仇討(あだうち)・Ⅵ

 津田源一郎は、他の同僚たちとともに、不入屋から八回、金を借り、借用証文を渡していた。その金で、馳走を食べ、芸者遊びにうつつをぬかし、金がなくなると、不入屋に無心した。
 多くの軍人が、そうやって不入屋にたかったのである。そのかわりに、不入屋は、陸軍への軍需品納入で、独占権を得た。
 しかし、不入屋の公金不正流用が司法省の探知するところとなり、捜査の目が自分たちにむけられると、借金まみれの軍人たちはあわてた。
 不入屋が、都合した金は、賄賂であると証言すれば、万事休すである。その証拠である証文を、処分するしかない。
 だが不入屋も、簡単にその証文を、借金返済なしで、反古にしてはくれないであろう。罪に問われるときは一蓮托生である。
 汚職軍人たちは、やがて、証文類を、不入屋が懇意にしている武蔵屋に預けているらしいと突き止めた。からくり錠前のついた別宅の土蔵のなかに。
 そこで、上官たちは、軍内でも美男と評判の津田に、おときを誘惑させ、土蔵に隠されている証拠書類の入手をはかったのである。
 囲われ者のおときにとって、津田の甘いささやきは、夢のような出来事だったかもしれない。
 津田は、武蔵屋が横浜からの帰りにはいつも、別宅に立ち寄ることを、おときから聞いていた。そこで、あの夜、津田は、人力車で、武蔵屋の別宅をおとずれた。  
 横浜からの帰りに、武蔵屋は、小舟で平久川をくだり、船着き場からやってくる。水路を利用すれば、武蔵屋に舟を見つけられて、警戒されるおそれがある。そのため、津田は、陸路を人力車でやってきたのである。
 津田の来宅を知って、おどろいたのは、おときである。武蔵屋が横浜の帰りに立ち寄れば、津田と武蔵屋が鉢合わせしてしまう。
 津田は、おときをサーベルで脅して、武蔵屋を待ちうけた。おときから鍵をとりあげ、もう一本を武蔵屋から取り上げて、土蔵のからくり錠をあけようと考えたのである。
 が、武蔵屋は、その夜、最終列車にのりおくれて、別宅へこなかった。鍵は二本なければ、錠前は開かない。津田は、焦った。
「おときは、君のほんとうの目的に気づいた。土蔵の鍵が目当てで、近づいたことが、おときに知れたのだからな。おときを生かしておけば、そちらの計画が武蔵屋に知れてしまう」
 彦四郎は、冷静をよそおいながらも、ふつふつと怒りが湧いてくるのを抑えられなかった。彦四郎の近くに控えていた小文たち四人も、涙を浮かべている。
 おときの口を封じた津田は、後日、武蔵屋からもう一本の鍵をとりあげようと考え、おときの口を封じて、押し込み強盗の仕業にみせかけたのである。
 しかし、事件後、武蔵屋の警戒がけわしくなり、さらに、司法省が武蔵屋の土蔵を封印して、津田は、その機会を失った。
「おときを、土蔵のまえにひきずって行ったのは、おときに錠前をあけさせるためか?」
 神保が訊いた。
「土蔵の錠前は、鍵が二本なければ開かないと知っていました。そこで押し込み強盗が入ったようにみせかけて、部屋のなかを荒らし、鍵を奪って、去ったのです。おときは居間で刺しました」
 津田は答えた。
「おときを、土蔵まで引きずっては行かなかったと?」
 彦四郎が訊いた。
「土蔵までひきずってはいない」
 津田が言った。
「では、どうしておときは、土蔵のまえで絶命していたのか?」
 もしも、おときが居間で殺されていたら、武蔵屋は、押し込み強盗のしわざと思い込んだであろう。が、財布は残されていた。武蔵屋はそれをみて、犯人の狙いが、財布の中身ではなく、土蔵であったことに気づいた。おときに預けておいた土蔵の鍵だけが、なくなっていたからである。
「そうか、おときは、押し込み強盗の仕業ではない、と武蔵屋に告げるため、最後の力をふりしぼって、みずから土蔵まで這い、そして、土蔵のまえで、絶息したのだ」
 彦四郎が言った。
 おときは、犯人の目的が、土蔵の中身であることを、武蔵屋に伝えようとしたのであろう。それは、土蔵の鍵を手に入れる目的で、自分に近づいた津田への、復讐であったかもしれない。
 事実、武蔵屋は、土蔵のまえで息絶えているおときをみて、居間にもどり、小抽斗を確認したが、財布はとられていなかった。土蔵の鍵だけが、なかった。
 武蔵屋は、そこで、犯人の目的に気づき、土蔵の封印をポリスに許すことで、結果的に、犯人の手出しができなくしたのである。
「このほうが安全かもしれぬ」と事件直後に、武蔵屋がつぶやいたのを、女中のおせんが聞いているが、そういう意味だったのであろう。
「君以外の証文は、すでに焼却した。君の上官や同僚たちは、この事件から逃げ切るだろう。政府の上層部が、汚職軍人と御用商人を助けるのだから、司法省にも手出しはできない。だが、君を許すわけにはゆかない。殺人犯だからな」
 彦四郎が言った。
「どうするというのだ? 警保寮に突き出すのか?」
 津田が叫んだ。
「君が自首しても、警保寮は、君の犯行を裏付ける証拠を持っていない。そして、ここにある君の署名が入った証文と、土間に残された靴跡の証拠を、警保寮に提出しても、事件を担当する人間は、だれもいない。つまり、君はすぐに釈放される」
 彦四郎の言葉に、津田の表情がゆるんだ。
「だが、私は、君の犯行を知っている。だから、見過ごすことはできない」
「津田」
 神保が言った。
「月殿は、おときの仇を討ちたいというのだ」
「仇討ちを?」
 津田が冷笑した。
「江戸の時代ではないぞ」
「もし、君が、月殿を返り討ちにすることができれば、証拠品はすべて、君の自由にすればいい。それは私が保証しよう」
 神保が言った。
 彦四郎が手を引き、司法省に、津田の身柄と証拠品を渡せば、汚職事件の立証はできるが、司法省は、陸軍の汚職事件から手を引いた。津田が、罪を問われることはない。
 おときの殺害についても、うやむやにされるおそれがある、と彦四郎は思っている。それでは、貧乏御家人の娘の仇は、だれが討つのか。おときが浮ばれないではないか。
 好き好んで、商人の囲われ者になったのではないであろう。明治維新という大混乱期に遭遇したばかりに、不幸な人生を背負い込まねばならなくなり、そのうえ、陸軍省の汚職事件に巻き込まれて、殺害されたおときのために、法律は、無力だった。法の執行者であるはずのポリスも、また同様だった。
 小文たちが言うように、どこにも正義はなかった。
 彦四郎は、神保と交わした約束は守るつもりでいる。汚職事件については、見ざる、言わざる、聞かざるを、決心したのである。おときの仇討ちが、その条件であった。
「好きなほうを選べ。サーベルでも日本刀でもよい」
 彦四郎は、用意しておいた太刀を、手に取った。
 このとき、小文は、縁側の端から、咲良たちとともに、ことのなりゆきを見守っていた。これから、彦四郎と津田の対決が行われるが、もしも、彦四郎が敗れることがあれば、自分も生きてはいない。着物の胸元に隠した剃刀で、たとえ返り討ちに遭おうとも、津田と差し違える覚悟だった。
 そばで心配している咲良が、
「姉さま、彦四郎さまが、負けることはありませんよ」
 小文の手を握った。
「彦四郎さまは、斎藤道場でも、免許皆伝の腕前と聞いています」
 小吟も、小文を勇気づけながら、一抹の不安を払いのけることができない。玉喜は、矢立てから筆を取りだし、画帳を広げて、仇討ちの様子を描き始めた。
「本気なのか? 待て、不入屋が、すべてを背負って、みずからあの世へゆけば、それで一件落着ではないか?」
 津田が言った。
「いまさら仇討ちなど」 
 彦四郎は、だまって、上着を脱いだ。白のワイシャツ一枚になって、土蔵の前に立った。そこは、荷物の出し入れのために、広くなっている。
 彦四郎は、父の形見である備前介(びぜんのすけ)直胤(なおたね)の太刀を抜いた。三人の息子を戦争で失い、その遺体の埋葬さえゆるさなかった新政府軍の軍人である津田への復讐に、父の形見ほどふさわしいものはないであろう。
 津田は、神保が用意した太刀を、なかなか手にとろうとはしなかった。
「君が、生きてここからでてゆくためには、月殿を、その手で切るしかないのだ。君が」
 君が勝てば、と言いかけて、神保は言葉に詰まった。
 斉藤道場でも免許皆伝の腕前といわれた彦四郎に、津田が勝つ見込みは絶無であろう。だが、まだ若い津田が、殺人事件の罪を一人背負って、断罪されることを考えると、同情しないわけにゆかなかった。
「君が勝てば、いかなる罪にも問われることはない」
 神保が、そう声をかけると、津田は意を決したように、神保の部下から太刀をひったくり、叫んだ。
「おれが返り討ちにあうか、おぬしがあの世へゆくか」

 不入屋和三郎が、陸軍省の応接所で、すべての罪を一身に背負い、割腹自殺をとげたのは、それから五日後のことである。
 その知らせを、神保一等巡査からきかされた日の午後、彦四郎は、書院の縁側に座って、小春日和の日差しをあびながら、おしまが、霊岸島の梅花亭で買ってきた銅鑼(どら)焼きを食べるところだった。
 不入屋の自殺後、武蔵屋の別宅にある土蔵を、捜索した司法省警保寮の探索掛は、汚職事件の証拠を発見できず、捜査は打ち切られた。おとき殺害事件も、迷宮入りになった。
 不入屋に罪を負わせて、陸軍省では、会計局の局長が責任をとり、辞任するにとどまった。司法大臣も、それ以後、追及をやめた。
 一大汚職事件の重要な証拠になったであろう借用証文や帳簿、書簡などは、すべて煙となって消えたのである。だが、そのために、ひとりの薄幸な女が、陰謀に巻き込まれて殺害され、表向きは、未解決とされたが、仇は討たれた。
 おときを殺害した陸軍少尉津田源一郎は、急病死として、処理された。
 もしも彦四郎が、神保の説得に耳をかさなかったら、いかに司法省警保寮の二等巡査といえども、おそらく、今ごろは月殿家の墓の中であろう。国家権力の巨大さを、彦四郎は知っていた。正義などは、どこにもないことを。
「もうすぐ、師走だな」
 独(ひと)り言(ご)ちて、彦四郎が、銅鑼焼きを口に運ぼうとしたとき、廊下に足音がして、小文、咲良、小吟、玉喜の四人組がやってきた。縁側が、ぱっと明るくなった。
「彦四郎さま、お茶をお持ちしました」
 小文が言った。
「今回の事件で、神保さんが、みんなを、警保寮で雇いたいと言っていた」
 彦四郎が、冗談めかして言うと、                
「四人一緒なら、いつでもお手伝いしますよ」
 咲良の言葉で、縁側に、笑い声が響き渡った。
                               完