仇討(あだうち)・Ⅴ

 事件の容疑者は、陸軍省の軍人や事務方だけでも五十人近い。そのなかから、殺人犯を見つけねばならない。
 一睡もせずに朝を迎えた彦四郎が、おしまの敷いてくれた寝床に入ろうとしたとき、小文たちがやってきた。
「眠いのだ。出直してもらってくれ」
 おしまに言いかけたところへ、廊下から足音が聴こえてきた。 
 部屋の前で、数人の足音がとまり、廊下から、小文の声が、聞こえてきた。
「彦四郎さま、お見せしたいものがあるのです」
 来客は、小文、咲良、小吟と玉喜だった。
 彦四郎の眼は、半分、眠っている。しぶしぶ、布団を部屋の隅に押しやって、四人のまえに座った。洋服を着たままだった。
「これを」
「これは?」
「別宅の台所にあった、靴跡です。玉喜さんが、蝋で型取りしたんです。それに墨をぬり、和紙に写し取りました」
 小吟が言った。
「姉さまたちに手伝ってもらいました」
 玉喜が言った。
「この靴跡が、事件解決の証拠になりませんか?」
 咲良が言った。
 彦四郎は、四人に、礼を述べてから、
「犯人は、陸軍省の軍人だった。特定はまだだが、判明するのに時間はかからないと思う」
 彦四郎は、これまでの捜査状況と、政治的解決で事件の幕引きが行われると、小文たちに伝えた。
「犯人を見つけても、捕えることができないのですか?」
 咲良が涙を浮かべた。
「本人が、自首して、その罪を認めない限り、ポリスでは捕らえられない」
「理不尽ではありませんか」
 玉喜が涙声で言った。
「これを見てください」
 小文が見せたのは、玉喜の画帳に描かれた男の似顔絵である。髪を総髪撫付(オールバック)にした、役者にしたらいいような美男である。おそらく、この男が、おときの愛人であろう。
「事件の夜、別宅の近くで、人力車に乗った人です。玉喜さんに描いてもらいました。車夫さんは、よく似ていると」
「みんなの協力には感謝するが、私ひとりの力では、どうにもならない。政府の上層部が、陸軍省の公金不正流用事件を、隠蔽しようとしている。犯人が自首する可能性は、皆無だ」
 四人は、泣きだした。
 おときが、政治的陰謀に巻き込まれて、殺害されたことに衝撃をうけていた。ただの押し込み強盗による殺人事件ではなかったのである。
「犯人は、どうなるのですか?」
 小吟が言った。
「私が、おときさんの仇を討ちます」
 彦四郎が答えた。
「仇討ちを?」
 四人が、ほとんど同時に、おどろきの声をあげた。
「このままでは、おときさんが、浮かばれない」
 彦四郎は、すぐさま部下を呼び、犯人の似顔絵を一枚、神保一等巡査にとどけるように命じた。

 鍜治橋御門内の警保寮から、近くにある陸軍省へ向かう途中の神保を、彦四郎の部下がみつけた。
「これを」
 部下は、神保に似顔絵を渡した。
 神保は、無言でそれを受け取ると、陸軍省へ急いだ。神保は、陸軍省の一室で、一人の陸軍軍人と会った。柿沢新太郎大尉は、神保と同年だが、戊辰戦争のとき、各地を転戦し、ともに砲弾の下をくぐった戦友である。
「頼みがあるのだ」
 神保が言った。
 柿沢に、自身が作成した名簿をわたし、
「その日に、非番、または休暇を取った士官を、調べてほしい」
 柿沢は、神保が、司法省警保寮で、どのような仕事をしているのか、知っている。
「いまは、なんとしても陸軍大臣を、守らねばならない。そのために、必要なのだ」
 神保が言った。
 柿沢も、陸軍省内が、汚職事件で揺れていることを知っている。苦渋の選択を迫られている神保の心中を、察して、柿沢は、無言で頷いた。
「この男を探してくれ」
 神保が、玉喜の描いた似顔絵を、柿沢にわたした。

 数日後、神保一等巡査から、彦四郎のもとへ、
「おときを殺害したと思われる陸軍士官を、特定した」
 と連絡がきた。
 事件当夜に、非番、または休暇中であった陸軍士官は五名いた。神保は、その五名について、部下の密偵を動員して、当夜のアリバイを確認させた。そのなかで、一人だけ、当夜の所在があいまいな士官がいた。
 津田源一郎という陸軍少尉である。二十三歳。
 神保は津田に、事件当夜、どこにいたかを訊いたが、居酒屋で酒を飲みすぎて、憶えていないという。どこで飲んだか、忘れたと言うのである。似顔絵も、よく似ていた。神保は、津田が犯人であると断定した。
 神保は、さらに、慎重だった。手元に残しておいた借用証文の中から、津田源一郎の名前が入った証文を探し出し、証文に記された署名の筆跡が、津田のものかどうか、柿沢大尉に確認してもらったのである。
  
 彦四郎は、小文に、
「明後日、正午、本所深川の武蔵屋別宅まで、来宅されたし」
 と伝えた。

 十一月下旬の、その日、司法省警保寮の神保一等巡査から、陸軍省の津田源一郎少尉に対して、呼び出しが行われた。この呼び出しについては、陸軍省の許可は得てある。
 津田少尉は、武蔵屋の別宅まえで、人力車を降り、歩いて、玄関までやってきた。軍服姿である。フランス式の紺色地九個ボタンが一列の上衣、ズボンは、鼠霜降地に黄色の側線、桶型の、庇が水平につけられた外観のケビ帽をかぶり、革の長靴(ブーツ)という格好である。
 そこで、神保一等巡査が待っていた。
「なにごとですか?」
 津田は、なぜ自分が、このような場所に呼び出されたのか、怪訝な表情だった。
「ついてこい」
 津田は、苦い顔で、神保のあとに従った。
 二人は、玄関からではなく、台所から家の中に入り、土間で、
「靴を脱いで、あがれ」
 神保が言った。
 津田は、上がり框のあたりが、少しぬかるんでいることを気にしながら、そこで、長靴を脱いだ。
 そばに控えていたのは、武蔵屋の女中おせんである。おせんは、津田の長靴を揃えるふりをしながら、さりげなく、津田に近づき、「匂い」を嗅いだ。
 津田の髪油の匂いと、おときの夜具に残っていた匂いが一致した。
 神保と津田が庭のほうへ歩いて、姿が見えなくなると、納戸に隠れていた小文たちが、台所に飛び出してきた。
「靴は、右足だよ」
 小文が言った。
 津田の長靴の右足を、あらかじめ、水盤に溶かして柔らかくした蝋の上へ、押し付けて、靴跡を型取りした。ついで、靴跡のついた蝋を、水につけて固めた。常温では、固まるのに一時間ほどかかるが、いまは時間との勝負だった。
 縁側で、神保一等巡査が、津田少尉を追及しているあいだに、この靴型を和紙に写し取るのである。小文たちは、井戸のそばへ、靴型を取った蝋の入った水盤をはこび、交代で井戸水を流し込んだ。慎重にして、すばやく、冷やして固めるためである。
 
 小吟が写真師の眼とルーペ(虫眼鏡)で、玉喜が絵描きの眼で、蝋から写し取られた、事件当夜の靴跡と、津田少尉の靴底を、念入りに調べた。これが一致しなければ、津田少尉は犯人ではない。
「姉さま、これを」
 ルーペを覗いていた小吟が、津田の靴底のつま先部分についた小さな傷を、見つけた。
「まちがいない」
 小文が小さく叫んだ。

 縁側近くで控えていた、ポリスの制服姿の彦四郎に、小文が小声で、「匂い」と「靴跡」が一致したことを伝え、二枚の靴跡を写しとった和紙を、彦四郎に渡した。彦四郎は、それを、神保に手渡した。
 その様子を、見ていた津田が、
「一体、なにをお調べなのです?」
 と聞いた。
「武蔵屋のおときを、知っているな」
 神保が訊いた。
「だれです?」
 神保の言葉に、津田は、顔色ひとつ変えない。
「そのような女は、知りません」
「この家に、来たことはないと?」
「ありません」
「事件の夜、男がここへ来た。靴を台所の土間で脱いで上がっているのだが、靴底の跡が、土間に残っていた」
 神保が、絵を、津田に見せた。
「これは?」
「こっちが、おときが殺害された夜、この家にきた男の靴跡を、写し取ったものだ。もう一枚は、いま台所の土間に脱いだ君の靴跡だよ」
「……」
「同じような靴底は、どこにでもあります」
「しかし、二枚の絵の、同じ場所に、同じ傷のついた靴が、いくつもあるとは思えぬが」
「……」
「事件の夜、この近くで、人力車に乗った男がいる。その男の似顔絵が、これだ」
 神保が、玉喜の描いた似顔絵を、津田にみせた。
「何者です?」
 津田の声は、落ち着いていた。
「私は、君に、よく似ていると思ったがね。何なら、その車夫に、君の面通をしてもいい」
「……」
「ここに君の名が書かれた借用証文がある。君が不入屋から金を借りたときのものかね? 全部で八枚」
 神保は、証文のひとつを、津田にみせた。
 証文をみて、津田は、署名の筆跡が自分のものかどうかを、確かめようとした。
「これは」
 あわてて、証文に手を伸ばす津田を、神保が制して、
「君の署名にまちがいないか?」
 もう一度訊いた。
「自分のものではありません」
 否定する津田に、
「陸軍省で、君の筆跡であると確認したよ」
 そう言ったのは、縁側の端に控えていた彦四郎である。
 津田は彦四郎の言葉に、かなり動揺した。
「ほかはみな、焼き捨てた。君のものだけ、こうして残した」
 彦四郎が言った。
「なぜおれの証文だけを?」
「おときを殺したからだ」
 津田は、神保に向かって、
「そのような女は知りません。神保さま、これは一体」
 どういうことでございますか、と怒ったように言う津田に、
「おときという女を、殺害したかと訊いている」
 神保が、静かな口調で言った。
「君が、つけているその舶来物の髪油の匂いが、おときの夜具に残っていたのを、武蔵屋の女中が確認した」
「このような髪油を使っている者は、ほかにもおりましょう」
「認めなければ、この証文を、司法省に提出することになる。そうなれば、君は」
「神保さま、不入屋から金を借りた者は、自分だけではありません。どうして、自分だけが、このような仕打ちを受けねばならないのです?」
「君は、殺人を犯したのだ。汚職事件の連中とはちがう」
 彦四郎が、強い口調で言った。
「おとき殺しを認めるか、汚職事件の罪を一人でかぶるか、いずれかを選ぶがいい」
 神保が言った。
                              つづく