雨・レクイエム・其の参

 上野・不忍池は、すでに午後の陽が傾きはじめている。埜瀬警部は、検視医とともに、弁天島の橋のたもとで、池から引き上げられた遺体の検視中だった。
 龍之介たちは、そこから少し離れた場所で、見物人たちにまじって、その様子を見ていた。
 検視をおえた埜瀬が、龍之介と小文たちに気づいて、近くへやってきた。
「龍さん、どうしてここへ?」
 埜瀬に聞かれて、
「千春さんが亡くなった不忍池で、今度は、ダンサーの遺体が発見された。千春さんの相手はダンサーだ。二つの事件に、つながりがあるんじゃないかと思ってね」
 龍之介は、二つの事件と言った。
 警察は、雪村千春の死を入水自殺として処理した。つまり、殺人事件が一件で、不慮の事故が一件ということになる。
 埜瀬は、龍之介の言った、二つの事件という言葉を、否定しなかった。
「被害者は、ダンスホールを掛け持ちでまわっていた、結城精一(ゆうき・せいいち)、二十五歳」
 埜瀬が、周囲に聞こえないように、小声で言った。
「結城と千春さんの関係は、まだわからない」
「死因は?」
 と龍之介が聞いた。
「鋭利な刃物で、左頸部を切られている。おそらく、凶器は、かみそりだろうという検視医の見立てだ。左頸部を切られたあと、池に落ちて、水死したと思われる」
 埜瀬が言った。
「犯人の手掛かりは?」
 小文が聞いた。
「いまのところ、ない」
「千春さんは、自殺じゃなくて、殺害されたんですよね」
 咲良の言葉に、埜瀬は、否定も肯定もしない。
「埜瀬、被害者の写真、撮ってもいいかい?」
 龍之介が言った。
「いいよ。ただ、現像ができたら、焼き増ししてくれ。捜査資料として使いたいからね」
 埜瀬の許可がでたので、吟子は、巴瑠に手伝いを頼み、手提げカメラを使って、被害者の顔写真を一枚、頸部の傷を二枚、現場周辺の写真を二枚、撮った。
 小文と咲良の二人は、現場周辺を歩いて、手掛かりになりそうなものがないか、探している。玉喜は、シャープペンシルを取りだして、半紙で作った自作の画帳に、現場周辺の詳細な見取り図を、描き始めた。 

 夕刻の、オレンジ色の光の中で、不忍池の殺人現場を、美しく着飾ったモダンガールたちが、事件の証拠になるものを探している光景は、見物人たちをおどろかせたにちがいない。彼女たちは、衣服の汚れを、まったく気にする様子もなく、水辺を、草の中を、歩いた。
 小文と咲良が、橋から民家のほうへ移動しているときである。着古した浴衣姿の中年の女が、そばへきて、
「探しものかい?」
 と聞いた。
「ええ、まあ」
 小文は、あいまいな返事をした。
「髪飾りなら、あたしが拾って、昼前に警察へ届けたけどねえ」
 と女が言った。
「髪飾りですか?」
 咲良が眉根をよせた。
「どんな髪飾りでした?」
 小文が聞いた。
「とんぼが二匹、向かい合ってるやつだったよ。べっこうで作ったものらしいね」
 小文と咲良は、おどろいて、たがいに顔を見合わせた。それと似たような髪飾りを、和乃が持っていたからである。
 そこへ、巡査が一人、やってきて、その女に、
「訊きたいことがあるから、署までこい」
 と、連行していった。
 さらに、別の巡査が、埜瀬のところへゆき、何事かを伝えると、埜瀬も、あわてた様子で、どこかへ行ってしまった。  

 不忍池で、結城精一の遺体が発見される半日ほど前のことである。
 上野の、とある質屋へ、顔なじみの中年の女が、べっこうのとんぼの髪飾りを持ち込んできた。かなり高価なもので、その女の素性をよく知る質屋の主人は、すぐに、警察へ届け出た。
 警察では、不忍池の近くに住む、その女を、下谷上野警察署に呼び出して、髪飾りの入手先を訊いた。はじめは、知り合いからもらった、拾ったなどと言っていたが、取調べが厳しくなると、女は、
「ゆうべ、不忍池のそばを、通りかかったとき、拾ったんです。道で、女の人とすれ違ったときに、ぶつかりかけて、わたしはよろけて、地面に尻もちをついて、立ち上がろうとしたとき、この髪飾りを見つけたんですよ。だから、その女の人が落としたんじゃないかしらね」
 警察では、一旦、女を帰宅させ、とんぼの髪飾りは拾得物として、署内に保管した。ところが、その半日後に、不忍池で、結城精一の他殺死体が発見された。警察では、不忍池近くでひろったとんぼの髪飾りを、質屋に持ち込んだ女が、事件と関係しているのではないかと推察し、すぐさま、女を警察署へ連行すると同時に、埜瀬警部に報告したのである。

 埜瀬警部は、急遽、不忍池から下谷上野警察署へもどり、取調室で、髪飾りを拾ったという女から、事情を聴取した。
「どのような女であったか、おぼえていないか?」
「夜だし、暗かったんです。それに、あのあたりは、ご存じのように、逢引宿がならんでいますが、灯りはあっても、薄暗くて、それに、頭巾でもかぶっていたら、陰になって、顔なんて見えやしませんよ」
 捜査係では、犯人が、逃走する際に、人力車を使った可能性を考え、事件当夜、上野周辺で、不審な人物を乗せた人力車を 探した。上野周辺には、密会する男女が利用する逢引宿が少なくない。ここへくるのに、人力車を使うことが多い。
 事件当夜、女性をひとり乗せたという人力車夫を見つけた。
「上野駅前で、女の人を乗せました。夜の十一時ころだったかと。三角の大きな頭巾のついた、丈の長い黒マントを着ていましたが、暗くて顔は見えませんでした。声は、若い女の人でした。銀座の歌舞伎座の近くで降ろしました。そこから先は」
 見ていない、と車夫は証言した。  

 殺人事件の翌日、小文は、リサイタルの会場になっている銀座のレストランで、新しいポスターを、巴瑠と準備していた。ほかの三人は、別室で、チケットの作成中である。
 小文と巴瑠が、控室のまえを通りかかると、ひどく蒼い顔の和乃が、ぼんやりとした様子で、肘掛椅子に座っていた。
「和乃さん、疲れているんじゃない?」
 小文が声をかけた。
「顔色が、よくないですよ」
 巴瑠が、心配そうに言った。
「うん、疲れたのかな。ちょっと気分が悪くて」
「リサイタルが終わるまでは、気が抜けないから、大変だね」
 やさしく言って、小文が、ちらと和乃の髪飾りを見た。
「とんぼの髪飾り、変えたの?」
 和乃の髪飾りが、別のセルロイド製の髪飾りに変っている。
「あの髪飾りは、母の形見だから、なくすと困るので、これにかえたの」
 と和乃が言った。
「そうか。そうだよね。お母さんの大事な形見なら、大事にしないとね」 
 小文は、先日、不忍池で、とんぼの髪飾りをひろったという女のことを、思い出していた。その女のひろったとんぼの髪飾りが、和乃のものとは限らない。同じものは、いくらもあるだろうし、なによりも、和乃が、この時期に、不忍池へゆくはずがなかった。
 小文は、和乃への不審を、ふり払いながら、
「和乃さん、わたしたちの幸福は、あなたの笑顔とともにあることを、わすれないで。困ったことがあれば、なんでも言ってね。約束だよ」
 と、やさしく言った。

 数日後の昼下がり。
 カフェ月殿亭の客足が、一段落したころ、店に埜瀬警部がやってきた。
「小文さん、いま、いいかい?」
 来るなり、埜瀬が言った。
 店には咲良だけで、吟子、玉喜、巴瑠の三人は、銀座のリサイタル会場へ行っている。
「はい、大丈夫ですよ」
 小文は、いくぶん緊張した面持ちで、咲良に、埜瀬の珈琲を頼んでから、埜瀬のテーブルへ行った。
 小文が、椅子に座ると、待ちかねたように、埜瀬警部が、上着のポケットから、ハンカチの包みを取りだして、テーブルのうえに開いた。 
 べっこう製の髪飾りだった。二匹のトンボが、たがいに向き合った、足の部分が櫛の歯になっている髪飾りである。
「これが、不忍池の事件現場に、落ちていたんだ。小文さんは、これの持ち主を知らないか?」
 埜瀬に問われて、小文は、埜瀬が、すでに持ち主を特定していて、その確認に来たのにちがいないと直感した。
「たしか、これと似た髪飾りを、和乃さんがつけていました」
 小文は、正直に答えた。
「和乃さんは、いまも、これと似た髪飾りをつけているかい?」
「いえ、その髪飾りは、お母さんの形見なので、いまは別の髪飾りに変えています」
「じつは、この髪飾りは、不忍池の近くに住む女が、殺人事件のあった夜、ひろったものだ。これを調べたところ、銀座の尾張町にある髪飾りを売る店で、誂(あつら)えたものであることが判明した。注文したのは、真田敬一郎氏だった」
「真田敬一郎さんて、和乃さんの?」
 小文は、懸命に、平静を装った。悪い予感が、的中したのだ。
「そう、和乃さんのお父上だよ」
「どうして、その髪飾りが、事件現場にあったんですか?」
 小文は、それが意味することの重大さに、気づいている。誂えたものであれば、まず同じものは二つとない。いま、テーブルの上にあるべっこう製のとんぼの髪飾りは、まちがいなく、和乃のものである。
「事件のあと、和乃さんに変わった様子は、ないかい?」
 埜瀬が、穏やかな口調で訊いた。
「埜瀬さんは、和乃さんが、不忍池の殺人事件に関係していると?」
「いや、まだ、そうと断定したわけじゃない。この髪飾りが、和乃さんのものかどうか、確かめたかっただけだ。いや、ありがとう。小文さん、この件は、内密に」
 そう言うと、埜瀬は、咲良が運んできた珈琲も飲まずに、店をでていった。

 東京警視庁の捜査第一課では、不忍池殺人事件の重要容疑者として、真田和乃の事情聴取を、埜瀬警部に命じた。事件現場から、和乃の髪飾りが発見された以上、和乃が、たとえ内務官僚・真田敬一郎の娘でも、事情聴取は必要である。
 しかし、警視庁の地下取調室に呼ぶわけにはいかない。事情聴取については、父親の真田敬一郎にも内密である。父親が知れば、聴取は中止されるだろう。
 そこで、埜瀬警部は、和乃が、ピアノリサイタルの会場になっている銀座のレストランの大ホールで、いつも午前中に、練習をしていることを知り、約束なしに、一人で和乃を尋ねたのである。
 和乃は、埜瀬警部が、龍之介の親友であること、小文たちとも親しいことを知っていた。信用のできる人間だと思っていた。だから、埜瀬の聴取を快く受け入れた。
「埜瀬警部が、ピアノリサイタルの応援に来てくれたということで」
 和乃は、そう言ってくれた。
 聴取は、グランドピアノのそばで、行われた。
「父には、話しませんから」
 ご安心ください、と和乃が笑った。
 その落ち着いた様子に、埜瀬は、和乃は犯人ではないと、ほとんど確信した。そのため、埜瀬も気が楽になった。
「この髪飾りは、和乃さんのものですね」
 埜瀬が、布に包んだ髪飾りを、和乃に見せた。
「どこに、ありましたか?」
 和乃は、落ち着いた口調で聞いた。
「上野の不忍池近くで、地元の住人がひろって、警察に届けてくれました。所轄では、拾得物として保管していたのですが、そのあと、現場近くで、結城精一と言う男性が、殺害されました。殺人事件の現場で発見されたということで、この髪飾りを調べた結果」
「父が銀座の尾張町のお店で、母のために誂えたものだと聞いています。母が、実家へもどるときに、わたしにくれたものです」
「和乃さんは、あの夜、不忍池に行かれましたか?」
 埜瀬は、単刀直入に訊いた。
「はい、たしかに、あの夜、不忍池にゆきました」
 と和乃が答えた。
「なぜ、不忍池に行ったのですか?」
「結城精一を殺害するつもりでした」
 和乃は、はっきりと言った。そのことに、埜瀬の方がおどろいた。
「どうして、結城を殺害しようと?」
「あの男が、妹の千春を殺害したからです。その復讐のために、あの夜、わたしは、不忍池にゆきました。しかし、わたしは、手を下してはいません」

                              つづく