であるためには、その基本として、つねに正義が実行されねばならないと思いますが」
「いまは、富国強兵のための兵制改革が、最優先だ。この国を強国にし、外国からの侵略に耐えられる国にせねばならぬ。それができずに、なんの法治国家であるか」
 神保の口調は、あくまで穏やかだった。
「ですが、一御用商人が、担保もださずに陸軍の公金を借用し、それで相場を張って、大きな損失をだし、返済が不可能になったことは、国民にどのように説明するのですか。あなた方が目の敵にしている不平士族にとって、恰好の攻撃材料ではありませんか」
 国家の公金を、勝手に流用して、使ってしまったから、すみませんとはいかないであろう。
「陸軍省で遊んでいた予備費を、資産運用のために、不入屋に貸したのだ。それが、運悪く失敗しただけの話だ、私用したわけではない」
 と神保は言う。
 詭弁である。旧幕臣ではあるが、新政府の一下級役人として、新政府の官僚たちによる横暴を、目の当たりにしてきた彦四郎には、とても神保の主張は受け入れられない。これでは、江戸幕府の時代と同じではないか。
 しかし、彦四郎にも、神保の本心は分っている。神保は、もともと穏やかな性格の持ち主である。正義を無視して、悪事を許す人間ではない。もしも、平和な時代であれば、彼は、静かな人生を送ったであろう。
「公金不正流用について、自分には興味はありません。それは司法省の仕事です。不入屋がどのような処分をうけようと、こちらの知ったことではありません。しかし、私は、おときを殺害した犯人だけは、許すことはできないのです」
「それはポリスの仕事ではないか」
「川路さんが、この事件から外されたことで、警保寮の探索掛も、この一件から手を引くでしょう」
 おときが、犯人からの誘惑に負けて、殺害されたのは、自業自得かもしれない。しかし、この殺人事件は、男女の痴話げんかによるものではない。
 陰謀である。そのために、明治維新で没落した貧乏御家人の娘とはいえ、罪もないおときが、陸軍省の軍人たちの汚職事件に巻き込まれ、短い人生を終えたことに、同じ貧乏御家人だった彦四郎には、見過ごせないことだった。
「そなたの気持ちはわかる」
 神保が言った。
「なぜ突然、川路さんが、この時期に、渡欧を命じられたのか、そなたにはわかるはずだ。徴兵反対派の近衛将校が、いくら騒いでも、政府の上層部が、陸軍大臣を支持するかぎり、この汚職事件は不問に付されるだろう。それよりもむしろ、私は、土蔵の中にあるものから、おときという女の殺害犯をたどるほうが、そなたにとって、価値のあることだと思うのだが」
 神保は、交換条件をだしてきたのだ。警保寮の一巡査が、司法省の許可なく土蔵を開扉したとなれば、神保を動かした軍人たちにも、迷惑が及ぶであろう。
 ここはひそかに、土蔵から関係書類を運び出し、穏便に処分しようと考えたにちがいない。穏便にとは、つまり、闇に葬るということである。
「この状況で、警保寮に、おときを殺害した犯人が、逮捕できるか、彦四郎。いまのままでは、たとえ犯人が見つかっても、おまえは、指をくわえてみているしかないのだ。それでいいのか?」
 そのとおりだと、彦四郎は思った。
 太政官正院の監部という密偵機関に、逮捕権はない。たとえおとき殺害犯を、警保寮につきだしたところで、ポリスのトップである川路邏卒総長が、この件から外された以上、事件は闇に葬られるであろう。
 自分の手で、おときの仇を討つほかないと、彦四郎は思った。
「おときを殺害した犯人の目当ては、土蔵のなかの借用証文です。それを処分しなければ、陸軍大臣ばかりでなく自分の身もあぶないと、犯人はそう考えた。そして、不入屋と武蔵屋の関係から、犯人は武蔵屋に目をつけ、武蔵屋が、別宅の土蔵に、からくり錠前をつけたことで、証拠品の隠し場所を確信した。犯人は、武蔵屋の囲われ者であるおときを口説いて、鍵を手にいれ、土蔵の中身を失敬するという計画をたてた」
「……」
「それで、すべてが解決すると、犯人は思っていた。が、錠の鍵は、二本あった。ひとつは武蔵屋が持っていた。もうひとつを手に入れるため、犯人は、あの夜、深川大和町の別宅で、武蔵屋を待ち伏せた。ところが、武蔵屋は、横浜から戻れなかった。おときに本当の目的を知られてしまった犯人は、武蔵屋に警戒されることをおそれて、押し込み強盗のしわざにみせかけ、おときの口を封じた」
「……」
 神保は、ゆっくりと書院の窓を閉めた。
「神保さん、おときの仇を討たせてくれますか。それが条件です。たとえ犯人が、神保さんの知人であっても」
「証文から犯人を見つけだそうというのだな?」
 神保が言った。
「犯人に関する手がかりは、ほかにもあるのです。神保さんが協力してくだされば」
「それで手を打とう。が、土蔵をどうやって、開錠する? なにか方法はあるのか? 鍵は武蔵屋の一本しかないぞ」
                
 彦四郎は、神保を書院に残して、すぐさま、屋敷をでた。午後八時をすぎていた。部下二名を武蔵屋の別宅へ先行させ、
「到着したら、警備についている巡査たちに、警備は終了したと告げて、一時的に、別宅から追い出せ。それから、長梯子を用意しておけ」
 と命じた。

 これより、半日ほど前になる。小文たちは、本所の周辺で、人力車を曳いている車夫を見つけては、その車夫に、本所深川の大和町から、靴をはいた男を乗せたことがなかったか、聞いて回った。
 小文は、花屋敷の写真館で、絵を学んでいた、浅草消防組の組頭、埜瀬(のせ)半次郎の娘・玉喜と一緒だった。小文と玉喜は、幼いころ、ともに寺子屋に通った仲である。その玉喜に、人力車を使った、靴をはいた男の似顔絵を、描かせようと考えたのである。
 ポリスでは、犯人と思われる、靴をはいた洋装の男の存在を確認したが、似顔絵までは描いていない。小文は、その男の似顔絵まで、描こうと考えたのである。
 半日をかけて、事件当夜、靴をはいた洋装の男をのせた、という人力車夫を見つけた。
「その男を乗せたのは、夜の九時頃だよ。ちょうど、あの押し込みがあった家の近くを通りかかったら、マントを着た男に呼び止められて、こっちはもう帰るところだからと断ったんだが、車代をはずむというので。両国橋のたもとまで運んだよ。洋服姿に靴をはいている男は、、あのあたりじゃ、あまり見かけないからね」
 車夫が、その男のことを記憶していたのは、翌日、人力車を掃除しているときに、座席に血痕を見つけたからである。その血痕は、おときのものに、ちがいなかった。
 玉喜は、和紙の画帳をひろげると、着物の袖から竹の矢立(やたて・携帯用の筆記具)を取りだした。そして、車夫の記憶を、最大もらさず聞き取りながら、その客の似顔絵を描き始めた。
                          
 彦四郎が、人力車で、武蔵屋の別宅に到着したとき、別宅内に巡査の姿はなかった。彦四郎は、部下に用意させておいた長梯子を使って、土蔵二階の、普通の錠前をつけただけの防火窓を開け、その奥の鉄格子を切って、外した。
 土蔵の正面の戸に付けられた錠前は、鍵が二本そろわない限り、開けられないが、土蔵の封止命令がでたとき、彦四郎は、正面の戸のほかは、阿波錠ではないことを、確かめていた。武蔵屋は入口と同様のからくり錠を、二階の防火窓にもつけておくべきであった。
 一時間ほどののち、彦四郎は、防火窓から土蔵へ入り、部下とともに、輸入服地のはいった木箱のなかから、服地に包んだ帳簿、借用証文、書簡類を発見した。
「不入屋は、万一を考えて、ここに証拠書類を隠しておいたようだな」
 彦四郎は、防火窓の鉄格子は外したまま、観音開きの窓だけを閉じて、錠前を元通りに掛け、ふたたび、警備の巡査を呼び戻した。
「先ほどの退所命令は、間違いであったと伝えよ」
 
 彦四郎は、屋敷に戻ると、神保に、土蔵から運び出した証拠品を渡した。
 神保は、書院で、帳簿類と書簡類に目を通してから、借用証文だけを手元に残し、庭に出て、帳簿と書簡の束に、マッチで火をつけた。
 彦四郎は、炎の反射で、赤くなった神保の姿を、縁側にすわって、眺めていた。東の空が白み始めていた。
                               つづく