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それって「自責思考」なんですか?

どうも、世界中のヒトや組織の可能性を拡げたい、タガミです。

皆さんはよくこんなことを言われませんか?

「で、どうすべきだったの?自責で考えてよ。」

私はこの「自責思考」という言葉があまり好きではありません。それは決して全てを「他責にせよ」ということではなく、「責」をどこかひとつにおくかということがナンセンスだと考えるからです。


「環境を言い訳にすんなよ」

私が昔いた職場で、マネージャーからこんな言葉をかけられたことがありました。

「…ができなかったことを環境とか周りを言い訳にすんなよ。結局は自分ができたことでしょ。自分ができなかった、ということをまず反省すべきだろ。」

これはとあるPJで自分が失敗したときの出来事です。お客様に対してコミュニケーションの齟齬があり、それは自分の準備不足が故に起きたことであり、自責で反省して次に活かすべきという意味でした。

皆さんもこういう経験ないでしょうか?職場で「自責で考えろ」と言われたこと。

…しかし、私はあえていいます。「自責で考えろ、は他責だろ」と。

自責思考の悪用

決して「自責思考」が悪いとは言いません。世の中の物事の多くは自分が変えられるとしたときに、自分がなにかすれば、とか自分が原因だと考えることで変えられることはたくさんあります。

先ほどの例でいえば、クライアントとのコミュニケーションの齟齬にもっと自分が早く気づけていれば問題は起きなかったかもしれません。

しかし、世の中の問題はそうシンプルではありません。

もし問題の裏に自分が感知し得ない事象があったとしたら?あるいはどうしても避けられない問題だとしたら?物事をすべて「自分が原因」と捉えることで視野が狭くなる可能性があります。

さらにこの「自責思考」がバズワードになっていることで、「エセ自責思考」が生まれていると思います。その一つが周りから押し付けられる「自責思考」です。これはただの責任転嫁になりかねません。

例えば先ほどのマネージャーの例でいえば(私は当時を振り返って責めたいわけではありませんが)、マネージャーの役割をふまえたうえでメンバーが振る舞うべきこと、そして反省すべきことを整理することが責務なのではないでしょうか。全てを「自責」に押し込めることはその人の責任を放棄につながります。

「ぬるま湯」につながる

さらに、いきすぎた「自責」は自身の自発性をつぶしかねません。例えば何かのPJが失敗したときに「自分がどうすべきだったか」を考えると自分起点の課題解決にしかなりません。

さらに、「自分がなにかをしなければ」という気持ちが強くなるともし問題が起きたときに「なにか解決案を考えなければ」となり、不安を口にしづらくなります。

結果的に、物事を自分起点で自分のレベルでしか考えられなくなり、それが組織に浸透すると冷静に考えられない・チャレンジできない組織になっていく可能性があります。

自分も同じ状態だった

実はここまでの話は自分の反省からきています。

自分の行動やチームで問題がおきたときに、自分はどうすべきだったかということしか考えられず、周りに助けを求めたり、既存の枠組みを超えた挑戦ができないことがありました。

(なんで自分はできないんだろう…)

(どうしたらもっとうまくできただろう…)

しかし、自分ができること・考えられることなんて大したことではありません。

そこでやりかた・考え方を変えました。「自責」でWhyを問い詰めるより、自分がどうしたいかからWhoやWhatを外に求めていくようにしました。

仏教の「無自性」

このやり方を変えるにあたっては、まず「自」と「他」を分けることをキッパリとやめました。ここからは「自分」でここからは「他(他人・組織)」とすると、どうしても物事の要因がどっちかにあると考えがちですが、ほとんどの物事にはいずれにも変数があり、そのバランスのうえで問題が起きます。

さらに、論理と物理(人・組織・地理…etc)を俯瞰してみるようにしました。何かの事象が起きたときにその背景には原因があるはずですが、そこには人の問題もあれば、人と人の関係性の問題、あるいは個人の能力などの問題もあります。それらをどこか一つのフォーカスするのではなく、俯瞰してみることで多様な観点から問題を捉え直すことができます。

こうした考えを深めるうちに、仏教の「無自性」が近い概念だと知りました。


仏教における「無自性」(無我、アナッタ)の概念は、存在するものすべてが固有の「自己」や「本質」を持たないという教えです。これは仏教の三大存在の特性(三法印)の一つであり、苦(デュッカ)、無常(アニッチャ)、そして無自性(アナッタ)から成り立っています。

無自性の基本的な理解
固有の本質の欠如: すべての現象や存在は、それ自体に固有の、不変の本質や自己を持っていないとされます。この世界のあらゆるものは、他の要因や条件によって生じ、存在しています。

相互依存性: あらゆる存在は、他の要素に依存して成り立っています。例えば、花は土、水、光、空気など無数の要素の組み合わせによって存在します。これは「縁起」とも呼ばれ、全てが相互に関連し合っているという考え方です。

自我の幻想: 自己というものは、一貫した固定的な存在ではなく、継続的に変化するプロセスであるとされます。したがって、恒常的な「私」や「自我」というものは幻想に過ぎないとされます。

ChatGPT

自分がどうしたいかorどうすべきだったか、ではなく「自分」というモノがないなかで物事はどう動いていたらよかったかと捉え直せるという点でこの「無自性(空)」という考え方は、他責か自責かの二分法を超えた考え方だと思います。

チームが機能しなければ始まらない

ここまでの話は仮に考えがうまくまとまったとしても、受け入れるチームが機能していないと意味がありません。「自責」でうまくいっても、「無自性」で俯瞰して捉え直しても、そのアクションを吸収する土台がないとただの内省で終わってしまいます。また、チャレンジする機会がなければ反省する意味もありません。

弊社アトラエでは自分の気づきや考えを取り込みつつ、チームとしてコトを前に進める文化が整っています。もしあなたがいまの組織やチームで悩んでいることがあれば、お話だけでもいいのでぜひオフィスまで遊びにきてください。

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