おじさんと舌打ち

今朝おじさんに舌打ちをしてしまった。
最寄り駅から通勤電車に乗ろうとしたとき、おじさんとぶつかったから。

それだけ。

舌打ちなんて普段ほぼしないので、驚いた。
“周りを全く見ない人と衝突した”よくあること。
こういう人はまず謝らない。でも今回のおじさんは「ごめんなさい」と謝ってくれた。「あっ」とかではなく丁寧に「ごめんなさい」と。わたしの舌打ちは「ごめんなさい」と同タイミングだった。

電車に乗って、ちゃっかり陽の当たるあったかい位置に座ってスイカゲームをしながら「おじさん、謝ってくれたのにごめんなさい」と胸が痛んだ。もし舌打ちが聞こえていたら、おじさん傷ついたかな。

おえ、良い人アピールみたいで気持ち悪い

今回はこんな話がしたいわけじゃない。なんで、たったこれだけのことにこんなに頭を使ってるのか。ぽかぽかとスイカゲームをしながら考え始めた。

わたしは自分の機嫌を自分で取れない人が心底嫌いだ。特に、イライラしながら出社してくる奴の神経なんて全くわからない。理解しようとも思わない。ただのバカだと思ってる。軽蔑もしてる。(言い過ぎ)
もちろん外的要因は別。あくまで“その場にいる人には関係のないこと”でイライラする人が大嫌い。

そんなわたしは全くそれがないのか?

“人のふり見て我がふり直せ”

よく聞く言葉だが、この言葉を作った先人にも、受け継いできた人にも頭が上がらない。わたしは年々これの意味が分かるようになっている。でもきっとそれは恐ろしいことに、身に覚えがあるから。「自分で自分の機嫌を取れない人が心底嫌い」だと思ってるわたしに身に覚えが?

あるに決まってる。だからこの言葉に気をつけてる。おじさんが悪いとはいえきっと悪意はなく、しかも咄嗟に謝ってくれた。一方わたしは周りを見ないおじさんを悪だとし、咄嗟に舌打ちをした。

スイカゲームの手を止めて考える。

わたしが舌打ちをしたのは、おじさんに対してではない。朝起きてから出発するまでの間に小さなイレギュラーがいくつかあって、それにモヤモヤしていたからだ。

こんなのわたしが軽蔑してる“イライラしながら出社する人”と同じじゃないか。おじさんがぶつかってきたのは外的要因だけど、わたしはその前からモヤモヤしていた。おじさんには関係のないモヤモヤ。おじさんはトドメを刺したにすぎない。

人のふり見て我がふり直せ

これに気をつけている理由は、
自分が人を不快にさせたら何らかの形で自分に返ってくると思って生活しているから。今回の反省は反省というよりは保身なのかもしれない。“あぁ、やってしまったな、バチが当たるかも”


…おい!クソじゃないか!!!
おじさんのことなんて考えてないだろお前!

ちょっと待てこれ、何かに似てる

……厄年じゃない?

例えばクルマを電柱にぶつけたとする。
お祓いに行ってれば、
この程度で済んでよかった!と思い、
行ってなければ、
厄年だ!と厄年のせいにする。

“なにか”にあてないとやってられないんだろう。しかも無意識のうちに。自分を守るために、クソになってでも。そうすることで穏やかでいられるならクソ万歳だ。穏やかは伝染する。

ただ、舌打ちはよくなかった。
あとやっぱり、おじさん前見てほしい。

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