雨・レクイエム・其の弐

 埜瀬治之警部が、警視庁にもどると、刑事部捜査第一課の神保(じんぼ)課長から呼ばれた。
「内務省警保局からの強い要請で、いよいよ、市内のダンスホールへの取締りを、強化することになった」
 と課長が言った。 
「その証拠集めに、人手がいる。君も、保安課へ、応援に行ってくれ。不良少年係も人手が足りないらしい」
「課長」
 埜瀬が言った。
「しかし、市内のダンスホールには、上流階級のご婦人方が、多数出入りしていると聞いています。伯爵夫人や、大病院の院長夫人までが、ダンサーと密会しているという噂です。そういう影響力のある方々を、検挙できるんですか?」
 関係者の夫たちは、社会的な影響力を持つ人物ばかりである。文化人といわれる作家、画家、歌人などだが、藪をつついて蛇がでてくるようなことになれば、内務省も少なからず、政治的な影響を受けるのではないか。
「家庭を守るべき女性が、若いダンサーたちと、密会を繰り返し、著名な文化人や、華族の夫たちは、毎夜、愛人宅で違法賭博に明け暮れているらしい。内務省は、これ以上、見過ごしにできないと判断したようだ。近々、ごろつきや、不良少年一味を拘引する予定だ」
 課長が、苦々しい表情で言った。

 四月に入ると、墨堤の桜も満開になった。
 市内に貼られた、和乃のポスターが人気を呼び、和乃のピアノリサイタルは、連日、満員の盛況だった。当初、七日間の予定が、半月に延長され、それでも、演奏を聴きたいという希望が殺到し、新聞各紙が、和乃のピアノ演奏を絶賛したことで、結局、リサイタルは、一か月間行われることになったのである。
 その日、龍之介は、新橋の知人を訪ねたあと、市電に乗って、雷門前の停留所で降りた。とくに理由があったわけではないが、先日不忍池で発見された、雪村千春の働いていた洋食店を訪ねようと思ったのである。あくまで、作家としての好奇心からだった。
 この当時、雷門の建物はない。江戸時代の末期に焼失したまま、再建されていなかった。龍之介は、仲見世を通って、浅草寺の本堂へ参拝してから、飲食店街の六区へむかった。
 昼食時間のためか、四人掛けのテーブル席が二つと、ベンチ式の長テーブルが一つあるだけの小さな店の店内は、ほぼ満席である。
 龍之介は、ひょうたん池のあたりを少しぶらついてから、もう一度、その洋食店へ行ってみた。店の中には、もう客の姿はなかった。
 龍之介は、ベンチ式の長テーブルについて、五十年配の主人夫婦に、雪村千春のことを尋ねた。
「あの晩おそく、お姉さんという人が見えたんです」
 と主人が言った。
「お姉さんが?」
「千春を尋ねてみえたんですが、あいにく、出かけていて留守でした」
「お姉さんは、千春さんの実のお姉さんでしたか?」
 と龍之介が聞いた。
「はい、幼いころにご両親が離婚して、お姉さんは父方へ、千春は母方へ預けられたそうです。でも、父親から、妹は病死したと聞かされていたそうで、ひどく驚いたと言っていました」
 と女房が言った。
「そのお姉さんの名前は?」
「それが、私も女房も、聞いていないのです」
「千春さんの帰宅が遅いので、警察に、捜索願を出したと聞きましたが」
 龍之介が聞いた。
「はい、そのお姉さんという人が、千春を心配して、捜索願を出したほうがいいとおっしゃって」
 女房が言った。
「お姉さんも一緒に、浅草公園の派出所へ?」
「いえ、お姉さんは、よほど千春のことが心配だったのか、ひどく慌てた様子で、帰っていきました。名前も、住まいも、聞きませんでした」
 主人が言った。
「お姉さんの身なりは、どうでした?」
「はい、洋服でしたが、派手でない、地味な色の洋服を着ていました。良家のお嬢さんと言う感じでしたね」
 女房が言った。
「じつは」
 と言って、主人が、店の入口の横に貼ってあったポスターを、指でさした。真田和乃のピアノリサイタルのポスターだった。吟子たちが制作したポスターで、カフェ月殿亭にも同じものが貼ってある。
「これが?」
 どうかしたのか、と龍之介が聞いた。
「写真館の吟子さんが、貼ってくれたんですが、女房が、お姉さんの帰ったあと、このポスターを見て、この人がお姉さんだと気づいたんです」
 龍之介は、まさかと思った。ピアニストの真田和乃が、亡くなった雪村千春の姉だったとは。

 その日の夕方、龍之介は、カフェ月殿亭で、小文たちが戻るのを待っていた。小文は咲良と交代で、リサイタル会場になる、銀座のレストランへ出かけているが、今日は、店が暇だったので、小文も、午後から、会場へ手伝いにでかけていた。
 店にもどってきた小文たちが、ドアにさがった<CLOSED>の木札におどろきながら、オーバルテーブルに座っている龍之介をみて、
「なにごとですか?」
 と小文が聞いた。
 友比古は、キッチンで、全員の飲み物と軽食を準備中だった。龍之介は、小文、咲良、吟子、玉喜、巴瑠の五人が、テーブルについたところで、
「千春さんのお姉さんのことなんだが」
 と言った。
「千春さんのお姉さんって?」
 咲良が、怪訝な顔をした。
「真田和乃さんが、実の姉らしいんだよ」
 小文たちは、それを聞いても、すぐには事情を理解できなかった。
「え?」
「和乃さんが?」
「千春さんのお姉さん?」
「まさか」
「そんなことって」
 小文たちが、口々に声をあげて、涙をうかべた。
 龍之介は、浅草の洋食屋で聞いた話をした。和乃の父親と千春の母親が、かつて婚姻関係にあり、その後離婚して、姉妹が離れ離れになったことを、五人に話した。
「あの夜、和乃さんは、妹の千春さんに逢いに、浅草にきた。どうして、長年、離ればなれだった二人が、実の姉妹とわかったのか、それはまだ不明だが、洋食屋の主人の話では、和乃さんが店に来て、妹に逢いたいと言ったそうだ」
 小文たちは、沈痛な面持ちで、椅子に座っている。いま、ピアノリサイタルに、集中しなければならない時に、実の妹の存在を知り、喜んだのも束の間、逢いに行った妹が、水死体で発見されるという悲劇に見舞われた和乃を、どう支えてゆけばいいのか、言葉がみつからない。
 和乃は、妹の死については、小文たちに何も言わず、じっと耐えていたのである。その、和乃の心中を思うと、小文たちはたまらなかった。
「千春さんの婚約者がだれなのか、まだ不明だ。警察でも、相手を見つけ出して、当夜の状況が確認できるまで、この件は、継続捜査になるだろうね。新聞も、被害者の身元は不明として発表するらしい。それで、このことは、しばらく、みんなも、知らないふりをしているほうがいいんじゃないかと、僕は思うんだ。いま、和乃さんは、リサイタルで大変な時期だからね。どうだろうか」
 と龍之介が言った。
「龍之介さんが言うように、いま、一番つらいのは、和乃さんだよね。ピアノリサイタルが、無事に終わるまで、みんなで、和乃さんを見守ってあげよう」
 小文の言葉に、仲間たちは、泣きながら、無言でうなずいた。

 数日後。
 龍之介は、日本橋の知人宅で、からくり錠前を見せてもらった帰りに、馬喰(ばくろう)町にあるベーカリーへ寄った。両国に住んでいたころ、よくこの店でパンを買っていたのである。龍之介は、この店のカレー付けパンが大好物だった。
 そのあと、カフェ月殿亭に顔をだした龍之介は、友比古に、買ってきたパンを渡した。
「小文さんたちのおやつに」
 友比古が、龍之介に、珈琲を淹れる準備をはじめたところへ、埜瀬警部がやってきた。
「墨堤の桜も満開だが、警視庁の周辺も、桜が満開だ」
 埜瀬は、龍之介のテーブルへ腰をおろした。
「埜瀬」
 と龍之介が言った。
「雪村千春さんの件、どうなった?」
「雪村千春さん?」
「三月の末に、上野の不忍池で、水死体で発見された娘さんだよ」
「ああ、あの件は、入水自殺として処理された」
 埜瀬が言った。
「入水自殺?」
 キッチンから、友比古が言った。
「千春さんには、好きな男がいた。その男に会いにいったが、男と何かのことでもめて、おそらく痴話げんかのあげくに、彼女みずから池に飛び込んだのだろう。解剖の結果も、それを否定するだけの証拠は見つからなかった」
「飛び込んだというのなら、だれか、水音を聞いた人間がいるんじゃないか?」
 と龍之介が言った。
「そこなんだがね」
「なにか、気になることでもあるのかい?」
 龍之介が聞いた。
「じつは、千春さんの遺体の襟足部分に、圧迫痕があった。解剖医の話では、人為的に、つまり、だれかが、千春さんを押さえつけて、水死させた可能性がないとは言いきれないと」
「他殺の可能性があるということかい?」
 龍之介が言った。
「それなら、水音はしないね」
 友比古が言った。
「橋の上から突き落とせば、水音がする。あのあたりは、逢引宿に出入りする男女が少なくない。人力車もよく通るから、水音はまずいだろう。犯人は、千春さんを、水辺に引きずり降ろして、水面に顔を沈めた、とは考えられないのかい?」
 龍之介が言った。
「他殺と言う決定的な証拠でもあれば別だがね。圧迫痕も、水中で橋杭にぶつかってついた可能性も捨てきれない、ということで、入水自殺として処理された」
 埜瀬が言った。
「じつはね」
 と龍之介が言った。
「うん」
「あの夜、千春さんに、実のお姉さんが逢いに行っているんだがね」
「千春さんに、姉がいたのか?」
 埜瀬はおどろいた。所轄署では、事故か自殺の線で処理する予定だったので、千春の雇い主である洋食屋の主人には、事情聴取しておらず、埜瀬は、千春の姉の情報を聞かされていなかった。
「それが、ピアニストの真田和乃さんだよ」
「あの真田敬一郎氏の娘の、和乃さんか?」
「父親は、内務省警保局の官僚だ。埜瀬、僕が気になっているのは、千春さんの相手というのが、ダンスホールにつとめているダンサーだということなんだ」
 と龍之介が言った。
「その男のことを、調べる価値はないだろうか?」
「どこのダンスホールだ?」
 埜瀬が聞いた。
「赤坂のダンスホールらしい」
 そこへ、浅草公園派出所の若い巡査が入ってきて、埜瀬に敬礼した。
 埜瀬は、ドアのそばに立っている巡査のところへ行った。
「なにか?」
「警部どの、ただいま、緊急連絡がありまして、至急、不忍池まで御足労ねがいたいとのことであります。先ほど、不忍池で、若い男の他殺死体が発見されました」
「他殺死体? 男の身元は?」
「はい。赤坂のダンスホールに出入りするダンサーらしいとのことです」
 埜瀬と巡査の会話は、龍之介と友比古にも、きこえている。
「じつは、千春さんのことなんだが」
 埜瀬が、龍之介のところへ戻ってきて言った。
「うん」 
「千春さんの捜索願なんだが、洋食屋の主人だけでなく、同じ時刻に、内務省のだれかから、本庁の担当係へ捜索要請が入っているんだ。要請した人物がだれかは不明だった」
 埜瀬が言った。
「その内務省のだれかは、真田敬一郎氏だと思う」
 龍之介が言った。
 埜瀬は、だまって店をでて行った
 
 埜瀬が、店をでていってから、十分ほどして、店に、小文、咲良、吟子、玉喜、巴瑠の五人が戻ってきた。五人は、和乃のピアノリサイタルが行われる銀座のレストランへ、準備の手伝いに行っていたのである。
 五人とも、モガのファッションである。おしとやかな和装ではない。いま流行のモガ(モダンガール)の洋装である。和装が主流の時代に、とにかく目立つ。ドロップウエストのワンピース。ショートボブ(おかっぱ)の頭には、五人とも、釣鐘形のクローシェ帽子。そして、赤い口紅と濃い目のアイシャドウ。靴は、編み上げ靴、半靴、ボタン掛け靴、ズック靴、護謨(ゴム)靴と多彩である。
「いましがた、不忍池で、ダンサーの他殺死体が発見されたそうだ」
 龍之介が、ドアのそばで、小文に言った。
 
 和服にマントを翻して、下駄音高く響かせながら走る龍之介のあとを、最新ファッションできめた五人のモガたちが、仲見世を走り抜けてゆく光景は、参拝客を瞠目させたにちがいない。
 五人のモガを横目に、眉をひそめて通り過ぎる和服の二人連れ、五人を、うらやましそうに見ている女学生たち、大学の学生たちは、足をとめて五人に見惚れている。
 おそらく、銀座で、この五人が歩けば、モボ(モダンボーイ)たちからの誘いを、断るのに苦労するだろう。
 龍之介は、雷門まえで、人力車を探したが、一台も見つからなかった。
「市電にしよう」
 龍之介が言った。
「龍之介さん、どこへゆくんですか?」
 と小文が、雷門の電車停留所で聞いた。
「吟子さん、カメラ、使える?」
「乾板は、あと五枚ほど、残っていますけど」
 吟子が答えた。
 吟子は、最新式のチェリー手提暗函3号機を持っている。小型軽量の木製ボックスカメラで、フィルムは名刺版の乾板である。六枚一組だが、一枚は、和乃の撮影に使ったという。
 電車が、浅草橋の方からやってきた。
「みんな、乗って」
 龍之介は、五人を急(せ)かせた。
 五人は、不審顔で、龍之介にいわれるまま、つぎつぎに市電へに飛び乗った。最新ファッションのモダンガールが、五人も乗車してきた電車内が、ざわついたのも無理はない。
「龍之介さん、どこへいくんですか?」
 小文が、雷門まえを、大きく左に曲がりはじめた満員電車のなかで、もう一度聞いた。
「不忍池」
 と龍之介は、短く答えた。
「不忍池?」
 咲良にとって、そこは友を失くした辛い場所だった。
「埜瀬が、いま、向かっている」
 ダンサーの遺体があがったことを、満員電車のなかで話すわけにはいかない。
                               つづく