雨・レクイエム・最終章

 咲良が、不忍池で、凶器と思われる和かみそりを発見したころ、埜瀬警部は、保安課の課長から、
「先日、ある女性を取り調べたんだが、例の不忍池の事件と関連があるかもしれない」
 と聞いた。
 その女性とは、埜瀬が注目している、あの伯爵夫人だった。保安課で、ダンスホール事件を捜査中に、この夫人が違法賭博にも関与しているという情報を得て、召喚したのだが、そのとき、彼女が、
「わたしは、女たちに、ダンサーを紹介した。みんな男の言うなりだよ。金を貢ぐのさ。不忍池でみつかった結城って言うダンサーも、ずいぶんと女から、しぼりとっていたからね。あんな目に遭うのさ」
 と、しゃべったのである。
 和服姿の夫人は、警視庁の地下取調室で、床に座って胡坐をかき、べらんめえ口調で、捜査員をおどろかせた。
「不忍池で、若い娘が、水死体で発見されたが、その件について、なにか知らないか」
 と刑事が訊くと、
「娘があんまり結婚をせがむので、わずらわしくなって、結城が殺(や)ったのさ」
 と、供述したのである。
 警視庁では、相手が伯爵夫人ということで、それ以上の事情聴取はしなかった。できなかったと言ったほうがいい。相手は華族という特権階級である。警察には手がだせない。しかし、このとき、保安課の刑事が、夫人の指紋を、ひそかに採取していた。

 警視庁の保安課では、連日、ダンスホールにおける密会事件の関係者を取り調べた。この当時、人妻の不倫は、男女ともに刑法上の姦通罪が適用される。また、伯爵夫人の証言で、作家や画家、歌人など、文化人といわれる人々が、違法な花札賭博や麻雀賭博に関係していた事が判明して、こちらも、捜査が進められた。
 結城精一殺害事件については、ダンスホール事件の捜査の過程で、雪村千春を殺害したのは、結城精一であると判明した。それを指示したのは、伯爵夫人であったが、夫人が罪に問われることはなかった。
 不忍池の事件現場から、咲良が見つけた和かみそりの指紋が、伯爵夫人の指紋と判明し、刃に残っていた血痕は、結城精一の血液型と一致したにもかかわらず、宮内省警衛局皇宮警察部から内務省経由で、警視庁に圧力がかかり、夫人は、逮捕されなかった。夫人は実家での一時的軟禁と言う処分で、事件の幕引きが行われた。

「埜瀬」
 龍之介が、カフェ月殿亭で、珈琲カップを口にはこびながら、言った。
 店内には、浅草寺へ参拝した女学生のグループが、ほとんどのテーブルを占領していて、龍之介と埜瀬は、キッチンのそばにある、小さな、二人掛けのテーブルに座っている。小文と咲良は、注文取り、手伝いの吟子、玉喜、巴瑠は、客に食べ物や飲み物を運んでいる。
「うん」
「現場で発見された和かみそりは、凶器だったのかい?」
「和かみそりから採取された指紋は、例の伯爵夫人のものだったよ。刃についていた血痕は、殺害された結城の血液型と一致した」
「それでも、夫人を逮捕はできないのかい?」
「夫人は、犯行を否定している。夫人がいつも眉剃りに使っている和かみそりを、愛人の結城が、勝手に持ち出して、懇意の女に渡したらしい。その懇意の女というのが、和乃さんだ。夫人の指紋がかみそりに残っていても、不思議はない。夫人のアリバイも、証言する人間が多すぎて、逆に、疑わしいのだが、崩すのは不可能だね」
「……」
「現場には、和乃さんの髪飾りが落ちていた。ということは、彼女が事件当夜、現場に行ったことはまちがいない。警察は、結城殺害の最重要容疑者は、和乃さんだと考えている。どうしても犯人を作らないといけない時は、事件当夜のアリバイがない和乃さんだろう」
 埜瀬が言った。
「それでは、冤罪じゃないか」
 友比古が、怒ったように言った。
「和乃さんは否定している。そして、捜査員は、全員、和乃さんは無罪だと信じている。しかも、和乃さんのお父上は、内務省の官僚だから、事情聴取はできないだろうね。おそらくこのまま迷宮入りさ」
「だがね、たとえ冤罪でも、和乃さんを、新聞が、容疑者扱いして、大々的に報道したら、彼女の人生は終わるぜ」
 龍之介が、埜瀬に釘をさした。
「新聞も、この件について、発表はしないさ。容疑者が内務官僚の娘さんだからな」
「髪飾りから、和乃さんの指紋はでたのかい?」
 龍之介が聞いた。
「髪飾りを拾った女が、綺麗に拭きとっていた。髪飾りには、その女の指紋しか残っていなかったよ」

 和乃のピアノリサイタルが、最終日を迎えた。この日の演奏で、和乃は、オリジナルのピアノ曲を用意していた。その楽曲を、聴衆に披露したのである。
「雨・レクイエム」という曲だった。その「雨」は、殺害された薄幸の妹・千春の涙であったかもしれない。同時に、和乃の妹への鎮魂の涙でもあったかもしれない。
 龍之介は、埜瀬、友比古、小文たちと一緒に、和乃のピアノ演奏を聴いた。和乃の父親である真田敬一郎氏の姿もあった。
 入口近くの、特別に用意されたテーブルに、歌人の与謝野晶子と作曲家の山田耕筰が、来ていることを知るのは、龍之介だけだった。

 ピアノリサイタルが、無事に終了した夜、和乃の慰労会が、カフェ月殿亭で開かれた。店のドアには<CLOSED>の木札。全員、八人掛けのオーバルテーブルに集まっている。  
 テーブルのうえには、ところ狭しと、ご馳走や飲みものがならんでいた。友比古が、知人に頼んで用意した「コカコラ」もある。
 龍之介が、とんぼの髪飾りを、和乃のまえに置いた。
「これは?」
 和乃が、とまどったような表情で、龍之介を見た。
「警視庁で、拾得物として保管していたものを、調べて、これがお父上の注文品と判明したそうだ。捜査課長から、持ち主に返すようにとの指示があったとかで、埜瀬警部が、君に返してほしいと持ってきた」
 と龍之介が言った。
 それをみて、小文は、以前、埜瀬警部が、自分に、この髪飾りを確認したことを、思い出した。そして、この髪飾りが、どこで拾われたのかも知っていた。
 まちがいなく、あの夜、和乃は、不忍池に行き、結城精一を殺害しようとしたにちがいない。しかし、結城は、その前に、伯爵夫人の手で殺害されていた。和乃は、現場から離れる途中で、髪飾りを落としたのであろう。
「和乃さん、お母さんの形見、もどってよかったね」
 と小文が言った。
 二人は、たがいにうなずきあった。
 それをみて、咲良、吟子、玉喜、巴瑠が、一斉に拍手した。
 小文が、涙を浮かべながら、和乃に、
「ヨオロッパに行っても、わたしたちの幸福は、あなたの笑顔とともにあることを、わすれないで」
 と言った。
「それでは、みなさん、記念写真を撮りますよ」
 吟子が言った。
 つづけて、巴瑠が、
「六人のモガが、最新流行のファッションで、写真に彩りを添えます」
 と言うと、笑い声があがった。
 そのとき、龍之介が、
「もう少し待ってくれないか。和乃さんに合わせたい人がいるんだ」
 と言ったのである。
 その直後、ドアの向こうに、龍之介の待ち人が現れた。龍之介が、振り返ると、歌人の与謝野晶子と作曲家の山田耕筰が立っていた。
「龍之介君、わたしに、真田和乃さんを紹介して」
 和服姿の晶子が、テーブルにやってきて言った。
 小文たちは、歌人として知らぬ者のない、晶子が、突然、眼のまえにあらわれたことに、おどろいていた。文学をやっている小文、咲良、巴瑠にとっては、近寄りがたい存在である。
「晶子さん、遅かったじゃありませんか」
 龍之介が、小声で言った。

 龍之介には、和乃の気持ちがわかっていた。罪を問われなかったとはいえ、一人の人間をたとえ一時(いっとき)でも、殺害しようと考えたことは、まぎれもない事実である。罪の意識は、和乃の心に、重く残っているにちがいない。
 龍之介は、お茶の水駿河台にある、与謝野晶子が運営する学園で、文芸と英語の講師をつとめていた。それで、和乃の出発前に、晶子にすべてを話し、和乃の今後について、相談したのである。
「学園には、山田耕筰氏やエドワード・ガントレット氏、それに伊達愛さんもいる。海外留学よりも、学園でまなぶことが、和乃さんの将来にとって、きっとよい結果を生むでしょう。わたしが、留学を思いとどまるように説得してもよいですよ」
 晶子は、そう言ってくれた。

 晶子が、作曲家の山田耕筰と、テーブルについた。
「和乃さん、あなたの演奏を、晶子さんと聴きました。感動しましたよ」
 と耕筰が言った。
「ありがとうございました」
 和乃は、丁寧に頭をさげた。
「私は、君が、ヨオロッパへ留学することに、賛成しかねるのだ。それで、晶子さんを説得して、やってきたのだ」
 と、ドイツ留学の経験者である耕筰が言った。
「はい?」
 それがどういう意味なのか、和乃は、すぐにはわからなかった。
「ヨオロッパの音楽学校では、楽譜通りの演奏法が強制される。それは、ヨーロッパ音楽を標準化させるためだ。当然、君の天性の演奏法は失われる。従わなければ、修了ができない。修了ができなければ、上級の音楽学校に入学できない。ヨオロッパに行くことは、君の才能を浪費させるばかりなのだ。それでも、君はヨオロッパに留学したいと思うかね」
 耕筰の言葉に、和乃は、どこか吹っ切れたような笑顔で、うなずいた。
 小文たちは、音楽留学について、詳しいことは、わからない。しかし、和乃の笑顔が、小文を幸せにしたのは、たしかだった。小文は、和乃から、ヨオロッパへ行きたくない、このまま日本で、練習をつづけたいという気持ちを聞かされていたのである。
「留学はやめます」
 和乃が、耕筰に、きっぱりと言った。
 それを聞いて、咲良たちはおどろいたが、小文だけは、嬉しそうだった。
 龍之介は、和乃の言葉を聞いて、晶子に、
「和乃さんを、学園でお願いできますか」
 と言った。
 晶子は、満足そうにうなずきながら、言った。
「和乃さんは、わが学園で、もっとも歳の若いピアノ教師になるでしょうね」 
 
 埜瀬警部は、警察官と言う、法の執行者として、苦渋の決断をした。ダンスホール事件も、違法賭博事件も、雪村千春と結城精一の殺人事件も、関係者が、社会的に影響力をもつ人々であるという理由で、うやむやにされた。はじめから、一罰百戒の意味を込めて、新聞が大々的に報道し、煽り、それが警告になれば、それで十分だったのである。国民からの批判も、それで鎮静化する。
 龍之介は思い出した。埜瀬は、人一倍、正義漢の強い男だった。ほかのだれよりも、柔軟な思考力をもち、穏やかな精神の持ち主だった。
 その埜瀬が、伯爵夫人の罪に目をつむることで、和乃を守ったのである。もしも、埜瀬が、伯爵夫人の犯罪を、どこまでも追求しようとすれば、伯爵夫人を守ろうとする人々が、和乃をスケープゴートに差し出せと、命じたにちがいない。
 無実であるにもかかわらず、新聞が、和乃を容疑者として報道した時点で、和乃は犯人扱いされ、そして、後日裁判で、冤罪であることが証明されても、和乃のピアニストとしての人生は、終わっている。
 龍之介は、埜瀬に言った。
「もしも、君が、法の執行者として、正義を貫こうとしていたら、君は、まちがいなく、左遷されていただろうね」
「本当は、そうしたかったよ。しかし、私にも妻と幼子があるからね」
 埜瀬は、寂しそうに笑った。
 
 店の外まで、与謝野晶子と山田耕筰を見送った龍之介は、店にもどろうとして、ドアのガラス越しに、店内のにぎやかな慰労会の様子を眺めながら、これでよかったのだと思った。和乃という天才的なピアニストが、無傷で、守られたからである。
 しかし、その一方で、今回のいくつかの事件が、闇に葬られたことに、龍之介は、怒りを禁じ得ない。社会的な影響力をもつ、文化人といわれる人々が、今後は、声高に自由を叫ぶことも、政治を批判することもできなくなった。自縄自縛である。
 それは、この、明治時代には持つことのできなかった、大正時代という「自由」を、ふたたび「不自由」に戻すことだった。かれらは、おそらく、そのことの重大さに、気づいてはいない。
 龍之介は、店内にもどって、ふと、正面の壁に掛けられた一枚の水彩画に眼をとめた。それは、画面の中央に大きな青色の丸があり、その中心に白色の小さな丸が上下に二つならび、そして、青色の大きな丸を、五色の小さな丸が、等間隔で囲んでいる構図だった。
 青色の丸は不忍池、五つの丸は、水辺の周りに咲いた、五色のパラソルだろうか。二つの白色の丸は、和乃と千春にちがいない。
 あの土砂降りの雨の中で、小文たち五人が、顔中泥にまみれ、手足を草で傷だらけにしながら、殺人事件の凶器を探し回った、あのときの状況を、絵描きの玉喜が、可視化したのであろう。
 その絵をみたとき、龍之介は、小文、咲良、吟子、玉喜、巴瑠の五人が、和乃という、一人の人間の自由と尊厳を守るために、ここまでやさしくなれるのかと思い、うれしさで一杯になった。
「龍之介さん」
 小文の声がして、龍之介が振り返った。
「こんなところで、なにしてるんですか、みんな待ってますよ。さあ」
                      
                              おわり