雨・レクイエム・其の壱

 墨堤(ぼくてい)の桜が、ちらほら咲きはじめ、あたたかな日差しが降りそそいでいる、三月の終わりころ。花見客は、まだ少ないが、浅草寺さんへ参詣したあと、墨田川の堤を散歩する人々の姿がふえた。
 その日、龍之介は、自宅のある田端から省線の電車に乗って、上野駅で降りた。神田神保町の古書店から、探していた古本が見つかったという連絡があり、市内へでかけてきたのである。
 この時代の男にしては、龍之介は長身である。長い首に、大きめの頭をのせ、長い髪を、ときおり、細い指で掻きあげる。今日は、和服にマント、下駄履きという格好で、やせた体を、やや前に傾けるようにして、足早に歩く。ステッキは持っていない。
 龍之介が、上野駅でおりて、通りにでたとき、すぐまえを一台の黒塗りのセダンが、かなりの速度で、不忍池の方へ通りすぎていった。龍之介は、車の助手席に、知人が座っているのを見かけた。
「事件か」
 その知人は、東京警視庁・捜査第 一課の埜瀬治之(のせ・はるゆき)警部だった。龍之介が、両国に住んでいたころの幼馴染である。
 龍之介は、途中、上野広小路にある和菓子屋に寄って、好物の最中を買い、そこから、神田へむかった。 

 浅草・浅草寺に近い、とある商店街の一角に、古い小さな、赤レンガ造りの二階建てビルがある。一階は〈カフェ・月殿亭〉、二階は、オーナーの月殿友比古(つきどの・ともひこ)と妹ふたりの住居になっている。
 オーナーの友比古は、浅草生まれの浅草育ち。中学(旧制・五年)卒業後、東京市内の珈琲店で修行中だったが、父親の急死で、店を継ぐことになった。
 店での接客は、小文(こふみ)と咲良(さら)の姉妹がする。友比古と少し年齢差があるが、友比古の実母が若くして病死したあと、友比古の父親が、夫を事故で亡くした姉妹の母親を引き取り、再婚したのである。姉妹の母親は、流行病のスペイン風邪に感染して病死した。
 どちらも、器量よしの、美人姉妹で、三社祭には、二歳の時から参加しているという江戸っ子である。嫁にほしいと、引く手あまただが、二人とも、その気がない。この当時、結婚は早い。女学校を卒業したら、親の決めた相手と結婚するから、二十歳をすぎた独身女性は、あまりいなかった。
 
 龍之介が、神田からの帰りに、カフェ月殿亭に立ち寄ったのは、午後の遅い時刻だった。春風に、背中を押されるようにして、店に入ると、若い娘たちの声が、店内にあふれかえっていた。
 キッチンで、珈琲豆を挽いていたオーナーの友比古にあいさつしてから、
「にぎやかだね」
 みんなに声をかけると、店の中央に置かれた、店で一番大きな、八人掛けのオーバルテーブルで、小型の手提ボックスカメラを調整していた吟子(ぎんこ)が、龍之介に気づいて、名刺サイズの写真を、一枚もってきた。
「龍之介さん、これ見てください」
「和乃(かの)さん?」
 いま、東京でもっとも高い評価をうけている、ピアニストの真田和乃(さなだ・かの)のドレス姿だった。
「よく撮れてるね。さすが吟子さんだ」
 龍之介の言葉に、吟子が照れる。
 吟子は浅草の写真館でカメラマンをしている。若いながら、人物写真を撮らせたら東京市内でも五本の指に入ると評判で、吟子を指名して店に來る客も多い。以前、龍之介が吟子に、将来どんな写真家になりたいかと聞いたとき、吟子は、ためらうことなく、風と光を撮る写真家になりたいと答えた。
「来週、銀座のレストランで、ピアノリサイタルを開催することになったんです。龍之介さんも、来てくださいね」
 と小文が言った。
 小文と咲良の姉妹は、詩を詠む。まったくタイプの違う詩だが、二人の詩は、龍之介の友人である詩人たちがほめるほどで、いずれはどこかの出版社から、姉妹そろって詩集を出すのが夢だという。
 小文は、和服に白いエプロンという、いまはやりの女給スタイルではない。最近は、女給スタイルのウエイトレスで、客を呼びこんでいるカフェがふえたが、小文と咲良は、寺院の修行僧が作業着として着る、作務衣(さむえ)である。
 筒袖の上着に、ゆったりとした筒袴(ズボン)が、動きやすいというので、二人が、友比古に相談せず、店の制服にしてしまった。そのため、友比古も作務衣姿である。

「僕は、学生時代に、よく音楽会に出かけたよ。横浜の山手まで、聴きに行ったこともある」
 と龍之介が言った。
「そういえば、去年の十一月に、帝国劇場で、東京フィルハーモニイのピアノ演奏と独唱が、山田耕筰(こうさく)氏の指揮で開催されたんだが、和乃さんも、お父上と一緒に来ていた。三越の少年音楽隊をはじめ、八十名近い大編成で、圧巻だった。和乃さんも、いずれは帝国劇場や帝国ホテルで、ピアノ演奏会を開くだろう。みんなで応援してあげないとね」
 和乃は、小文と女学校時代の同級で、卒業後、音楽学校へ進み、その稀有な才能を開花させた。天才ピアニストと言われる久野久(くの・ひさ)とは、演奏のタイプは正反対ながら、和乃の才能は、久に劣らないと言われていた。リサイタルが終われば、ヨーロッパへの音楽留学が決っている。
「わたしはポスターのデザインを、巴瑠さんは、キャッチフレーズの担当です」
 印刷会社に勤める絵描きの玉喜(たまき)が、ポスターの下絵を見せた。
 和乃の写真の背景に、七色の虹を思わせるような色彩の渦が、敷かれている。
「水面に、七色の絵の具を落として、しずかに、細い棒でかき混ぜると、虹色の渦がつくれます。この渦を、吟子さんに写真撮影してもらったんです」
 と玉喜が言った。
 玉喜は、もともと画才があり、幼いころから、将来は画家になると決めていたが、カンディンスキーの「即興・渓谷」を観て、抽象画家を目指すようになったという。週に一度、市内の美術学校で学んでいるが、彼女の画才は、ポスター作りにも遺憾なく発揮されている。
 キャッチフレーズを担当する、巴瑠(はる)は、婦人雑誌の編集部にいるのだが、作家志望である。彼女の作品を、龍之介が、知人に見せたところ、知人は、それをある文芸雑誌に持ち込んで、掲載された。発想のユニークさと、意表を衝く展開が持ち味で、評判は悪くない。  
 吟子、玉喜、巴瑠の三人は、ひざ下丈のワンピース、着丈を短くした派手な模様のはいった羽織姿という、和洋折衷スタイル。まだまだ和服が主流の日本だが、小文も咲良も、一歩街へ出れば、流行の先端をゆくモガ(モダンガール)の洋装ファッションで、銀座を闊歩する。まさに「自由を謳歌する新しい女性」たちである。五人とも、足元は、低歯の女下駄。ヘアスタイルはショートボブ(おかっぱ)。
 月殿亭が来店客でにぎわうのは、珈琲のうまさばかりではない。小文、咲良の姉妹と、時々、店を手伝っている吟子、玉喜、巴瑠たちがお目当てのファンも、少なくないのである。咲良、吟子、玉喜、巴瑠の四人は、同じ女学校時代の親友同士で、今回の和乃のピアノリサイタルに、スタッフとして協力していた。

「アール・ヌーヴォーだね」
 とポスターを見て、龍之介が言った。
「そうなんです、龍之介さん。アール・ヌーヴォーなんです」
 吟子たちが、うれしそうに笑った。
 アール・ヌーヴォーとは、フランス語で「新しい芸術」を意味する。動物や植物などをモチーフにした、曲線を多くもちいる優美な装飾性をいう。十九世紀から二十世紀にかけて、ヨーロッパで大流行したが、そのベースとなったのは、日本からヨーロッパへわたった、浮世絵や工芸品によるジャポニズムであった。

「与謝野晶子さんの歌集<みだれ髪>の表紙に、負けていないね」
 龍之介の言葉に、
「はい、藤島武二さんのブックデザインを、参考にしました」
 と玉喜が微笑んだ。
 龍之介は、店内を見まわして、咲良の姿が見えないことに気づいた。
「咲良さんは?」
「今朝がた、上野の不忍池で、仲良しのお友達が、亡くなったんです」
 と巴瑠が言った。
 龍之介が、上野駅前で、車に乗った埜瀬警部を見たのは、彼が現場に向かっているところだったらしい。
「亡くなった?」
 ちょうどそこへ、埜瀬警部が、ドアを開けて入ってきた。

 江戸時代、浅草に幕府の「御米蔵(おこめぐら)」があった。両国橋に近い、墨田川の西側に、一番から八番まで、六十二棟の米蔵が立ち並び、幕府の直轄領からの収穫米や買付米が、舟で運び込まれた。
 その米は、領地をもたない、徳川家の家臣である旗本や御家人の給料として支払われるのだが、むろん、米では、日常生活に必要な品物は買えない。そこで、札差(ふださし)と呼ばれる商人が、その米を、手数料を取って現金化する。 
 この御蔵米を管理するために設置されたのが、勘定奉行支配の「浅草蔵奉行」である。埜瀬家は、代々、御蔵御門番同心(御家人)であったが、江戸幕府が倒れ、明治政府が成立すると、新政府のポリスに応募し、明治、大正と、代々警視庁の警察官として勤めてきた。
 オーナーの友比古と埜瀬は、東京府立第七中学校(旧制・五年)時代の同級生で、偶然、龍之介が、この店で珈琲を飲んでいるところへ、両国時代の幼馴染だった埜瀬がやってきて、久闊を叙することになり、それ以来、三人の交流がはじまった。三人とも同年齢のせいか、話が合う。

「龍さん、久しぶりだね」
 埜瀬が、龍之介のテーブルにきて座った。
「今日は、仕事かい?」
 と聞かれて、
「神田からの帰りだよ」 
 龍之介が答えた。
 と、店のドアが開いて、和服姿の咲良がもどってきた。ひどく疲れた様子だった。友人を失くしたのであれば、無理もない。
 眼を赤くした咲良が、姉の小文に、
「お店に安置と言うわけにいかないから、近くのお寺に、千春さんをお願いしたわ」
 と言った。
 龍之介が、埜瀬に、
「今朝がた、上野駅前で、君を見かけたよ」
 と言った。
「今朝早く、不忍池の弁財天へ通じる橋杭に、若い娘の水死体が引っかかっているのを、警邏中の巡査が発見したんだが、娘の雇い主から、捜索願がでていてね、その娘に似ているということで、雇い主を呼び、確認した。咲良さんの友人らしい。名前は雪村千春(ゆきむら・ちはる)さん、十九歳、浅草六区にある洋食屋に、住込みで働いていたそうだ」
「死因は?」
 龍之介が聞いた。
「検視医は、水死だろうと。解剖すれば、はっきりしたことがわかると思うが、事故と自殺の両方で、捜査中だ」
 と、そこへ、咲良が珈琲を持ってきて、二人のまえに置いた。そして、
「千春さんは、自殺なんかしません」
 と言った。
「咲良さん、警察も、自殺と断定したわけじゃない。事故の可能性も考えている。ただね、千春さんが、どうして、夜更けに、あんな場所にいたのか、それも、調べているんだ」
 埜瀬が、咲良に、やさしく言った。
「しかし、若い娘が、夜、あのあたりで何をしていたんだい? 若い娘が、ひとりでゆく所じゃないだろう」
 龍之介が言った。
 上野の不忍池あたりは、密会する男女のための逢引宿が並んでいる。そういう場所で、千春は、何をしていたのか。
「千春さんは、婚約者に逢いに行ったんです、きっと」
 咲良が言った。
「婚約者がいたの?」
 埜瀬が聞いた。
「埜瀬、婚約者のいる娘が、自殺はしないだろう?」
 そのあとを、龍之介は言わなかった。
 埜瀬は、無言のまま、珈琲を飲み終えると、龍之介に、
「本庁に戻るよ。また」
 そう言って、足早に、店をでていった。
 所轄の下谷上野警察署では、事故か自殺で処理をしようと考えていたが、千春が、婚約者に逢いに行ったのが本当なら、事故というよりも、その婚約者との痴話げんかが原因で、自殺したという可能性が、強くなった。

 ピアノリサイタルのポスターとチケットの制作作業が、一段落して、お茶の時間になり、客もいないので、みんなは、龍之介が、上野広小路で買ってきた最中を食べている。日頃間食をしない龍之介は、珈琲を飲んでいた。
「千春さんの相手は、どんな人?」 
 と龍之介が、咲良に聞いた。 
「なんでも、赤坂溜池にあるダンスホールで、働いている人らしいんです。それで、逢う時間が遅くなったのかも」
 咲良が言った。
「ダンスホールというと、その婚約者はダンサー?」

 いま、ダンスホールが大盛況である。京橋、渋谷、青山、赤坂溜池などのダンスホールでは、資産家の令嬢、女優、大企業の専務夫人、さらには伯爵夫人までが、ダンスホールに入りびたりだという。
 女性客は、入口で十枚つづりのチケットを買う。女性客と男性ダンサーは、フロアをはさんで並べられた席に座り、向かい合う。
 ミラーボールのきらめくホールでは、バンドが、最新流行のジャズを演奏している。女性客は、男性ダンサーと踊るたびに、チケットを一枚渡すのだが、ダンサーに複数の客が申し込んだときは、ダンサーが客を選ぶ。そのため、人気のあるダンサーなどは、相当の収入があるらしい。
 このチケットがダンサーの収入になる。そのため、お金持ちの有閑夫人などは、懇意のダンサーに五十枚とか百枚とかのチケットの束を渡すのだという。
 大正時代になっても、女性は家庭を守るべしという、江戸時代からの風潮がつづいている。そういう時代に、家庭を留守にして、ダンスホールへ入りびたり、お気に入りのダンサーに、チケットを束で渡し、ときに現金を与えて親密になり、郊外へ出かけて、食事のあと宿で一夜をともにする。
 これは、この時代、刑法上の姦通罪にあたる。女性(妻)と相手の男性が処罰される。その一方で、夫は愛人を作り、その愛人宅で仲間を集めて、違法な花札賭博、麻雀賭博に興じていた。

「ダンスホールで働いているとしか、聞いていません」
 と咲良が言った。
「龍之介さん、ダンスホールは、風紀上好ましい場所ではないと聞いています。うちの雑誌の読者投稿欄にも、批判的な意見が、たくさん届いていますよ」
 婦人雑誌の編集部にいる巴瑠が言った。 
「女性の客と男性ダンサーが、抱き合って踊り、そのあと、一緒に食事をしたり、一人の男性ダンサーが、複数の女性と、いかがわしい関係になるという噂も聞きます」
 吟子が言った。
「千春さんの死亡推定時刻は、昨夜の深夜だろうと、埜瀬は言っていた」
 と龍之介が言った。
「千春さんの相手の名前は?」
 龍之介が、咲良に聞いた。
「知らないんです」
 言って、咲良は、涙をうかべた。
                             つづく